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「わかる」ことと「わからない」こと [世間]

とりあえずこの土日で、船井幸雄オープンワールド2008が実施されたらしい。newmoonakikoさんがフナイオープンワールドと云うタイトルでレポートをお書きになって、そこでの江本勝の講演に触れている。
正直どこまでが江本氏の語った内容の持つニュアンスで、どこからがnewmoonakikoさんの解釈と想いなのか微妙な部分はあるんだけど、ご本人は編集者と云うある種表現者の場所にいらっしゃる方のようなので、その部分は斟酌すべきではないんだろう、と考えて言及。

科学的根拠が権力になることにヘキヘキしている私などは、日本物理学会やマスコミに総反撃されている「水からの伝言」の著者江本勝さんには同情してしまう。
あんまり総反撃されているようには見えないのだけれど、それはそれとして。科学的な根拠をにおわせる発言を繰り返しているのは江本氏の側なので、その部分に瑕疵があると判断されれば反論が来るのは当然だと思うのだけれど。
「水は言葉がわかるという事実を私は言ってるだけ。このファンタスティクな事実を通して、水の大切さ、言葉の大切さを世界に広めている言ってみれば、アーティスト。なぜかを考えるのが、学者でしょ」と憤懣やるかたない表情で話した。
事実を主張するのなら主張した側にその事実を証明する責任がある、と云うのは原則で、尻拭いを学者に持っていけばすむことではない、と云う話はまぁ措いておくとしても(それは科学のルールであって、アーティストはそのあたりには責任を負わなくてもいい、と云うのがこの主張の主眼なのだろうから)。アーティストの仕事が、いつから事実を通して伝えたいことを広めること、なんて云う矮小なものに縮小されたんだ。事実を通してしか伝えたいことを伝えられないような輩がアーティストを自称するのはそうとうおこがましい気がするがどうか。
いや、事実、と云う言葉の定義が違うのかな。そんなところにオレ定義を持ってこられても傍目には意味が通りませんが。
テレビも公平さを欠いた報道で、波動=エセ科学という魔女狩に加担している。この世には、わからないこともまだまだたくさんあるのだ。
これはたぶんミヤネ屋の例の特集を指しているんだろうけれど、そうだと仮定すれば、コメントを求められて応じなかったのは江本氏サイドであって。
この世には、わからないこともまだまだたくさんあるのだと云う見解には同意するし、すべてを科学的根拠によってわかることができる、とも思わない。そんなの改めて主張するまでもなく当たり前で、そんなことはふつう科学者も主張しない。でも江本氏は実験で証明されたファンタスティクな事実だと云っているのだから(そしてそれを「水からの伝言」そのほかのなかで主張する自説の基礎としているのだから)、なにがしかのことは「わかっている」はずでしょ? で、newmoonakikoさんもその主張のなかのなにがしかの部分について「わかっている」から擁護しているわけで(なんにもわからないけどともかく擁護、と云うのはあるかもしれないけどまさかそんなことはないだろうし)。じゃあなにが「わかって」いるんだろう、と云う話になる。
で、江本氏の主張の基盤は、本人が「わかっている」と主張している、その当のファンタスティクな事実にあるわけで。その部分に対して「どうしてわかっているの? そのやり方ではわからないはずだよ」と云うのを問われているのに、わからないこともまだまだたくさんあるではさっぱり反論にもなにもならない。
あとついでに。編集に従事されているのなら、「魔女狩り」と云う言葉を使うにあたってはちゃんとその意味を把握しておいて欲しいな、と思う。
「水からの伝言」は科学書ではない。世界に通用するすぐれた読み物であり、教育書だと思う。
思うのは勝手ですが、なんでそう思うんでしょうか。「感性」かしら。
彼女は、とてもよい本なのにと残念がっていた。江本さんの話では、大分県である教師がこの本を読んだら、教育委員会から「だめ」だというお達しがきたそうである。まさか、小田原市の教育委員会がそのような動きをしているとは思えないが。「水からの伝言」は科学書ではない。世界に通用するすぐれた読み物であり、教育書だと思う。そろそろ、目に見えないものを信じる時代がきているのに。
目に見えないものを信じるのはぜんぜん構わないと思うんですけど、どうしてそれが「信じられる」と判断できて、あまつさえ教育にまで取り入れるべきだ、と考えられるのか、その部分を示してもらわないと、余人には「盲信」とか「狂信」とか云う代物に見えてしまうわけなんですけどね。わからないことだから、でも(わからないけど)信じられることだから、いいんですか?
わからないことを信じるのは勝手だしそれ自体は悪いことでもない。でも自分でもわからないことを、その信ずべき根拠をわからないとしたまま、教育に取り入れるべきだって主張するのはどうよ。それってどれだけ無責任な主張なんだ(道徳的にはいい、と云う主張についての反論はなんども書いているけれど、とりあえず今回はここいらあたりにリンク)。
ただ、このオープンワールドの先生方、なんであんなに大声だすんだろう?あんまり、いい波動を感じないんだよね。
ちょっと笑ったけど勉強になった気もする。この方たちのおっしゃる波動と云うのは、声の大きさやしゃべりかたで伝わるなにものか、らしい。あぁ、言葉がアプリオリに備えているもの、と云う解釈からすれば当たり前か(いや、そんなはずはないぞ。書き文字にさえ「波動」がある、と云うことになってるんだから)。

