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自然と道徳 [世間]

深海魚さんの健康と思想、健康の思想と云うエントリを読んだ。とても興味深い内容だったので言及させてもらう。

問題は、健康と自然重視が必ず両立する、という価値観にあります。かれらは近代科学を「自然を外部化し、征服対象とみなすもの」として批判したりするのですが、自然が人類と必ず調和的で人間にいい影響しか及ぼさないと考えるのもまた、「自然」を一枚岩で人類に対して極端かつ一様な態度しかとりえない存在とみなす点で、自然を人類と切り離して外部化する人間中心主義的な態度だと思うのです。そして、現代の生活は反自然的である=不健康に違いない、となって、さまざまな国や時代のデータの都合のいい部分を切り貼りしてまで今の人間がいかに不健康であるかを証明しようとしてしまう。
深海魚さんは「食事と健康」の切り口からお書きになっているので議論を勝手に敷衍させてもいいものなのかちょっと気が引けるけれど、同種の構造はどうにもいろんなところに見られる気がする。水道水は湧き水と比較して道徳的に劣っている、と云う「水からの伝言」の主張は云うに及ばず、出産後3日で我が子が死ぬ結果になっても自然分娩のほうがすぐれていると認識する吉村医院利用者の話なんかもそうだし、多分探せば(ここでの言及事例だけでも)もっと出てくる。
で、こう云う発想の根本にあるのは、そもそも自然ってのは苛烈なもので、人間はなんとかそれを手なずけてきた、と云うことに対する理解の欠如で。乱暴に言ってしまうと、そんなに自然がいいなら現代文明に背を向けて自然の中で暮らしなよ、云っとくけど新生児死亡率は上がるし平均寿命は下がるぜ、ところで赤ちゃんが死なずに済んだりお年寄りが長生きするのは不道徳なの、その辺どうなのよみたいな話になる。この辺は結局、こっちとかこっちとかこっちで書いたみたいな、当事者意識の欠如、みたいな部分に関わって来るんだろうけど。

近い感覚だなぁ、と云う気がする例を若干の私怨を交えて云ってみれば、単車で調子良く山道を走っているときにちんたらしたでっかい四駆(これがまたディーゼルだったりする)に道を阻まれて、その四駆のスペアタイヤカバーに「自然を愛そう」的なスローガン(あとヘラジカの絵とか)が書いてあるのを見かけた時なんかに似てたり。あんたが自然のために最初にできることは、その臭い煙をまき散らす鈍重な乗り物で山のなかに分け入ってくるのをやめることだよ、いいからそこをどいてくれよ、とか云いたくなる。
説教するのはいいけど(こっちもそれほど自然に優しいことをしているわけではないので)先に態度で示しておくれ、みたいに何度思ったことやら。

高いお金を払って自然なものを手間隙かけて食べればうまいし身体にいいしいいことづくめ、と云うのはみなさんご存知の「美味しんぼ」の根底を貫く思想なわけだけれど、要するに基本的に自然食志向みたいなのって相当にぜいたくな発想なわけで。悪いとは思わないけど(10年以上行ってないけど昔は吉祥寺のもんくすふーずにはけっこう行った。うまくておなかいっぱいになってそれでいてそんなに高くないから)、でもそう云う発想が「正しい」とは思わないし、そう云う安易な発想でこちらの道徳心なんかを測られるのもそこそこ不愉快だったりする。

いやそりゃ、価値観の問題かもしれないです。でも、その価値観ってほんとうに額面どおりsustainableなの? どこかのマーケターの持ち出してきた商売ネタを鵜呑みにしてない? みたいなことは訊ねてみたくなったりするわけですね。
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Noe

極端な例ですが、今急に「電気」というものが全く使えなくなったら、地球上で数十億人が死滅しますね。
私は、「自然」と「人類の発展」が共存していくためには、科学技術の発展が不可欠だと思います。いい悪いは別にして、いまさら後戻りはできない。

