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信仰の現場 [よしなしごと]

chnpkさんの科学とニセ科学の違いってそんなに重要か?と云うエントリを読んだ。面白かったので言及。

私が「わからん」のは、突き詰めると科学とニセ科学と宗教の違いだ。3つとも同じに見える。要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において。
あるひとつの視点を設定して、その角度から見ると同じに見えると云うことはまぁ、あるでしょ。そのことはべつに不思議ではないけど、でもその視点のみから見た理解で平然と「わからん」とか云ってしまえるのはまぁずいぶん自信をお持ちなんだなぁ、と思う。そもそもどんな議論の文脈が存在しているのかをご存知なら、要は人間が信じるか信じないかと云うような問題ではない、と云うこともお分かりいただけるんではないかと思うのだけれど、そう云う「自分にとっての見え方」以外の視点については意義をお認めではないようで。
宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。
この過ぎないって言い回し、便利だなぁ。要するにこの方がお持ちの(ご自分では絶対の信頼を置いていらっしゃるらしい)視点からみるとそう云う解釈しか出てこない、と云うだけのことのように見えるんだけど、なにかしら普遍的なことを云っているように聞こえるもんなぁ。
下に書いてある通り、科学は科学的ではない。
言及先におけるWikipediaの引用部分ではそう云う意見もあると云う書き方になっている。で、chnpkさんがお持ちの意見もそれと同じだ、と云うことなんだろうか。ご自分の意見はお教えいただけるのだろうか。そもそもそれを「自分の意見」として把握してらっしゃるんだろうか。漠然と自分で感じていることを絶対視しているだけではないんだろうか。
私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。
おぉ、また過ぎないが登場。
この私の認識とやらがどんな強固な立脚点を持っているものなのか興味がある。ある事柄を過ぎないと云って切り捨てられるくらい信頼性の高いものだ、と云うことを言外にお示しのようにも思えるけど、逆にこの文章は当の私の認識に対する盲目的な信仰の告白に過ぎないようにも読める。どうかな。まぁ当の私の認識と云うのがどう云うものなのかお示しになっていないのでこの辺は憶測にしかならないかも知れないけど。
とりあえずどのような認識からすれば擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎないと云う理解が導かれるのか、そこのところを開陳していただければありがたいな、と思う。まぁこのエントリも多分放言を楽しんでいらっしゃるだけなんだろうから、とくに期待はしないですけど。

まぁごちゃごちゃ書いて来たけれど、要するにこのひとの考え方は、ものごとの評価は「信じるかどうか」にかかっている、と云うことなんだろうな、と推測する。で、「どんなものでも『信じているかどうか』で評価が決まるゆえに『信じて』しまえばそのあいだには相違はない」と結論してるんだろうな、と思う。なにが根拠かと云うと「自分にそう見える」からで、つまりは「自分の見え方を自分が『信じて』いるから」と云うわりと素朴な認識にあるらしい。個々の信じるところが違う以上、そこには原理的に差異は生じないはずだ、みたいな。

ただ、こちらにも書いたけれど、方法としての科学と云うのはその(あくまで属人的に発生する)差異を乗り越えて理解を共有するためのもので。まぁ、現在のご自分の認識を信仰されている限りは、このあたりはご理解いただけなくても仕方ないかな、とは思うけどね。
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TAKESAN

今晩は。

はてブがかなり伸びていますね。ちょっと意外でした。

色々な物事には、探せば共通点はある訳で、それで括って同じもののように論じるのは、慎重になりたいものです。

もちろん、科学を信仰という点から論じるのは、人文科学的にも重要なのだと思いますけれど、科学とニセ科学についての議論は、実証というプロセスに深く関わってくるものでもあるので、そこをすっ飛ばしていきなり強い相対化を試みるのは、筋が悪いと思っています。

科学と宗教の大きな違い、実験や観察によってデータを集めて理論を確かめていくか否か、というのは絶対無視出来ない所ですね。それをも相対化すると、かなり極端な主張になってしまいますし。
by TAKESAN (2008-11-15 18:39) 

pooh

> TAKESANさん

ある視点からみると同じに見える、と云う云い方って、それが「どの視点」からなのか、と云うのを示さないと、じつはなにも云ってないことになっちゃうんですよね。もちろん、「科学信仰」と云うのは(比喩的な云い方としても)存在していて、それはニセ科学を批判する場合においても重要なファクターではあるんですが。

