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「説得する」 [余談]

こちらのエントリに関連するかたちで、lets_skepticさんから信奉者の説得についてと云うエントリでトラックバックをいただいた。またdlitさんも「ビリーバーは説得できない」についてと云うエントリを挙げてくださっている。同様の話題について、TAKESANさんも説得という事と云うエントリを挙げてらっしゃる。

それぞれの方がそれぞれの立ち位置からおっしゃっているのでエントリの内容は違っているけれど、どの方がお書きのことにも非常に納得できる(こう云うことを書くと身内だの一派だの云いたがる向きがあるようだけど、多分単にそれぞれ同じようなケースを積み重ねたうえで近いことを実感しているからだと思う)。実際にぼくが取っているスタンスは、dlitさんがお書きのことに近いような気がする。

だいたいニセ科学に関するぼくの側からの発話は多くの場合疑義で。それなりに詰めて考えた結果としての、疑義。
なので、最初の段階では、説得する、と云うフェイズにはない。これは、批判の発話の対象とする論者が最低限ぼく自身よりも高い思考能力と充実した常識をお持ちだ、と云うのをわりと前提に置いているのもある(これ、読みようによってはあんまりいい印象を与えない言い方だって云うのはわかっているつもり。ただ、言及先の方のことを莫迦にしてかかることはない)。

で、莫迦にされて終わることもあるし、対話に発展することもある。対話に発展すれば、ある程度の理解を得られることもある。あるけれど、この対話そのものもぼくはあんまりうまくないらしい(もうひと月以上前に書いたエントリなのに、現時点でコメントが100を超えて、しかもこの先どこに話が行くのかもわからないエントリもあるし)。だからなかなか、説得、と云うところまでは到達しない。この辺向き不向きと云うか能力の欠如と云うか、そう云う種類の話なんだろうと思う。

ただ、ひとつあるのは。「ビリーバー(信奉者)は説得できない」と云うのは、多分本質的には批判者側のエクスキューズなんだろう、と云うこと(いや、このエントリもここまでぜんぶぼくの言い訳ですが)。ぼくみたいなスタンスの人間が云うのもなんなんだけど、いろいろ試みて結局うまく説得できなかった経験を多少なりとも積み重ねて、かりそめにも到達する実感、と云うか。なんと云うか、「ビリーバー(信奉者)は説得できない」とでも考えないとどこにも救いのないような体験を感じているひとは多いのだと思う。

これはdlitさんがお書きだけれど、相手をビリーバーだと認識して切り捨てることは誰もしないのではないか(ぼくの場合、ぼくのスタイルでの言及が有効かどうか、と云うスクリーニングは行うけれど)。で、対話においては、思いつく限りの参考になりそうな論拠を提示して、理解を得られるよう努力する、と云うのが、いちばんよく見られるパターンではないか、と思う。で、そこそこくたくたになって「ビリーバー(信奉者)は説得できない」とかつぶやく、みたいな。

もともときくちさんがこの言葉を口にするのは、mixiにおけるケーススタディでの経験を踏まえてのこと、だと思う(もう3年近く前になるのだなぁ)。なのでそれなりの重みはあるけれど、結局のところこのトピックでも基本的にビリーバーの切り捨ては行ってはいないわけで、要するにそう云うことなんだろう。
lets_skepticさんの懸念もわかる。少なくともぼくは、この言葉を口にすることはない、と思う。口にする資格があるのか、と云う部分はまぁ棚上げしていただいて。
タグ:ニセ科学
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きくち

mixiでやった結果からいうと、信奉者は説得できない(あるいは、説得できない信奉者がいる)が、対話自体は半信半疑の人に納得してもらう役に立つ、という感じです。
だから、信奉者との対話も最終的には適当に打ち切るにしても、初めからまったく対話しないという方針ではないです。ただ、常にギャラリーを意識した対話をする。
by きくち (2008-06-19 01:36) 

