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記憶をよびさます [よしなしごと]

KZRさんの音楽と記憶と云うエントリを読んだ。

嗅覚がよびさます記憶、と云うことについては、ずいぶん昔にこんなひどくセンチメンタルなエントリを書いたりしたけど。記憶、と云うか、記憶の中にある質感、みたいな。
5年前,10年前によく聴いていた曲をたまに聴き返してみると,その曲を聴いていた頃の思い出が,懐かしみと共に胸の奥から込み上げてくるような,そんな現象を体験をすることがある。そういうこと,ない?
あります、あります。と云うか年齢的なものかもしれないけど、「似たフレーズ」とか「似た音色」とかにも記憶を引きずり出されたりする。本歌取り的なアプローチをするミュージシャンが増えたのか、それともこっちがそこそこ年古りてきたせいで「本歌」を知っているケースが多くなってきたからなのか。
で、KZRさんはアメリカの認知科学情報サイトに掲載されたMusic and memory: How the songs we heard growing up shape the story of our livesと云う記事を紹介されている。
「よく知っている曲ほど自叙的な記憶を連想させることが多い」という結果が得られたことが解説されている。
上で書いたようなことはそう云うことかな。ドラムのフィル、ギターのリフひとつまで記憶している曲なんかのほうが、記憶へのキューは豊富にあるような。
個人的には,音楽と思い出が直接に結びつくのは不思議なことだな,と思う。音楽は,景色や匂いなどのように元から自然界に存在したものとは違って,言語のように人の文化の中で作り出されたものだ。「喋る能力とリズム感」の話でもあったように,言語と音楽の発生には因果性のようなものがあると思えたりもする。ところが,今回の話のように,言語と音楽とで大きく異なる側面が現れてくることもある。音楽が思い出と結びつく効果は,どちらかと言えば景色や匂いのそれに近いように思えてならない。
でも、音楽が聴くもののなかに呼び起こすもの(快感もあるし、そうじゃないものもあるし)には、文化に結びついている部分と、なにかそれよりももう少し先天的な、深い部分に結びついているものが両方あるような気がする(まぁ切り分けられるものではないんだろうけど。でも例えば可聴音域とか、器質的な条件は色濃く関係してそう)。で、後者は例えば景色匂いが記憶をよびおこす仕組みと近い部分にあるのではないか。って、根拠と云うほどのものはないのだけど。

とりあえず、音楽に詳しくて文章の達者な脳科学者さんは、クオリアがどうたらと云うよりこの辺りのことを調べて教えてくれないかなぁ。そしたらいちゃもんをつけるのはやめにさせてもらうのだけれど(こんなのとかこんなのとかこんなのとか)。
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Light

今回のエントリには、笑わせられました。
というのも、茂木健一郎さんの「すべては音楽から生まれる」を読み始めたのはいいのですが、最初の数ページで「・・・なんか自分の求めていたものと違う」感が大きくなり、そのまま放置してあるのですよね(笑)
私が期待していたのは、「ある音楽愛好家の科学者の音楽論」じゃなくて、「科学から見る音楽」だったんだけど、というか・・・そんな感じです。
(茂木さんご本人には少なからず好感は持っているだけに、あまり悪く言いたくはないんですけどね・・・^^;)

でも一方で、最近は「それとこれとは別」でいいのかも、と思う気持ちもあったりして、なかなか複雑です。
「からくり」を知りたいと思ったり、知りたくないと思ったり、人間ってなかなかやっかいですね。

そうそう、「金木犀」のエントリも読みました。
何を隠そう私も金木犀の匂いをかぐと、全く同じような感覚を呼び覚まされるので、poohさんにまたまた親近感が湧いてしまいました。
もうしばらくすると、そういう季節ですね。
by Light (2008-08-30 02:54) 

TAKA

>音楽と記憶と匂い

考えてみました。(長いネタです)
「原始の時代、人類はお互いの声で状況を確認していた。リーダーの唸り声は、『この道は通って大丈夫だ』の合図。低い声は、『木の実を見つけたよ』の合図。高い声は、『天敵が潜んでいる。みたいな?』の合図。もっと高い声は…マンモスを見つけたぞ!」「おお!さすがリーダー!」「久しぶりの肉だ!」「かかれ!」

「こうして人類は、それぞれの声色を識別する事により、次に取るべき行動をすぐに頭に浮かべる事が、可能になった。この能力は、のちには労働歌、さらには娯楽のための歌、さらにはカラオケ時のアニメソング検索能力に、受け継がれていった。」

