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見る場所 (「西の魔女が死んだ」梨木 香歩) [ひと/本]

もう読んだのはゆうに10年以上前になるのだなぁ。梨木香歩を読んだ最初だったかもしれないけど、ひょっとすると「裏庭」のほうが先だったかも。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

  • 作者: 梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2001/07
  • メディア: 文庫

なんで唐突に取り上げたかというと、映画版を見たので。これから書くのは映画評でも書評でもないけど。

なんと云うか、映画版がぴんとこなかった。
キャストも悪くないと思うし、描写もていねい。なのになぜか届かない。長めの短編、と云ってもいいボリュームの原作と比較しても、どうしてもなにかが抜け落ちている気がする。

なんだろう、なぜだろうとかえんえん考えていて、翌日(今日ですね)になってやっと思い至った気がする。とは云え原作についても記憶が曖昧なので(とりあえず手元にはない。捨てた記憶がないのにどこ行っちゃったんだろう、と云う本がぼくには数百冊単位である)まるっきり的外れである可能性もあるけれど。

「西の魔女」であるおばあちゃんは、多分イングランドのひとで(このへん「春になったら苺を摘みに」を読み返せばもうちょっとちゃんとした推測ができるんだろうけど、えと、どこ行ったっけ)。で、イングランドはぼくの記憶によると、国教会だったせいか相対的に16〜17世紀の魔女狩りが少なかった地域だったはず。とは云え魔女告発と云うのも、地理的にも時間的にも実情としてはそこそこ散発的だったりもしたし、だからイングランドでも生じなかったわけではない。でもだいたい魔女告発と云うのはアンティ・クライストであると云う捉え方をされたときに拡大するものなので、そう云うニュアンスが薄いとあまり盛り上がらない。この辺、たぶん国教会の適当さと関係しているんじゃなかろうか。

それでも、生活上の知識と呪術的な考え方を(おそらくは)土着信仰のうえで結合したものをあやつる、Cunning Personとしての魔女の伝統は、大陸やスコットランド(けっこう猖獗を極めたはず)と比較してまだ生きているんだろうなぁ、とか思う。やたらとスピリチュアル絡みになると英国がどうの、と云う話になるように思えるけど、こう云う部分も多分関係しているんだろう。

で、原作では簡潔ながら、おばあちゃんが確かに魔女である、と云うことがわかる描写がされている。それは、実際に魔法を使ってみせるとかそう云うことではなくて、世界に向けるまなざしと云うか、世界とひとの暮らしに対する理解の仕方と云うか、その辺の部分で(超常能力を示唆する描写もないわけじゃないけれど。かの有名な灰色の放浪者でさえ、ほとんど魔法は使わないではないか)。
呪術の観点に立とうが、(現代社会の準拠する)科学の観点に立とうが、見ている世界はひとつで、そしてカメラはその世界を映し出す。おばあちゃんがマイに施す魔女修行のカリキュラムはおよそ当たり前のつまらない内容に見えるけれど、それは映像がぼくらの目に「魔女の目に見えるこの世界」を届けてこないからで。だからていねいな描写を積み重ねるほど、いったいおばあちゃんのどこが魔女なのか、マイの母がどうして「あのひとは本当の魔女よ」と言い切ることができるのかがわからなくなってくる。
映画では、西の魔女の目に映る世界に入っていくきっかけが与えられない。悪くすると、おばあちゃんがマイに与える魔女修行のメニューが、魔女修行と云う名目だけつけた単なる生活習慣の矯正に見えてしまう。本質は単なるこの世界ですこやかに生きていくための便法なんかじゃなくて、実効性を積み重ねてきたはずのCunning Personとしての智恵の体系と世界の捉え方にもとづいた、それなりに効果的なひとの生きかたの指針であるはずなのに。

見えている世界、そしてぼくらがそれを見る場所。目に映るものはおなじもののはずなのに、別の視点から見ると見える世界は違ってくる。そのこと自体は不思議じゃないし、視点そのものにも優劣はないかもしれない。
なのでぼくなんかは余計に、違った視点を混同すること、ある視点による見え方を安直に他の視点からの見え方に持ち込むことを、容認しがたい、とか感じたりするんだろうな。
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コメント 2

TAKA

様々な視点といえば、私の場合、科学的なものの見方と呪術的な見方、両方関心があります(^^。
基本は物理学の視点ですね。そして、心の温もりに必要なのが呪術的な視点、という感じです。
一時期は、「呪術的視点は全て脱ぎ去ろう。邪魔なだけだ。目が曇る。」と考えていました。
でも結局は、今もマフラーとして首に巻いている状態。正直なところ、合理の精神だけでは物足り無いのですよ。有意義で、豊かな人生とやらを具現させるためには。「見える世界を広げたい。今よりも。」そう願う気持ちが引っ張るのでしょう。非合理世界の狭間に。

この私は今も、面白いお話作りに魔法の力に頼っているわけです。合理の精神だけでは、とても無理。orz。まだまだ修行不足、という事ですな。
by TAKA (2008-07-01 04:04) 

pooh

> TAKAさん

> 合理の精神だけでは、とても無理。

それが自然なのだと思いますよ。感じるのは人間なのだし、科学的な合理性はある意味人間の外にある(と云うか外に持ち出された)ものなのですから。
by pooh (2008-07-01 07:49) 

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