SSブログ

生態系サービス [よしなしごと]

Wired Newsの「環境破壊による損失は年間500兆円」:研究報告と云う記事を読んだ。

これ、ねぇ。

[2006年にイギリス政府の依頼にこたえて発表された]スターン報告は、英国の経済学者Nicholas Stern氏が発表した影響力のある報告書。気候変動に何の対策も講じなかった場合の損失額は、二酸化炭素の排出削減を厳格に推進した場合の費用を上回ると主張している。

1997年に『Nature』誌で発表された、同じく影響力のある別の論文も、世界の生態系サービスの価値を[1年あたり]16兆〜54兆ドルと見積もっている[生態系サービスとは、生態系に由来し、人類の利益になる機能(サービス)のこと。なお、この論文では、人為的な経済活動による世界総生産は年間約18兆ドルと見積っている]。

このあたりの話って、実はぼくのなかではこちらで書いたようなこととつながってくる事柄ではあるんだけど。

でも素で無防備な云い方をしてしまうと、ぼくだってこう云う角度からの理解によってこぼれ落ちてしまうものがたくさんありそうな気がやっぱりして、なんとなく反発を感じてしまうもんなぁ。とか考えると、間に合わせの粗々な議論をくっつけた「善意」ってのがどの辺から生じてくるのか、なんとなく理解できる気がしてくる。まぁ理解できたからと云って、すぐに適切な対処方法が見つかる、と云う話ではないんだけれども。
nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 4

黒猫亭

この辺りの問題というのは、以前オレのところでも論じられたことがありますけど、地球環境問題は倫理とまったく関係がないわけでもないですよね。ただ、「何が問題なのか」と問う場合には、こういう事柄が考えられなければならない。そういう意味では選れて現実的な問題ではあるわけですね。

その一方で、やはり善意や倫理というものもまた無関係ではないわけで、地球環境問題における倫理と現実的事情の関係性や概念的な構造を考えることも必要なんだろうと思うわけです。善意や倫理というものを考えた場合、地球環境問題に限らず「この世界を倫理的に完全なものとすること」を目的視して現実問題に当たることは、やっぱりいろいろな間違いの元にはなるわけでして、飽くまで「現実的にこういう困ったことがあるから何とかしなければならない」というのが目的視されるべきなんだろうと思います。

そこが直結されてしまって、「この世界が倫理的に完全じゃないから困ったことが起きるのだ」となるとやっぱり違うだろうと思いますし、「倫理的な問題をコレクトすれば現実的な困難は解消する」という、まあ論理的に考えて筋違いな方向に意識が向かう危険性があります。

しかし、所謂エコロジーが一般に経済原理に代表される実利主義のアンチみたいな捉えられ方をされている以上は、地球環境問題に対処する行動のモチベーションとしては、今のところ善意や倫理によるものしか期待出来ないわけで、そこが問題を難しくしているのかな、と。さらに、地球環境問題が世界のデザインに関係している以上、そこに倫理が組み込まれていないのはやっぱり不完全なわけですが、本質的には現実的な問題である以上、倫理や善意一辺倒ではまずいわけですね。

今回採り上げられたような事柄は、地球環境問題をさらに実利主義の文脈に組み込んで整合するように考えようという試みではあるわけで、たしかにそこは押さえる必要があるだろうとは思うんです。オレが以前自分のところで語ったことも、「本質的にはそういう問題なんだという意識を持とうよ」という話ですが、コメント欄で延々語り合ったことというのは、本質的な目的が実利主義的な問題だとしても、それを行うに当たっては倫理が必要だという話でしたし、どっちか一辺倒ではダメなんだということでした。

いろいろ考えると、やはり善意や倫理が目的視されるという、一種の概念的な倒錯がいろいろな場面で起こっていて、さらに「倫理か実利か」みたいな二項対立がでっち上げられていて、それが問題をややこしくしているということなんではないかと思います。
by 黒猫亭 (2008-10-15 06:56) 

pooh

> 黒猫亭さん

ひどく大きな話になるので精度の高い判断は難しいのですけど、ここでときおり技術開発者さんなんかがお書きのように、実際のところ道徳も倫理も本来は実利的なもんなんだろうな、みたいには思うんですよ(これ、ちょっと「思う」以上のことが云えなくてもどかしいんですけど)。

> エコロジーが一般に経済原理に代表される実利主義のアンチみたいな捉えられ方をされている

なのでこれっておかしいよなぁ、みたいにも思うんですけど、思ったからと云ってどうするか、と云うとこれがまた。今回、自分のなかにあるバイアスをはっきりと見てしまった、と云うことだったのでした。
by pooh (2008-10-15 07:42) 

黒猫亭

>poohさん

>実際のところ道徳も倫理も本来は実利的なもんなんだろうな、みたいには思うんですよ

これは以前ウチでちょっと話題に出て、道徳教育の問題に絡めて亀さんのところに書こうかと思っていた話なんですが、殺人禁忌なんてのは倫理でも道徳でもないですよね。倫理によって殺人が禁じられいるのではなく、殺人禁忌がまずあってそれを巡って殺人の倫理が存在するという階層になると思いますし、強いて謂うならそれは、血縁共同体以上の単位の共同体や社会が成立する為の最低限の決め事ということになるでしょう。