ところで、上の引用部分に大分県GJな話が書かれているけれど(小田原市在住のかたは、もしこのエントリをお読みなら、注意されたほうがいいみたいですよ)、この「大分県が水伝授業を断った」と云う話は江本氏側、あるいは水伝支持者のあいだではけっこう引き合いに出されているらしく、「サンガの森」さん(ハンドルネームがわからない)の魔女狩り!と云うエントリでも触れられている。
科学的根拠というひとつの「権力」が
マスコミも取り込んでの「魔女狩り」を行っているかのような図。
適当な図式を恣意的に持ってきてあてはめて、その図式の分かりやすさだけで判断するのは如何かと。
って云うか「魔女狩り」と云う言葉の意味がわかってないひとは頼むから二度と使わないでほしい。語感が強くて都合のいい構図を設定しやすいから、適当に使いたくなる気持ちはわからなくもないけど。
この稚拙な「科学的根拠」というものが、
一体どれだけの価値や効力があるというのだろう・・・?
少なくとも、有形無形であなたの日常生活を支えてます。あなたがそのことを意識せずに暮らせて、水に感謝したりしていられるくらい、それはもう空気のように。べつに科学に感謝する必要はないけれど、そこんとこの認識をすっ飛ばして稚拙とか云わないほうがいいんじゃないかな。
「水からの伝言」がすばらしいとかナントカ言ってるんじゃない。
「こういうものを読み聞かせては困る」とナンクセを付ける教育委員会。
 付け届けで下駄を履かせて合格者を量産していたトンデモ教育委員会が
 一方で「科学的根拠」という「権力」をかさにきる。
「水からの伝言」がすばらしいとかナントカ言ってるんじゃないんならナンクセだって判断する根拠はなにもないんじゃないかと思うけどどうかな。それこそ難癖ってんじゃなかろうか。あと下駄履かせ事件は(それはそれで小さい問題じゃないにしても)この際関係ないだろうよ。
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newKmaer

> って云うか「魔女狩り」と云う言葉の意味がわかってないひとは頼むから二度と使わないでほしい。

 激しく同意。どこまでも本気で魔女狩りの本当の構造と問題点を分析してからにして欲しい。
by newKmaer (2008-10-15 09:46) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。なんとなく、前に書いたたとえ話をブラッシュアップしてみたくなりました。

自然科学というのは「自然現象は人の思惑と無縁に起こる」という事で成り立つわけですし、そして自然科学を利用した技術というのは、それを根底におくから、社会に利便性をもたらします。

例えば、あなたが「麻薬をやっているのではないか?」と疑われて警察に任意同行を求められたとします。でもって、オシッコを任意で提出されたとしましょう。そのオシッコは科学的に分析され、麻薬の代謝物があるかどうかを分析されます。そのとき、周りの人間が「こいつは絶対やっているよ、出るはずだよ」と思い、そのように言いながら分析しても、麻薬をやっていない人のオシッコからは代謝物は出ません。少なくとも、裁判で証拠となるほどの代謝物は決してでません。逆に周りの人が「この人絶対やっていないよね。でないはずだ」と分析しても、数日前までに麻薬をやっていれば代謝物は出ます。多くの場合裁判で証拠となるだけの量が出ます。こういう話が成り立つ元こそが、「自然現象は人の思惑と無縁に起こる」という事なんです。