なんかですね。このような言説の背景にひとつあるのは、漠然かつ強烈な「オレ信仰」なんじゃないかな、と云う気がするんですよね。
by pooh (2008-11-15 18:49) 

たざき

当たり前すぎる論点として「宗教や魔法やおまじないや気合いでは、携帯電話はつくれない」ということがあるわけですが、そういうことについてはどういうご意見なんでしょうね? (この方がというより、こういうことを主張される人たちのうちの何割くらいが「科学じゃなくてもそれなりの携帯電話はできる」と思っているのか知りたい気はします。)
by たざき (2008-11-15 22:53) 

pooh

> たざきさん

その論点って、なんとなくうちではこの辺で議論していたこととつながってくるような。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-29
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-31

で、そのときのケーススタディから推測すると、「携帯電話は科学信仰をしているだれかがつくるもので、使う自分はその辺からフリーでいられる」みたいな考え方が存在しうるみたいです。そんな感じじゃないですかね。
どれくらいのひとがそんなふうに考えているのかはわからないですけど、漠然としたニセ科学容認の背景にはそんな意識がありそうです。
by pooh (2008-11-16 05:27) 

黒猫亭

>>「携帯電話は科学信仰をしているだれかがつくるもので、使う自分はその辺からフリーでいられる」

当たり前のことですが、携帯電話が登場する以前は、人々の暮らしに携帯電話なんか存在しなくて、それでも人々は普通に生きていたわけですね。ポケベルがあったけれど、それもやっぱりポケベル登場以前は、そんなものがなくても普通に生活していたわけです。

で、今は人々にとって携帯電話は必需品で、なくてはならないもののように感じられているけれど、在るから使っているわけで、なきゃあないで生きていけるんだよな、という感じ方が何処かにあるような気がします。実際、携帯電話なんか持ちたくないと思っていても、会社や家族や友人から強要されて持たざるを得なくなる人もいますし。

これをすべてに当てはめていくと、たしかに科学の恩恵なんてものは、「科学信仰をしている誰か」が「これって便利でしょう」と、頼まれもしないのに勝手に作ったものだ、という解釈が可能なのかもしれません。

そういうふうな世の中になっているから、選択の余地なく科学技術の成果に囲まれて暮らしているけれど、本当はそんなものは必要じゃないんだ、という感じ方というのはあるのかもしれません。本質的には、だから科学もニセ科学も宗教も違いはない、という結論には結び附きませんが、自分にとっての有用性という尺度で視る人にはそれで十分なんでしょう。

科学技術を否定すると、おそろしく不便でリスクの高い世の中になるわけですが、多分こういう方は「それで何が悪いんだ」と思っておられるのかもしれません。
by 黒猫亭 (2008-11-16 09:30) 

pooh

> 黒猫亭さん

例えば、「上下水道なんてなくても平気。あんなもの科学信仰をしているだれかが勝手につくったもんだ」みたいな方ってそんなにいらっしゃらないのではないかと思うんですけどね。
これって登場してからの時間の経過とか、生活への密着具合、と云うのも関連して来るのかも。

まぁ放言をする自由はあるわけです。ただまぁ表通りでの放言に接すれば、その放言はどんな考え方に立脚しているのか、みたいな部分に興味を惹かれたりもするんですよね。
by pooh (2008-11-16 09:55) 

黒猫亭

>poohさん

>>例えば、「上下水道なんてなくても平気。あんなもの科学信仰をしているだれかが勝手につくったもんだ」みたいな方ってそんなにいらっしゃらないのではないかと思うんですけどね。

精々想像力がその手前でストップしてるんでしょうね。

このところ、ヌケヌケと執筆活動を再開したということもあって「子猫殺し」の坂東眞砂子を想い出すことが多いんですけど、あの人は科学否定どころか文明否定なんですね。それなら彼女がイメージしている生活様態ってどんなものかと謂うと、精々前近代とか悪くすると戦前くらいのイメージなんですよ。