人を殺しては何故いけないのかと謂えば、自分以外の人間が常に自分を殺し得る可能性を持っているなら、人と人は一緒にいられないし、自衛の為に常に大きな労力が必要となれば、人と人が一致協力して何事かを為し得なくなるからでしょう。

そういう意味で、殺人禁忌というのは社会の発生と共に社会を成立させる為に欠くべからざる第一原理として確立されたものなのだろうし、原初的な段階では個々人の間や血縁共同体間における一種の休戦協定に似たようなものだったのではないかとオレは考えています。つまり、休戦協定である以上は、その協定の締約者同士で構成される社会の外にある存在は殺しても構わない。

社会の外にある存在なら殺しても構わないという考え方は、人類史の中でつい最近まで主流だったもので、アウトローなんてのはそういう存在ですよね。この者は罪を犯して社会を逐われた存在だから、出会い次第殺して差し支えない、それがアウトローです。

そういう意味で殺人禁忌というのは倫理ではなく社会的な規律としてまず出現したもので、倫理というのはその禁忌を巡る具体的規定として発達したものという順序になるでしょう。これを逆に謂うと、倫理が規定しているのは「殺人はいけない」という原則ではなく「原則いけないけれど、どんな場合なら殺しても好いか」を規定する規範だと謂えるでしょう。これを端的に示すのは、「殺人者は殺されねばならない」という旧約の律法ですね。

旧約の神は「復讐するのは自分の仕事だ」としておきながら、「罪人は神が殺すから如何なる場合も人間は人間を殺すな」と命じたわけではなく、人間に対して「殺人者は殺せ」と命じているわけです。それは倫理であり同時に法律でもある律法として社会に与えられ、殺人者を殺すことは復讐ではなく神の下し置かれた秩序を守ることだというのですね。これが非常に原始的な形の倫理だと思うんです。

殺人は勿論いけない。しかし、そのいけないことをした人間が必ず人間によって殺されなければならないというのは、大いなる矛盾ではあります。これは死刑存廃論なんかも絡んでくる問題ですが、ひとまず発生段階においては、神がいて神がもたらした絶対の律法というものがあって、殺人者は殺して好い、殺すべきだと定めているわけですね。

そういう意味で、倫理というのは、或る現実的な事柄に対処する人間の行動規範や心の在り様を定めるもので、それ自体が目的ではないはずなのですね。倫理を全うすることが正しいのではなく、何事かを為すに当たって、その行いが正しくなければならないという要請において倫理は必要とされるはずだと思うんですよ。

地球環境問題は、人が解決に向けて努めなければならない。しかし、どんな形で解決しても好いというのではなく、倫理的に正しい形で解決されなければ意味がない。非生産的で社会的価値のない穀潰しを片っ端からひっとらえて処分したり、国際経済にとって価値のないお荷物弱小国家を滅ぼすような非道な形で解決を図ってはならない。そういうことなんではないかと思うんですよ。

で、オレの場合、これは何処でどんなことを論じる場面でもそういう考えが下敷きにあるんですが、正しく在ることそれ自体が目的視されるといろいろ突出した間違いが起こるわけで、何事かを為すに当たって、それが正しくあるべきだという意味で正しさを求めるのが、倫理というものとの相応の距離感なのではないかと思います。
by 黒猫亭 (2008-10-15 11:15) 

pooh

> 黒猫亭さん

こう云う話になると、生齧りの構造主義を持ち出したくなるんですが、恥をかきそうなのでやめておきます。

> 倫理というのは、或る現実的な事柄に対処する人間の行動規範や心の在り様を定めるもので、それ自体が目的ではないはずなのですね。

そう思います。いやこれ、倫理はいかなるものをその源に持つのか、と云う話にもなるので、ちょっと不勉強で議論に躊躇してしまうんですが、本来その倫理を共有する共同体の存続を危殆に瀕せしめるような倫理、と云うのは成立しないはずなんですよ。とは云えまぁ、それは共有されるものなので、外的環境が変化した場合につねにそれにリニアに対応して変化する、と云うものでもない。倫理、と云うのは共同体内で自己目的化する性格を利用して機能してきた、と云う側面もたぶんあるのでしょうし、そこはそれほどわかりやすい話ではない。

ただ、(自然・人文・社会含め)科学と云う「共有された倫理の外から世界を見る」と云う方法がいまはあるわけですよね。で、多分そこに矛盾が生じた場合には、倫理のほうが変わらなければいけない。もちろんそこには(ぼくも含め)内的な軋轢は生じるわけです。それこそ、仕様として。

で、やっぱりぼくらが希求するのは、どちらにも引きずられない「正しさ」で。そうシンプルにはいかないにしろ、そこにコモンセンスを立脚させるべきなんだろう、みたいに思います。
by pooh (2008-10-15 22:38) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。