「そして科学文明が進んだ未来。歌を忘れてしまった人類たち。かつての美声を取り戻すべく、月の周回軌道に象牙の船を、そっと浮かべるのであった。(完)」

解説「いやー、音楽って、本当にいいものですね。それではまた。」
予告「さあて、来週のクオリアは?」
手下A「音楽と脳科学の軽薄化について、お送りするでまんねん」
手下B「全国の女子高生の皆さま、この僕ちゃんの脳に美しい愛の電波を送って」
リーダー「スカポンターン!さっさと白状おし!『本当はあのクオリア、イデアの焼き直しだー!』って!」
神さま「ばかも~ん、月に代わって、お仕置きダベ~!」
三人「あ~れ~」

リーダー「ずいぶん遠くまで飛ばされたねえ。で、ここは何処なんだい?」
手下B「ちょっとリーダー、何か大群が向かってきましたですよ」
手下A「アハハ、フサフサした毛の像たちでまんねん」
リーダー「しっかりおし!あれはマンモスだよ!原始の時代に居た奴じゃないか!…て、まさか?」
三人「タイムスリップ?」
神さま「しばらくそこで、己の過去を反省するダベ~」
三人「そんなぁ~orz」
神さま「ここで豆知識♪。あの茂木さんは斎藤環さんに公開書簡の返事を、か・な・り・遅らせているんダベ」
三人「へ~」

いやー、昔の記憶って、本当にいいものですね。それではまた。
by TAKA (2008-08-30 08:30) 

pooh

> Lightさん

ぼくも茂木さんには著書を読むまで漠然とした期待を持っていたんですが、何冊か読んでみてあまりに失望したので、けっこうここではくどくどと批判しています。

それとこれとは別、でいいんです、もちろん。でも、そのスタンスを取ったら茂木さんの言説の価値はほとんどゼロになってしまうんですよ(それとこれとは実は脳内で関連している、と云うのが彼の云うことの芯ですので)。有り体に云って、その辺りの悪質さは江原啓之とあまり変わるところがないと思います。
by pooh (2008-08-30 10:06) 

pooh

> TAKAさん

関係あるような、ないような、ですけど。ぼくはいま、ナイジェリアのトーキングドラムのCDを買おうかどうか悩んでいます。なんかすごいものがよびさまされそうな気がする。
by pooh (2008-08-30 10:07) 

Light

>でも、そのスタンスを取ったら茂木さんの言説の価値はほとんどゼロになってしまうんですよ(それとこれとは実は脳内で関連している、と云うのが彼の云うことの芯ですので)。
・・・あぁ~、確かに!
そのあたり、疑似科学に対する違和感(というか嫌悪感?)に通じるものがあるのかな?私にもちょっとだけわかってきたような気がします。
村上春樹が書く音楽論(←これは面白かったですよ)とは、意味合いが違うものなのですね。

・・・それでもまだ、「音楽と脳科学」みたいな学説が出てきたら、ちょっと興味を引かれてしまいそうな私もいるのです。
音楽を愛することでは人後に落ちないと自負しているし、それは理屈では説明できないものだとも思っているのですが、この矛盾は何なのでしょうね・・・
by Light (2008-08-31 03:08) 

pooh

> Lightさん

> 村上春樹が書く音楽論(←これは面白かったですよ)とは、意味合いが違うものなのですね。

ぜんぜん違うと思います。春樹さんの音楽エッセイは、その扱っている曲を知らなくても文芸として独立して面白いですし、単体で価値がある(もっとも読んだあと、猛烈に聴きたくなりますが)。

> それでもまだ、「音楽と脳科学」みたいな学説が出てきたら、ちょっと興味を引かれてしまいそうな私もいるのです。

いやこれ、ぼくもそうです。
なんと云うかですね。人間がなぜ音楽を好むのか、どんな音楽がどんな感覚を人間に与えてそしてそれはなにゆえなのか、と云う部分について、音楽に関する研究はほかの分野の芸術に比較してとても遅れている気がするんですよ(ぼくが知らないだけである可能性もありますけど)。理屈が大事かどうかはともかくとして、その理屈をちゃんと解明してくれるひとがいればいいなぁ、みたいにはずっと思っています。
ただそれはまず、茂木健一郎ではないわけです。ジャズミュージシャンの菊地成孔さんも噛み付いてましたけど。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2007-08-06-1
by pooh (2008-08-31 05:45) 