なんてたとえ話ですね。
by 技術開発者 (2008-10-15 10:50) 

あめふりぼし

>目に見えないものを信じる時代がきているのに。

本当に、この人が「見えないのに信じる」って言える根拠を知りたいですね。
こういった人たちって、学者や識者の言うことは否定するのに、プレアデス人や怪しげな学位を持った人とか(こういうときだけは権威に素直に従う)の言うことは簡単に信じちゃうんですよね。
その辺の思考回路がどうなっているか、知りたいです。

まぁ、ビリーバーというのは自分の信じたいことだけを信じる人たちだと思うので、しょうがないんですけどね。
やっぱり、同じ世界に住みながら違うものを見ているのでしょうか。

>少なくとも、有形無形であなたの日常生活を支えてます。あなたがそのことを意識せずに暮らせて、水に感謝したりしていられるくらい、それはもう空気のように。べつに科学に感謝する必要はないけれど、そこんとこの認識をすっ飛ばして"稚拙"とか云わないほうがいいんじゃないかな。

ほかのニセ科学批判系の(十把一絡げですいません)ブログなんかでも誰も言っていない「科学万能論」を周期的に批判する人が出てきて議論がループしてしまうんですが、結局は「科学という見えないバリア」に守られているが故に言えるたわごとなんですよね。
バリアの中でぬくぬく暮らしながら、バリアの存在を忘れて、挙句の果てに否定してしまうってのは、まったく本末転倒だと思うんですが。
こんな議論が存在するというのも、ある意味、幸せな国に生まれることが出来たということなんでしょうね。

by あめふりぼし (2008-10-15 11:39) 

技術開発者

こんにちは、あめふりぼしさん。

>バリアの中でぬくぬく暮らしながら、バリアの存在を忘れて、挙句の果てに否定してしまうってのは、まったく本末転倒だと思うんですが。

私はニセ科学批判の中で「リアリティーの欠如」という事を言っています。なんて言いますか、我々の社会がそれなりに合理性を重んじる文化を持っているのは、安楽椅子に腰掛けて飽食しながら「合理性を大事にしよう」とできてきたものでは無いという意識の欠如です。狩猟が主体の時代に、合理的に狩りをうまくする方法を大事にしないことで飢え、時には部族の多くが飢え死にする事もあったでしょうね。農耕が始まったばかりの時代に、種まきの時期をきちんと合理的に決めなかったために収穫が減り、冬の間に何人もが飢え死にすることもあったでしょうね。そんな中で「自分たちはもっと生き延びたい」という切実な思いがあり、それが合理性を大事にする文化を育んできた訳です。生き延びるスベとして「合理性を重んじる」訳です。

「目に見えないものを信じる時代」とやらが、合理性を軽視する時代の事なら、それは、もう一度「生き延びる」と言うことからやり直す事にしかならない気がするんですね。

by 技術開発者 (2008-10-15 16:32) 

山形ミクラス

>科学的根拠が権力になることにヘキヘキしている私

素で書いたのか、何か意図があるのか、激しく気になります。
by 山形ミクラス (2008-10-15 17:38) 

pooh

> newKamerさん

端的に云って、意味の強い言葉を持ってきて、そこに漠然と漂うイメージだけでなんらかの主張をなそうとするのは、やり方としては姑息です。とは云え、こう云うあたり、「わからなくてもかまわないんだ」と主張されている方がどうお考えになるのか、ちょっとぼくにはイメージできませんが(^^;。
by pooh (2008-10-15 22:39) 

pooh

> 技術開発者さん

「事実」が「事実」として意味があるのは、それが「ひとの思惑と関係なく存在する」からなんですよね。だからぼくらも(漠然と、でも)科学技術を信頼して日常生活を送ることができる。そこを混同する、と云うのが実際にはどう云うことだと理解しているのか、と云う話ではあります。
まぁでもそこに、リアリティはないんですよ、多分。
by pooh (2008-10-15 22:40) 

pooh

> あめふりぼしさん

> 「見えないのに信じる」って言える根拠を知りたいですね。

なんか混乱してますよね。「水の結晶」を見たから「事実」だと思って信じたんじゃなかったんかい、みたいな。
いや、信じるなら信じるでいいんですけど。根拠があって信じるんならその根拠について問われれば考えてみるべきだろうし、なくても信じるんならどうして根拠めいたものが必要なのかを考えてみればいいんですけど。