で、今どうやって暮らしているのかと謂えば、タヒチみたいなヌルい人工の楽園に住んでいて、道端に落ちているニワトリの死骸を拾って自分で捌いて喰ってるとか威張っているんですね。で、そのくせ最近パペーテまで用足しに出ると道が渋滞して腹が立つとか言ってるんですよ。文明否定のくせにクルマ使ってるんじゃん(笑)。

文明否定とか言いながらタヒチみたいな孤島で何不自由なく安楽に暮らせるということが如何に文明に毒されたことなのか、朝晩何時間も歩いて水汲みに行かなくて済むということな如何に不自然なことなのか、熱帯で伝染病や食中毒を起こさずに暮らしていけるということが如何に贅沢なことなのか、そもそもニワトリなんて家畜がどんなに文明的な存在か、というか、自分自身が作家で喰えるということがどれだけ文明に恩恵を負っているか、そういう想像力がないんですね。

まあ、結局そういう種類の想像力の欠如というのは、マトモな人から見れば笑いぐさなわけですが。
by 黒猫亭 (2008-11-16 19:17) 

pooh

> 黒猫亭さん

ちょっと話を違えてしまうかもしれないんですけど。

想像力がどこまで届くのか、と云うのは、とても大きなテーマだと思うんです。もちろん、誰も無限の想像力なんて持っていないし、それを支える無限の思考力や情報収集能力も持っていないんですが、それでもどこまで自分の想像力が届いているのか、あるいは届いていないのか、と云うのは意識しておく必要はあるのかな、と。
このエントリで言及したchnpkさんは、まず「私の認識」と云うのを足がかりに「わからん」と言い放ちます。そこに欠けているのは想像力かもしれないし、思考力かもしれない。情報を持っていないことかもしれない(TAKESANさんが指摘したのはこの部分ですね)。でも、それはともかく所与のもの、と認識しているように思えるんです。想像力が届かない、その想像力を支えるものを欠いている、そう云うことが理解の混濁につながっているのかもしれないのに、それは「そう云うもの」として、意識さえしない。
こう云う部分が、ぼくなんかの角度から見るとニセ科学の問題に強く結びついているようにも思えます。

例えば、ぼくはNational Geographicのこの記事を読んで、エントリを起こそうとしました。でもどうしても書けなかった。論じるにあたって立脚できる、自分の保つべき視点を、どうしても見いだせなかったからです。

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=29078080&expand

これはぼくの想像力の限界でもあり、また判断するために保有している情報の限界でもあります。
でも、ぼくはいろんな事柄をここで論じるにあたって、ちいさな限界をいくつか乗り越えてきたし、今後もそうすべきだと自分で思っています。
by pooh (2008-11-16 21:31) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

「請求が来たときに、それがまともな督促か架空請求かの違いはそれほど重要か」と問いかけられた感じを受けますね。

現実に契約が成り立っていて、権利義務関係が発生している時に義務を果たすことを求める督促を受けるのと、契約が存在せず権利義務関係は発生していなくて、存在しない義務を果たすことの督促を受けるのとは、実のところ、督促を受けているという事象においては違いはない訳です。

まともな督促でも「身に覚えが無い」と支払いを拒む人がいますし、架空請求でも「何かやってしまったのかしら」と支払う人がいる。その部分を考えるなら、権利義務関係の発生と言うことの確認すら本来不要であり、「払う必要はない」と信じるか「払うべきなのだろう」と信じるかの違いに過ぎないという見方だって可能になるわけです。

しかし、大事なのは、督促があったという事実でもなく、権利義務関係の発生を信じるかどうかではなく、実際に権利義務関係の発生があったかどうかにある訳ですけどね。

by 技術開発者 (2008-11-17 08:16) 

alice

お久しぶりです。aliceです。

黒猫亭さんの「携帯電話がなかったとしても現代生活は営める」という趣旨のコメントに対し、poohさんが「上下水道」を対比させたところにちょっと違和感が。
携帯電話は近代科学がなければあり得なかったでしょうが、上下水道は7千年も前に発祥しています。人間らしい生活に対する必要性が根本的に違うのでは。


by alice (2008-11-17 16:11) 

