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うそはうそ [世間]

多分、「ミヤネ屋」で「水からの伝言」が取り上げられた影響なんだろうけど、ネット上でもこれに関連する言説がここ数日目立つ(亀@渋研Xさんもミヤネ屋「水伝批判」の放送内容など【追記あり】と云うエントリで一部リスト化されている)。
最近のここの原則として、個人としての「信じています」の表明についてはあまり言及してこなかった。でも、このような状況だと、いろいろとここしばらく論じてきたことに関係する言説のサンプルがネットの上でも見られるようになる。ので、少しサンプリングしてみる。
例えば、Cherry Crystalさんの水の結晶と云うエントリ。

私は「Water Oracle Card / ウォーターオラクルカード」というのを持っています。実はこれは江本勝さんが英語版のみで出されたオラクルカードです。番組では「これは日本語ばかりでやっているけど、英語だったらどうなんだろう」って疑問を持っている出演者がいましたが、オラクルカードは全部英語ですからねぇ。色んなことを取り上げて批判するは勝手ですが、テレビの影響って恐ろしいほど大きいから十分な調査をした上で放送しないと話題として取り上げられてしまった当事者の人達はとても気の毒だなと思いました。
このことについてのいちばんポピュラーな疑問点は、「じゃあ『Shine』って書いて見せたらお水の結晶はどうなるの?」と云う田崎教授の問題設定だと思うんだけど。と云うかこう云う話はいくつもあって、スペイン語でアホ(Ajo)はにんにくだしバカ(Vaca)は牛だ。充分な調査、以前の問題で。そうじゃなくて要するに、言葉の善悪はその意味(ひいては言葉を発したものがそこに込めた意味合い)でしか判断できない、と云う話なんだけどな。
でも、これって普通の顕微鏡でお水を見ても全て同じようにしか見えないし、成分を調べても味が変わる原因となる成分なんて見つからないと思うんですよね。
言葉の影響、と云う意味では、ぼくも見つからないと思うし、ましてや科学者ならみんなそう思ってるだろう。と云うことは端的に、Cherry Crystalさんのロジックを辿っても江本勝の「水の結晶」実験はうそだ、と云う話になるわけで。まぁ「うそでもいい」場合もあるのを認めるのはやぶさかではないけれど、うそをうそだと報道したテレビ局の姿勢はこの場合とくに問われるべきではないのではないかと。
要は言葉がもつエネルギー、言霊のことを言っているのであって、いつかは科学で証明できるかもしれないけど、現在の科学では証明不可能な未知の領域にあるスピリチュアルなことだから批判するような内容の番組を作ってしまったってことなんだろうなと思いました。
話の前後が逆で、スピリチュアルなことを「科学によって証明された」と云っているのが問題なんだけど。スピリチュアルはスピリチュアル、オカルトはオカルトで、「科学的な」根拠はない、と云う話ならそれはそれで筋が通るし、本来スピリチュアルな事柄には科学的な根拠なんて必要ないはず(そんなものを求めたり、あるように装ったりするスピリチュアルは、そこに頼らざるを得ないような脆弱さやごまかしがあるんだろう、と云うことにもなる)。
今回は教育現場で科学的に証明されていないとされることを使用していたから問題だったのかもしれませんが
いや話はもっと単純で。教育現場でうそを教えるのはどうよ、言葉を表面的な意味だけで捉えてそこにこめられているはずの想いを無視するような主張を道徳として教えるのはまずいんじゃないの、と云うことなんだけれど。この部分、同意はいただけないかなぁ。
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コメント 4

黒猫亭

>>でも、これって普通の顕微鏡でお水を見ても全て同じようにしか見えないし、成分を調べても味が変わる原因となる成分なんて見つからないと思うんですよね。

味が変わる原因は幾ら水を調べても見付からないでしょうから、多分、この方の頭の中もしくは心の中を調べるべきなんでしょう。

>>教育現場でうそを教えるのはどうよ、言葉を表面的な意味だけで捉えてそこにこめられているはずの想いを無視するような主張を道徳として教えるのはまずいんじゃないの、と云うことなんだけれど。

ここしばらく、そういうことをモヤモヤと考えているんですが、かなり難しい考察になりそうです。不毛な結論に持って行くのは簡単なんですが、何の為に考えるのか、という目的意識を維持しながら考えていくのはけっこう難しい。

今ちょっと考えているのは、「学校で教える道徳教育」って何だろうということなんですが、あんまり道徳の授業の記憶がないんですよね。なんだか視聴覚室でNHK教育の「明るいなかま」(笑)を見せられたような曖昧な記憶があるだけで。
by 黒猫亭 (2008-10-12 20:10) 

pooh

> 黒猫亭さん

> この方の頭の中もしくは心の中を調べるべきなんでしょう。

頭の中や心のなかにある要因で味が変わるのは、不思議なことじゃないんですよね。

道徳教育、と云うのがどう云うものだったのか、はぼくにもあんまり記憶はありません。ただ、道徳の教科書、と云うのはあったような気がします。ぼく個人は他の教科同様、教科書は面白く読んで授業は聴いていない、みたいなパターンだったかも。
by pooh (2008-10-13 07:41) 

TAKESAN

今晩は。

言及先にコメントを入れようと思ったのですが、どう書いたものかと思案して、諦めました。

うーむ。まず、科学や科学者に対してのイメージが当たっているのか、という所に思いを馳せて頂きたいのですが、そのイメージは妥当じゃ無いですよ、と直截に言っても届く訳は無いし…。

私はもう、はっきりと、ソシュール言語論的(ソシュールの名前を出す必要は無いのですが、自分がそれ経由だったもので)な所を教えるべきだ、と思ってます。言語の恣意性は、あまりにも重要な概念だと考えていて、そこの認識を得るか否か、というのは、決定的な点なのではないかなあ、と。
「言葉は文脈によって意味が変わる」、と触れる程度に言うのは、表面的にしか理解されないと思うんですよね。まあ、そういう事もあるよな、程度で。でも、すぐに、言葉には何かあるんじゃないか、となってしまうかも、とも思う訳で。
しかし、言語学における恣意性の概念というのは、根本ですものね。少なくとも、縦の恣意性くらいは押えておきたい所。私は、ある程度理解が進んだ時に、身体が震えるような感じになったものです。自分の言語観が破壊されましたから。

私は、水伝を知った瞬間に、これはまず言語の問題だ、と思ったので、そんな考えなのでした。ある親子の会話の水伝編を作ったのも、そういう意図からでしたし。
まあ、言うは易し、ですけどね。理解されるのが難しいのは痛感してます。
by TAKESAN (2008-10-14 00:58) 

pooh

> TAKESANさん

そこのところの悩ましさは、共有できているつもりです。
なんと云うか、「表現上の言語は差異に依存していて、なにか絶対的な意味上の根拠を持っているわけではない」と云うことは、「感覚的な実感」としてはすんなり頭に入らない。いや、ちょっと自分の使っている言葉について考えをめぐらせれば気付けることのようにも思うんですけど、少なくとも「分かりやす」くはないですもんね。どう伝えるのか。

こうやって事細かに言説を検証していくと、そのなかでなんとなく絶対的な所与のものとして扱っている事柄が、まさに語るひとの意識しない「恣意的」な取捨選択と重みづけで成り立っていることが見えてくるので、本来それだけでおのずとそのことは表われてくるんですけど、そう云うことが「ありえる(自分も行っている)」と云うことが意識できないと、伝わらない。

うまいやり方はないですかねぇ。模索を続けるしかないんですけど。
by pooh (2008-10-14 07:55) 

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