早く核融合が実用化されないかなあ~
常温でも高温でも良いから。
by Noe (2008-07-25 08:43) 

pooh

> Noeさん

おっしゃる「共存」と云う部分が、キーなんだろうと思います。
と云うか、自然が母なるものであると同時にいつでも牙を剥くものである以上、互いにダメージが最少になる場所を探すしかないんですよね。で、よくも悪くも、その仕事は科学技術にしかになえない、と云う現実があって。

ついでに云うと、科学もそれに携わる人間も、「自然に歯向かう悪」ではないんですよね。意識の上でも、現実問題としても。
by pooh (2008-07-25 22:01) 

TAKA

その四駆が物見遊山目的で山に向かっている車だったのならば、poohさんの気持ちも分かります。
その四駆が林業関係者の車ならば、また話は違ってきます。
おそらく自然志向の人なら、こういうのでしょう。「今すぐ車を降りて、徒歩で山へ入れ!作業も機械を使わず、すべて手作業でやれ!」
まあ、それも良いでしょう。ただし国民全員が、「今日から便利な機械を一切使いません。パソコンも携帯電話も鉄器も青銅器も無い、昔ながらのナチュラルでサバイバーな生活を送ります♪(^-^」と決意すれば、の話です。
by TAKA (2008-07-25 23:42) 

pooh

> TAKAさん

> その四駆が林業関係者の車ならば、また話は違ってきます。

あぁ、あぁ、もちろんそうです。配慮のない書き方でした。
そう云うひとたちからすれば、当然鬱陶しがられるべきはぼくらで。

その意味で、まさにお書きの通りのようなことなんです。
by pooh (2008-07-26 05:33) 

mohariza

今回の引用された投稿記事を読み、なるほどと思いました。
それに関連して、私が過去に私のブログ上で、「地球環境と人間の関係」について、記したものをまとめた形で、私の意見を述べたいと思います。

人間の活動や開発が、種の減少・絶滅、生態系の破壊・分断をひきおこしていることは事実ですが、過去のヨーロッパが、自ら森林を伐採して、牧草地とし、活力の無い大地にして行ったことを忘れ、これから文明国入りをしようとしている国々の森林伐採を、<地球環境の為>との謳い文句で、一方的に非難することは出来ないような気がしています。
一方、日本は、長い年月、間伐,植林など人手が入ることによって、「自然との共生」を計り、生物の多様性のバランスを保って来て、現在の里地里山のように、人間が干渉しないことによって、かえって危機を迎えていることもあります。
「自然との共生」とは、自然を野放しにすることでは無いようです。
但し、それは、人間に都合の良い解釈の「共生」の謳い文句で、自然側から見て、人間の手が入ることが、真に「自然保護」かは、分かりません。
「人間と自然(特に人の手が掛っていない赤道付近の森林)とは、共存できるのか?」と問われれば、私は、人間が文明化(進歩)するのを諦めるしか、道は無いような気がします。

そして、地球(ガイア:地球生命体)の視点で見れば、地球は、約46億年前の誕生から、原始海洋が出来て、幾たびの大変化(:プレートテクトニクスによる大陸の合体・分裂、それに伴う、大気・海洋の大変化及び生命の大絶滅)を繰り返していて、人間の活動は、地球の胎動に比べれば、たかだかの知れた行動で、人間の活動は、地球自身には大影響は与えず、(卑近では、人間から見た「環境問題」上、影響を受けていますが、)長いスパン<1000万年単位>では、人間の生命の免疫作用のように、自浄作用があり、地球は、幾多の危機を乗り越え、現在の姿があり、<青い地球>で、あり続けているのだと思っています。
その中で、人間の活動は、地球の長い歴史の上では、ほんの塵のような、たかだかの時間を生きているだけであり、人間の「地球(ガイア)を顧みない活動」は、自ら進んで、人類を滅亡への道に導くだけの行為だ、と思っています。