> ビリーバーというのは自分の信じたいことだけを信じる人たちだと思うので、しょうがないんですけどね。

この方がビリーバーなのかどうか、は分からないですけどね。お仕事も関係しているようだし。

> バリアの中でぬくぬく暮らしながら、バリアの存在を忘れて、挙句の果てに否定してしまうってのは、まったく本末転倒だと思うんですが。

否定してもいいんですよね。肝心なのは、否定してもほんとうに大丈夫なのか、と云うお話なんですけど。
このへん、少し前になりますけれど、玄倉川さんの論考に明解なものがあります。

http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/ccdfc842d3c6f3f4f11791aab0b66709

多分、見えないものを信じる時代、って云うのは、Age of Aquariusがもとねたなのではないかと。正統派ニューエイジですね。最近来た、と云う話ではない気がしますが(ムーヴメントとしてはなんだか懐かしいくらい昔ですよね)。
by pooh (2008-10-15 22:44) 

pooh

> 山形ミクラスさん

「根拠」が「権力」になる、と云うのもまぁ不思議な論旨ですよね。権力の源泉になる、と云うのならまだ理解できなくもないですけど。
多分この方にとっては、「権力」と云うのがデフォルトで悪い意味を持ってるんですよ。だから、「権力になる」と云うのが罵倒として成立するんだと思います。「魔女狩り」の使い方といい、紋切型解釈のいちばん皮相的な(しかも都合のいい)部分で言葉を理解しておられるようです。
こう云う方、「ニセ科学批判」批判者にはけっこうおられますよね。名前は挙げませんが、根気よく活動されていらっしゃる方にはこう云う方が多い気も。言葉の大事さとやらをお水さまに頼ってこどもに教えようとかするまえに、まず自分で言葉を大事にすることから始めればいいのに、とか思います。
by pooh (2008-10-15 22:59) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>多分この方にとっては、「権力」と云うのがデフォルトで悪い意味を持ってるんですよ

昔、何かの時に「闇市の行列」なんてたとえ話をこさえたことがありました。少し関係しそうなので、ご紹介しますね。

闇市と言ってもいろいろあるけど、この場合は戦後の混乱期に秋葉原とかにできた闇市のイメージです。国家権力が定めた配給制が機能しなくなって、都会の人が上野駅から電車で田舎にいって米やら麦やらを物々交換して、それをさらに秋葉原で必要なものと交換するなんて闇市です。本来、そこには、皆さんがイメージするような権力は介在していないというか、そういう権力は闇市を潰す方向に動いていたのですけどね。でもね、闇市で人気のある物、たとえばお醤油とかですね、の前には行列ができるわけですよ。でもって、その行列を守らせる力というのはやはり働く訳です。集団の力としてね。例えば、誰かが割り込もうとする。「割り込まないで」と最初に叫ぶのは、か弱そうな女性かもしれません。その時に、行列の他の人も「そうだ、ちゃんと後ろに並べ」とどなる訳ですよ。ほとんど全ての人がね。それは、やはり集団力という権力なんですね。行列に並ぶひとりひとりが、その行列が守られれなくなれば、闇市そのものが機能しない奪い合いの場と成ることを熟知しているから、そういう集団力としての権力が生まれる訳です。ここにあるのも「リアリティ」そのものなんですよね。

by 技術開発者 (2008-10-16 16:59) 

pooh

> 技術開発者さん

こう、非常にナイーヴなことを書きますけど。

結局のところ、権力というのも一定の需要に支えられて生じたしくみじゃないですか。運用において本来の需要から離れた稼動をすることはまま生じるしそれはそれで問題視されるべきですが、それは「権力」と云うものがデフォルトで悪いものである、と云うことではない。実際のところ、ぼくらの生活はぼくらが授権した権力によって多くの部分が守られています。もちろんその実稼動の内容が授権に見合うものであるか、現状の運用が適切であるか、と云うのは別の話で、それは授権されたものがその責務に適切に応えているかどうか、と云う論点になります。
いずれにせよそれは、権力、と云うものそのものがいいとか悪いとか云う話ではなくて。