pooh

> 技術開発者さん

ここまで来てしまうとこれはもうある意味、それこそ「考え方」と云う話になってしまうんだとも思うんですよ。で、その「考え方」には余人は口を挟めない。内側で考えている分には、ですね。あとは、そこと社会性のすり合わせ、みたいな議論になってしまう(法律によってアウトラインが定められているわけではないですから)。
まぁそれ以前に「その考え方でいいの?」みたいなレイヤーでの議論があるべき、みたいには思うんですが。
by pooh (2008-11-17 22:34) 

pooh

> aliceさん

これは、根本的には違わないと思います。違いがあるとすれば、ぼくらは携帯電話のない生活を覚えているけれど、上下水道のない暮らしは覚えていない、と云う点くらいで。
その意味で質的に違うものだとは思いません(どちらも「科学技術」の産物ですし。逆に、そこに質的な違い(もしくは同一性)を見出すかどうか、と云うのがむしろ想像力の問題なのかな、とも考えますが。

ただまぁ、黒猫亭さんのたとえに含意としてあった「魔術性」みたいな部分は、捨象してしまうことになったかもしれません。その意味では、適切な言い換えではないですね。
by pooh (2008-11-17 22:37) 

apj

 ウチでもエントリーをあげてみました。
http://www.cml-office.org/archive/1226948122175.html
むしろ、ブランド品をどう管理するかという切り口の方がすっきりするような。
「科学」って言葉に惑わされすぎのように見えます。「ヴィトンのバッグ」と置き換えると、ニセをどう扱わなきゃいけないか、よくわかるような。
by apj (2008-11-17 22:50) 

pooh

> apjさん

読みました。
明解な正論だと思います。受け手、と云う視点からは、まったくお書きの通りです。

ただまぁ、社会科学的な観点からいくと、「ブランドの形成とその価格への転嫁のしくみ」とか「商業的に見たブランド品とニセブランド品との違い」みたいな観点からの考察がでてくるわけで(へんなたとえに見えるでしょうけど、じつはぼくなんかのニセ科学についての議論からするとそんなに横道でもない)。わざとややこしくしようとしている訳ではないんですが(^^;。
by pooh (2008-11-17 23:06) 

きくち

科学と魔法の区別がつかないということはあるのでしょうが。携帯電話もコンピュータも魔法で動いているのだという考えかたはあり得ます。我々が「科学の成果」だという気になっているだけでね。もちろん、そんな考え方に意味はないけど
 
科学は信仰なんですよ。「今日成り立っている法則は明日も成り立つ」という証拠も根拠もないし、論理的にも正当化されません。ただ、我々は「前日成り立っていた法則は、翌日も成り立っていた」ことを経験的に知っていて、それにもとづいて「だから明日も成り立つであろう」と信じるわけです。そして、その信念は日々の経験によって強化されていきます。
「今日成り立っている法則が明日も成り立つとは限らない」という世界観の人がいるとしたら、それは論理的には正しいので、好きにしてもらうしかありません。ただ、そのような世界観を貫けるものかどうか、僕にはわかりませんが。

by きくち (2008-11-18 18:20) 

pooh

> きくちさん

これですねぇ。「科学は信仰である」と云ったときに、その「信仰」と云うのがどう云う意味を持つか、どう云う意味合いがこめられているか、と云うことについて、精度をごっちゃにしたまま論じたがる向きがある、と云う問題でもあると思うんですよ。「信仰だから宗教とも呪術ともおんなじじゃん。信じてるって点じゃニセ科学ともおんなじじゃん。みんないわしの頭じゃん。いわしの頭のくせに、なに偉そうに批判とかしてんのよ」みたいな。

こう云うことは正直いくらでも云えるんですよ。で、そう云うことを云うことが意義を持つ局面も確かにある。あるけど、ここではその部分を論じてるの? 文脈違わない? みたいな部分もあって。ぼくみたいな議論の周辺部にいる人間は、裾野としてそのあたりの議論をピックアップすることもあるわけですけどね。