食の問題に話を移すと、
私は、腹八分目で食事を取り、間食はほとんどせず、肥満度係数(?)は、100%を超えたことは、過去ありません。(たまには美味なものを食べたいと思いますが、カミさんの夕飯で満足し、朝食・昼飯は、腹の足しになれば、事足りています。それに慣れれば、特に「欲」は出てきません。)
人間としては、腹八分目が理想的だと思います。
昔の人間は、食事を取ることさえ、不自由し、食いだめもしていましたが、江戸時代(以前を含め)の日本人は、ほぼ一日2食の食事で、健康を保っていたようです。
現代の方が、食事(栄養)環境が好くなり、江戸時代の人間より、長寿になったのは事実でしょうが、日本人は、どちらかと言うと、粗食の食事環境で、長い間、その体質が保たれていたので、現代人の肥満は、日本人としては、異常とは思われます。
そして、文明国(?)の人間は、自分達の飽食のために、地球環境をおかしくしています。
人口が多い中国、インド等が、欧米日と同じ道に進んで行ったなら、地球は、確実に食糧危機に陥ると思います。
と、言って、欧米日が、自分たちのことを棚に上げ、これ以上、中国、インド、ブラジル等が発展するのを抑えるのも、文明国(?)のエゴでしか無いと思います
大量の食用動物の育成・植物の人工栽培・人工孵化等のよる魚類の育成は、狭い地球の資源環境の中では、致し方無い手段かもしれませんが、そのことによって、自然(動植物)環境がおかしくなっていくのは、確実だと思います。

今更、原始農法や手作業の農法で、世界の食量需要をまかなうことは無理と思います。
文明国が、我慢の生活(:中世時代の清貧の生活)に戻り、世界人類が平等の生活環境になろうなんて、「グローバリズム」の欧米の多国籍企業は、世界戦略上、露とも思わないでしょう。
また、文明国の人間が、一度、味を占めたものを、他の貧しき国の人間に、自分達が我慢をして、分け与えようと考えるのが、人間心理上、不可能なのかもしれません…。

人類は、運命共同体の宿命として、人類の云う処の「環境破壊」で、破滅の道に、一歩一歩、進んで行くでしょう…。

しかし、それでも、地球(ガイア)は、生き残ると思います。人間がいなくなれば、地球環境は、多分、すっきりするでしょう…。

by mohariza (2008-07-27 09:16) 

pooh

> moharizaさん

当然の前提としてまずひとつあるのは、人類が栄えていくことと自然環境が維持されることが必ずしも両立しない、と云うことですよね。で、これまではこのふたつを両立させない(少なくとも両立を重んじない)方向で文明が進んで来た、と云うところまでは云えると思います。

そのうえで、このふたつは根本的に両立し得ないもの、と云うわけではない、と云うこともあるんだと思います。少なくとも自然環境を守ると云う発想なしに人類の永続的な繁栄はあり得ない、と云うことはひろく共有された認識になっていて、科学技術もそこを念頭に置いた発展を志向するようになって来ているわけで。
言及先のエントリにもありますが、「自然保護のためなら人類なんか滅んでもいい」なんて云えないわけです。云うひとがいてもいいですけど、そう云うひとはまず率先垂範して滅んでいただきたい。

だったらどうするか。
ぼくはNoeさんのおっしゃるように、マクロでは科学技術の発展に期待するしかないのかな、とか思います。生活の安全を確保し、必要を満たしたうえで、環境負荷を抑える方向への発展。

で、個人の意識としてはやっぱり個々が環境を考えていくしかないんでしょうけど、これを道徳とか価値観とかの問題にして「分かりやすい」回答のあるものとして捉える(あるいは提示する)ような方向性は、ぼく個人としては絶対に許容できない。このあたり、いつもの主張と同じですね。
by pooh (2008-07-27 10:46) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

なんていうか、科学技術批判から文明批判をへて、もっと哲学的なものに迫って欲しいという思いがあるんですね。私は、実行はできないけどソローの「森の生活」なんかに惹かれる部分が大きいのですよ。

彼は「例えば自動車があれば1時間でいけるところに私は1日かかる。しかし、自動車を手に入れそれを維持するために失う自由はその便利さをしのぐのであろうか」みたいな問いかけを書きつづっているわけです。