黒猫亭

>poohさん

クオリアというのは馴染みのない概念だったので、常日頃TVに出て「劣等生だったボクでも東大に入れた」と謂うわかりやすい成功体験を売りにして、凡人に月並みなお説教をする、見るからに脂っこいオッサンが、そういう小難しい研究をしているというのが結び附かなかったんですが(笑)。

いろいろ調べてみると、茂木健一郎という人はやっぱり「脳科学者」ではないんだろうし、「科学者」であるかないかも微妙なラインの人ですね。オレなどは「脳科学者」という言葉を聞くと単純に大脳生理学みたいなものを連想するんですが、調べてみるとそうではないんだということで、そんなのは人間の心の研究においてはイージーなプロブレムだ、もっとハードなプロブレムに取り組むべきなんだ、という話になっているみたいですね。

それはそれでごもっともなんですが、どうもサラッと調べた感じだと、科学の実証性を大分哲学の純粋思弁のほうに寄せないとアプローチ出来ない問題で、それは逆に謂うと科学の哲学寄りの境界線上を歩いている限り、書斎の人でも科学者でございと謂って通るような胡散臭さを感じますね。

つまり、こういう問題を論じている限り、養老孟司程度の道具立てすら要らずに脳の権威であるかのような扱い・振る舞いが可能になるということで、そのような世間の視る目を上手く利用している人という印象があります。そもそも茂木健一郎の研究って、どのような実証的手法に基づいて進められているのか、まるで具体が想像出来ませんね。
by 黒猫亭 (2008-09-02 08:03) 

pooh

> 黒猫亭さん

茂木さんの語るような領域にほんとうに脳科学をベースに実証的なアプローチが可能なのだとすれば、それはとても魅力的なんです。
でもですね。何冊か著書を読んだり、他のメディアで言説に触れたりしても、まるっきりそんなことはやってない。「脳科学者」と云う肩書きが権威付けになってるだけ、みたいに見える。

前にきくちさんが云ってたんですが、一般の脳科学研究者からも、ちょいと困ったもんだみたいに見られてはいるようです。
by pooh (2008-09-02 08:22) 

黒猫亭

>poohさん

オレは茂木健一郎の著作を一冊も読んだことがなくて、ネットでザッと調べただけの情報しかないんですが、もしもウィキで説明されている通り「脳内のニューロンの時空間的な発火パターンがクオリアと結び附いている」という作業仮説を立てているのだとしたら、どうもそれは従来の実証的な大脳生理学や臨床的知見の研究成果を根拠として踏まえているとは思えないですね。

印象でものを謂ってもしょうがないですが(笑)、どうもそれって、既存の研究成果から得られた合理的根拠に基づいて立てた仮説というより、純粋思弁から得られたSFと大差ないアイディアのレベルじゃないかという気がします。これがホントだったらいろんなことが説明出来るんだけどな、という。でも、それって哲学でも宗教でも、自然科学以外の説明原理一般がそうじゃないですか。

自然科学が現実に対するアプローチとして重んじられているのは、哲学や宗教が具えていない実証的な検証手段を持っているからで、そこを欠いてしまったら、どんなに尤もらしいことを言っていてもニセ科学と何ら変わりがない、そういうお話ではないかと理解しています。たしかにどんな研究でもそういう勘働きで作業仮説を立てる部分もあるんでしょうけど、おそらく普通は従来の研究で得られた具体的知見を根拠として踏まえて、それを整合的に説明し得るストーリーとして仮説を立てるという段取りがあるんでしょう。

しかし、普通に考えるとニューロンの発火パターンが先験的にクオリアと結び附いていると示唆する既存の研究成果なんてありそうな気がしないんですが、どうでしょうか。それと、所属している研究機関の性格から考えて、本来なら必要とされて然るべき実証的な科学研究のツールを持っているとはちょっと思えないですね。
by 黒猫亭 (2008-09-02 09:02) 

pooh

> 黒猫亭さん

えぇとですね。
3冊か4冊、頑張って読んだぼくの感想から云うと、黒猫亭さんがこれから改めて読む必要はないと思います。同じ時間を当てるのなら、たとえ再読でも澁澤龍彦辺りを読んだほうがいいかと。文章もよりエレガントですし。

> 普通に考えるとニューロンの発火パターンが先験的にクオリアと結び附いている

この話がしっくり来ないのは、どうやらそもそも茂木さんの云う「クオリア」がオレ定義である、と云う問題から始まってるっぽいです。ほんとうにそうなら、根本的に話にならない、ってことですけど。
by pooh (2008-09-02 22:12) 