このエントリで言及したchnpkさんも、実際にはその意味ではまちがいなく科学に対する強い信仰を持っているわけです。言及先のエントリを入力するためのデバイスが、呪術や魔法で動いていると思っていない限りは。で、そう云うところまで考えないで、先に書いたみたいな視点で平然と思考してしまう。「自分の視点になんて強固な自信をお持ちなんだろう」みたいに書いたのは、そう云う部分です。

言及先のエントリについては多数の反応が見られましたけど、そのなかにLhankor_Mhyさんのこちらのエントリがあります。

http://d.hatena.ne.jp/Lhankor_Mhy/20081115/1226752047

このエントリの結語に、ぼくは深く同感します
by pooh (2008-11-18 22:05) 

TAKESAN

今晩は。

きくちさんの仰る意味では、科学は信仰的である、というのは確かなんですよね。自然の斉一性を前提としているし、帰納的推論を用いているし。非専門家は専門家の言う事を「信じている」という面は確かにあるし。
正当化としては奇跡論法などが用いられたり(私は、これはかなり重要だと思ってますが)して、科学哲学的に議論が繰り広げられている訳で。

で、ニセ科学論というのは、もっと狭いと言うか、限定された場での話題なんですよね。実証のプロセスであったり、実験や観察はきちんと出来ているか、という話に関わってくる。

であるのに、そこら辺を無視していきなり科学と信仰との共通性を見てメタ論をぶつというのは、端的に言って論点の捉え違いだと思う訳です。

メタ論であるなら初めからそういうテーマとしてやればいいんですよね。その観点から議論すれば良い。

でも、メタ論をやっているのに、科学哲学的な議論がほとんどなされていないのは何なんでしょうね。科学と疑似科学との境界設定問題とかは、科学哲学上で最も議論が交されているはずなのに、そこら辺を踏まえないのは微妙だと思ったり。今の所、(日本人だと)伊勢田とか戸田山とか内井とか、そこら辺の名前を全く見ないですね。特に伊勢田さんの本なんかは、ニセ科学の話題でもよく出るのに…。

最近よく書くんですけど、「中の人が気付いていない事を外から指摘出来た」かのように思い込んでいるのがかなりあるんじゃないかな、と。

dlitさん風に言えば、専門家なめるなよ、という話なんですが、それを言うと、傲慢だとか埋没的だとか言われそうで何だかなあ、です。
by TAKESAN (2008-11-19 01:05) 

TAKA

若いころは、「科学とニセ科学と宗教」から、果てしなく遠い場所に立っていました。今の私は、いかに過去の自分が無知であったのかを、改めて認識している次第です。科学を学ぶにつれ、宗教との違いも見えてきたような気がします。
自らの足で歩んで近寄り確かめない限り、いつまで経っても同じものに見えるのでしょうね。

「別にいいでしょ。区別がつかなくったって。私の生活が変わるわけでも無いし。」と、のんびり構えていると将来、「この煙に包まれるしかないな。」と言って、浦島さんから貰った玉手箱を開ける事に成りそうです。
by TAKA (2008-11-19 03:43) 

pooh

> TAKESANさん

結局のところ、どこから俯瞰するか、どこまでを視野に納めてなにを捨象するか、と云うのはあるわけですよね。ぼくなんかはTAKESANさんより通常メタ寄りの議論をする傾向があるので(これは関心の角度の違いですね)、逆にそのあたり鋭敏になる必要はつねづね感じているわけで。
おっしゃるような部分は基本ですよね。まず最初に、念頭においておかなければいけない。

> 「中の人が気付いていない事を外から指摘出来た」かのように思い込んでいる

きくちさん流に云えば「おとななんだから」と云う話になるかと。
実際のところ、今回それなりに議論が広がったなかでも、これまでにないほんとうに新しい視点からの意見、と云うのはほとんどなかったんですよね。まぁこれは仕方のないことで、あきらめて「云いつづける」ことしかないのかなぁ、みたいにも思うんですけど。
by pooh (2008-11-19 07:42) 

pooh

> TAKAさん

こう云うふうに議論が広がると、TAKAさんの立ち位置からしか見えないこと、とかもあるんじゃないか、とか思ったり。

> 自らの足で歩んで近寄り確かめない限り

そこが面倒だ、と云うのはあるんでしょうね。気持ちはわかるかも。
by pooh (2008-11-19 07:45) 

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