権力はつねに不当な抑圧として機能するものであり、したがって悪しきものだ、と云う紋切型の発想が、こう云う言説の背景にはあるんでしょうね。山形ミクラスさんへのレスにも書きましたが、まずはご自分で言葉を大事にしていただきたいものです。
by pooh (2008-10-16 22:01) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>権力はつねに不当な抑圧として機能するものであり、したがって悪しきものだ、と云う紋切型の発想が、こう云う言説の背景にはあるんでしょうね。

実のところ、法や権力を「悪」とする法学理論というのはあって、私はそういう法学論に染まってもいるんですよ。ただね、私の知っている法学では「悪」の中に「必要悪として人が許容するもの」があり、その範囲で法とか司法権力が成り立って居るんです。

前にもどこかで書いたかも知れないけど「完全に自由な存在」としての人間を仮定するわけです。私は無人島で1人で暮らしている時のロビンソンクルーソーを例に出したりしますけどね。彼には「自分ができることでしては成らない事は何もない」訳です。これが「完全な自由」ですね。
でもって、フライデーと2人になったときに「自分はお前を害さないから、お前も自分を害するな」という約束が生まれ、それに従うことで「完全な自由」は損なわれる訳です。つまり「できてもしてはいけないこと」が生まれる訳です。完全自由と比較すればそれは不自由な状態ですから、その束縛は「悪」ではあるのですが、彼は1人では暮らしたくないと思っていますから、その悪を「必要悪として受け入れる」訳です。
こういう「必要悪の許容」により社会がなりたっていると考える世界もあるわけです。

私は、良く皆さんから見ると「えっ」と言われる様な事を書いたりしますよね。例えば「人を嫌悪したり侮蔑すると言うことにも一定の社会的価値がある」とかね。そういう考え方の基本に「全ての束縛は悪であるが必要悪として許容される部分もある」という概念があるんです。ただ、必要悪という概念は真剣に考え、常にブラッシュアップすることが大事でもあります。

by 技術開発者 (2008-10-17 08:51) 

pooh

> 技術開発者さん

必要悪、と云うのはありますよね。でもこれ、「必要」の部分を軽視しても、「悪」の部分を軽視してもまずいよなぁ、とか思うんです。どちらかに一方的に重点を置いてそのまま紋切型の思考に塗りこめてしまったら、もう議論が妙な方向に向かってしまう。それが許容されるかどうかは、そのふたつの事柄のあわいにあるバランスで判断すべきことですから、両方をつねに視野に入れる必要があるわけで。
ちょっとこのあたり、「方便」と云う言葉をどう捉えるか、と云う話にも似ています。

原則、自由はいいもので、束縛はわるいことです。少なくともぼくはそう考えます。
じゃあ、なぜ束縛と云うものが存在するのか、と云う話ですよね。
by pooh (2008-10-17 21:58) 

ちょちょんまげ

poohさん、ひさしぶりにお邪魔いたします。
珍しくお怒りを表面に出されているようで(笑)

>この世には、わからないこともまだまだたくさんあるのだ。

まさかこれは(↑)言わないでしょって、相手をリスペクトしてるつもりで「私は科学が全て解明したなんて思ってませんよ」を省くんですよね、大抵。
で、ほんとにこのように言う人がいると、やっぱりビックリしますね。
by ちょちょんまげ (2008-10-18 09:40) 

pooh

> ちょちょんまげさん

> お怒りを表面に出されている

あれれ、そんなふうに見えますかね(^^;。

「わからないこともまだまだたくさんある」なんて云うことはおとななら誰でも知っていることなので、それは主張にもなにもならないんですよね。それを根拠になにか云えると思っているんだとすれば、それは相手(ネットの上の話ですから、この場合は世間全般)をあまりにも馬鹿にしている。

なにかを主張するのなら、少なくとも「わかっている(と思っている)こと」を根拠にすべきで。じゃああなたはなにをわかっているの? と云う話なんですけどね。

あと、言葉の大事さを言葉を使って主張しているのにその当の本人が言葉を大事にしていない、と云うのは、さすがにどうかと思ったりしています。
by pooh (2008-10-18 10:17) 

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