「障害は不便です、でも不幸ではありません」というのは一世を風靡した乙武氏の言葉ですが、「便利と幸福」「不便と不幸」といった価値観の結びつきを見直すには哲学的考察というのが必要なんだろうと思います。

by 技術開発者 (2008-07-28 08:37) 

pooh

> 技術開発者さん

おっしゃることは分かる気がします。

不便は、必ずしも不幸ではなくて。と云うような事柄のサンプルは、たぶん日常のなかにもけっこうあるんですよね。妙な先入観に引きずられないようにしてそのことを探すのは案外に難しいことかもしれませんが、でもそのことについて考えることに意義はあるはず、なんてふうにも思います。こう云う云い方って、聞くひとによってはひどくナイーヴにも聞こえるんでしょうけど。
by pooh (2008-07-28 21:54) 

深海魚

こんにちわ。遅くなりましたが、トラックバックしていただいたエントリ、非常に興味深く読ませていただきました。
コメント欄で皆さんがおっしゃっているように、「自然」の維持と人類にとって生きやすい暮らしを追求していくことは必ずしも両立しない、のですよね。私見ですが、現代社会はこの「必ずしも両立していない」現実を突きつけられて、人類の繁栄と矛盾しない範囲で「自然」を保護するのか、少々人類の繁栄(単に不便になるという程度でなく、もしかしたら栄養状態が悪くなったり、寿命がちぢんだり、新生児死亡率が上がるかもしれない、というのまで含めて)を犠牲にしてでも「自然」を追求しなければいけないのか、それとも人類と「自然」が両立可能になるように技術の方向性自体を変えていくのか、という問いへの回答を迫られているのだと思います。「自然にいいことは必ず人間にもいい」という幻想は、この問いを回避してしまうという点で欺瞞的だな、と。

>高いお金を払って自然なものを手間隙かけて食べればうまいし身体にいいしいいことづくめ、と云うのはみなさんご存知の「美味しんぼ」の根底を貫く思想なわけだけれど、要するに基本的に自然食志向みたいなのって相当にぜいたくな発想なわけで。
その問題があるんですよね。自然志向などとてもできない生活をして働いている人たちの上に立ちながらのエコ生活、というか。自然志向が経済的な余裕を必要としてしまうのは、単に「みんなでエコな暮らしをしましょう」というだけでは解決されない構造的なものでしょうし。
そうした生活をすることが「正しい」と道徳的価値をつけられるようになると、自然志向の生活を送ることのできる富裕層が、それをしない(できない)下層階級を「道徳的に劣った人々」として見下す、ということさえ起こりえるように思います。ひいては、「彼らは道徳的に劣っているから不幸せなんだ、自己責任」と、格差と自己責任論を肯定する産業社会の論理を強化する役割を果たしかねないんじゃないかなあと。特に一番はやっているであろう、社会的なものを排除した「個人の生き方」としての自然志向、健康志向の色が強い動きには、そうした恐れがあるように思います。悲観的見方に過ぎるかもしれませんが。
by 深海魚 (2008-08-04 15:08) 

pooh

> 深海魚さん

いらっしゃいませ。
いや、こっちの論旨に寄せた恣意的な言及だったので、お叱りを受けるかと思ってました。

実際のところ、エコロジーの問題と云うのは善悪ではなくて、もっと実利的なレイヤーにある議論なんだと思います。それを道徳的な問題にしてしまうのは、呑み込みやすいかもしれませんが、ご指摘のような問題点があると思っています。

道徳はどこまでも、ひととひとのあいだにあるものだと思います。なので、ある程度社会状況や文化を共有していないと成立しない。対して自然は、そして環境は地上にあるすべての存在が共有するものです。なので、エコロジーを道徳的な問題として捉えるのは、その時点で矮小化なんですよね。そうすると多分問題は、その矮小化をドライヴするものはなんなんだろう、みたいな部分なのかな、とか考えたりします。

> 「個人の生き方」としての自然志向、健康志向

その「個人」が「生きる」ことを可能にする、その条件がどんなふうに揃えられているのか、が見えづらくなるような構造が、どうやらあるようです。そう云うことを忘れていられるから、価値観・道徳観としての自然志向なんて云うのが成立しうるんだろうな、みたいにも思ったりします。
by pooh (2008-08-04 21:32) 

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