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交点 [音楽あれこれ]

日曜の晩はちょっと馴染みのジャズ居酒屋(と云ってもなんだかわからないと思うけど、居酒屋の真ん中に演奏スペースみたいなものがあってベイビーグランドが置いてある)に誘われて、飯田俊明と云うピアニストのライヴを聴いてきた。このひとのことは知らなかったんだけど、クラシックとポピュラーのはざまでいろいろご活躍のよう(公式サイトはこちら)。

クラシックとポピュラーのはざかいにいる音楽家、と云うとレコード屋で平積みになっているなんだか健康機能食品の効能書きみたいなタイトルのついたCDなんかを連想して、へんな俗っぽさを想像したりしがちなんだけど、そういう種類の音楽家ではなかった。どんなライヴなのか予備知識がまったくなかったので先入観なしに聴けたのもよかったのかも。

演目はガーシュウィンにドビュッシー、「ウエストサイド物語」から数曲にカプースチン、その他もろもろ。面白かった。
カプースチン、と云うひとは知らなかったんだけど(こちらがWikipedia日本版のカプースチンの項目)、おおざっぱに云ってジャズ的な楽想をクラシック的なかたちに落とし込むのを得意技としているロシアのピアニスト兼作曲家、らしい。とか書いてもなんだか分からないと思うけど、ライヴで聴いてみた印象は「異様に密度の高いジャズ・インプロヴィゼーション」。曲の短さも関係していると思うけれど。

ぼくはジャズは演奏できないので(じゃあ何なら演奏できるんだ、と云われるとごめんなさいなんですが)実感として分からないのだけれど、ひとくぎりのインプロヴィゼーションを時系列で見ると、そのなかには音を見つけようとする時間と、見つけた音を奏でる時間があるのではないかと思う。で、前者は後者の導入にもなるし、そう云う意味で無意味でもなければおまけでもなくて、全部を合わせてそのひとのひとつながりのプレイになる、みたいな。間、とかね。

で、それを適宜剪定して、楽譜に焼き付けてしまう。そうするとエッセンスだけを抽出した、インプロヴィゼーションのエスプレッソみたいなものをつくることができる。楽譜に書いてしまうのだから、プレイヤーの手癖や技量を超えたどんな超絶技巧だって要求できる。
ただそこにはジャズでは濃厚に臭ってくる、プレイヤーの個性みたいなものはなまの状態では残らない。楽譜に焼き付けられる段階で、いったん蒸留されて楽想の構成要素のひとつになる。再現されるべき要素に。
そこで失われるものがはたして無駄なものなのか、それともそこにこそ音楽があるのか。——じつはこれって問いではなくて、いったん楽譜になった段階で失われたものは演奏される段階で再度プレイヤーによって、演奏行為を通じて付加される、と云う話になる。

この構造は興味深い。
ちなみにネットの上の評価を見ると、どうも存在するカプースチン自身の録音(現役のピアニストであるので)で聴かれる演奏は本人の演奏家としての臭いが濃厚に漂っているらしい。うむうむ。
ちなみにピアニストの手元が見られる、ジャズのライヴではいちばんの特等席に陣取っていたんだけど、演奏されたなかの1曲(「8つの演奏会用練習曲」第5番「冗談」)なんか、ほとんど演奏者への嫌がらせのような指運びで趣深かった。「これが楽譜に書いてあるのかぁ」みたいな。でもまぁ素人としては、ドビュッシーとか高橋悠治あたりの一部のピアノ曲を聴いていても同じような感想を抱いたりはするのだけど。

ちなみに上に挙げた今回の飯田さんのセットリスト、そう云う意味で一本筋が通っている、と云う印象がある。なんと云うか、それぞれの時代のクラシックと、黒人音楽をはじめとする非クラシックの「直接的な」交点、と云うか。面白いライヴでした。
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