黒猫亭

>poohさん

>>この話がしっくり来ないのは、どうやらそもそも茂木さんの云う「クオリア」がオレ定義である、と云う問題から始まってるっぽいです。

あ、そうなんですか。話が終わっちゃいますね(笑)。「オレ定義」だったら「ニューロンの発火パターンで規定される何物かがクオリアだ」というウロボロス的な強弁も成立してしまいますし、それって例の血液型性格診断の議論と変わらない話になってきますね。

まあ、そもそも茂木健一郎とその所属研究機関の成果と呼べるものが、脳トレのパチモンみたいなゲームソフトくらいだというのがすでに胡散臭いわけですが(笑)。調べてみると、どなたかが仰ったように、そもそもクオリアというターム自体が大昔からあった概念の言い換えという側面はあるようなので、古臭いありふれたお説教の根拠として持ち出すのに向いているのかもしれませんね。

ちょっと茂木から離れて本題めいたことにも触れますと、「人間が或る特定の音やその繋がりに特定の感覚を普遍的に感じることには根拠がない」という話をオレが最初に聞いたのは、たしか村上龍と坂本龍一の対談集だったかと思います。坂本龍一はクラシックの教育を受けた人なので、西欧音楽の文脈上の話ではありますが。

たとえば、ウチの最近のエントリで採り上げたオルフェウスなんかでも、曲調の選択肢として「力強い」とか「哀しい」とかがあるわけですが、それを表現する手法は、西欧音楽の文法ではセオリー化されているわけですね。で、そのセオリーには学の体系があるし、或る程度普遍的に人間の感じ方を引き出すことは出来るけれど、なんでそうなのかに関してはまったく根拠がないという話だったかと思います。

poohさんが仰ったように、それにはコード依存の部分とアプリオリな部分があると思うんですが、たしかにそんな研究は見掛けないですね。この両者で謂えば、コード依存の部分というのは、従来的な人文科学の手法で研究が可能だと思うのですが、アプリオリな部分というのは「人の感じ方が何故生起するのか」という問題に繋がっているので、クオリアの問題に繋がるわけですよね。

そこを重視するなら、音楽の無根拠性に対してはまさにクオリアの研究が肉体性の次元における問題に関して何某かの示唆を与えてくれるはずなんですが、そういう話は聞いたことがない。というか、そういう事柄に示唆を与えることでしか、クオリア問題が単なる禅問答ではなく実体を具えた科学的な問題性だという証明にはならないように思います。
by 黒猫亭 (2008-09-03 12:43) 

pooh

> 黒猫亭さん

いや、どうも手軽に確認できる範囲にある「クオリア」と云う言葉の定義には、茂木さんの匂わせるような「美」だの「善」だのの概念に一義的に結びつくような意味合いはないよなぁ、とか思うんです(もちろん無関係と云うことはないですが)。

ある音楽を聴いたときに、それが即座にまっすぐ届いてくる、と云うことがあります。逆に、何度か聴くうちに良さが分かってくることもあります。だいたい、このあたりはどなたも経験しているのではないかと思うんですよね。なので、文化コード依存の部分とそれ以前の部分とがあるんだろう、とは思うんです。
で、脳科学、って考えると、ここには確かにフロンティアがあるだろう、みたいには思うんですよ。以前内海さんに教えていただいたガザニガの著作には、科学的な意味での「真」から倫理的な「善」へのアプローチがありました。これはレビューを書いています。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2007-07-08

茂木さんにはどうも、そう云う真摯さを感じない、と云うのがあります。

> 坂本龍一はクラシックの教育を受けた人なので

でも彼は小泉文夫に私淑する音楽家でもあるので、茂木さんみたいに一面的に西洋音楽のイディオムだけで思考を組み立てるひとでもないだろう、とは思います。

けっこうここでガムランのCD評みたいなのをやってますが、バリ音楽なんて云うのはぼくらの受けて来た音楽教育のベースになっている西洋音楽の文脈には乗らないわけです(接点や相互的な影響が存在しないわけではないですが)。でも、けっこう純粋に音楽的に伝わってくるものがある。これなんかおっしゃるようなアプリオリな部分に対する刺激なのか、それとも環太平洋的な文化コードの共有にもとづくものなのか、興味はあるわけです。でも、いろんな芸術のなかでもとりわけ音楽についてはそう云う部分の学術的研究が進んでいないように感じられるんですよね。
by pooh (2008-09-03 22:10) 

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