田部勝也

poohさんがきちんとおっしゃっているし、私もlets_skepticさんのところに書いたけど、たぶん、「ビリーバー(信奉者)は説得できない」というのは、今の私に対して投げかけられるべき言葉なんですよね。

ニケさんとこのコメント欄、ちょっと熱くなりすぎて自分自身ブレーキが効かなくなりつつある……。このままだと、私のコメントがなければ恐らく有り得なかったほどに(ROMを含め)多くの人を、より頑なに先鋭化・カルト化させる事になってしまう……。誰か「ビリーバーは説得できない(から、ほどほどでやめとけ)」って、はやく僕に言って(切実)。

正直に言って、ここでそう公言する事で「上から目線で馬鹿を切り捨てているとギャラリーに思われる」リスクと、「当事者をこれ以上先鋭化・カルト化させてしまう」リスクとを天秤に掛けると、ちょっと悩みます……。
オウム真理教の教訓もあるし、反相対論のターミネーター(田中憲次)氏については私自身が彼を先鋭化・カルト化させてしまった張本人だし……。
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/terminat/origin_1.htm
ターミネーター(田中憲次)氏は、あちこちで異常な情熱でもって自説をばらまき多くの人に迷惑をかける一方、統合失調症を悪化させ、入退院を繰り返されているようですね。
by 田部勝也 (2008-06-19 01:41) 

黒猫亭

>田部さん

どうなんでしょうね、ニケさんは、所謂ビリーバーとか信奉者というのとは違うのではないか、と思います。ご自身で仰っている通り、納得が行けば割合すんなり考え方を変えるところがありますし、別の言い方をすれば、信じるとか信じないの問題ではなく、現実的な都合に基づいてニセ科学批判を批判しておられるようなところがあります。

その意味で、田部さんが議論を継続されるのは、仰る通り得策ではないと思います。田部さんのロジックは一種の利他心に基づいていて、その根っこには個人性の動機があるわけですよね。「自分の大事なものにとって、ニセ科学が脅威だから、それを憎む、怒る、許せない」というふうな。

しかし、相手の方のご意見を拝読すると、やっぱりそのロジックは一種の利他心に基づいていて、やっぱり根っこには個人性の動機があるわけで、ここまでは田部さんとニケさんのロジックは等価で噛み合っているわけです。だから最初は田部さんのご意見に賛同する素振りを見せたのではないかと思います。

そして、田部さんとニケさんの対立点というのは、それぞれにとって大事なものを痍附ける脅威がニセ科学であるかニセ科学批判であるかの違いである、むしろそれしか違いがない、というふうに言えると思います。それは、田部さんとニケさんの個人性の事情が対立している限り、どこまで行っても埋められない溝でしょうし、それは一種不寛容性の問題になると思います。

つまり、なまじ相互のロジックが噛み合っているが故に、却って対立点が絶対化して調停することが出来ないのではないかとオレは思います。
by 黒猫亭 (2008-06-19 03:25) 

田部勝也

>黒猫亭さん「そして、田部さんとニケさんの対立点というのは、それぞれにとって大事なものを痍附ける脅威がニセ科学であるかニセ科学批判であるかの違いである、むしろそれしか違いがない、というふうに言えると思います」

初めて書き込んだ当初から、その「ニケさんにとって大事なもの」が何なのかを聞き出したかった(ニケさん自身に自覚して欲しかった)だけなのですけど、どうやらダメでした。
by 田部勝也 (2008-06-19 03:38) 

田部勝也

試みに、「“上から目線を感じる”とかいった不満を言い出すような相手とは、そもそも対話は不可能」説を提唱してみます。

たとえば、何周遅れか分からないような周回遅れの人と、ずっと先を走っている人とが対話するとします。先を走っている人に「相手を上から見下す」という意識がなかったり、そういう態度を取らないよう努めて振る舞っていたとしても、周回遅れの人が周回遅れなのは厳然たる事実なわけです。

そこで、「上から目線を感じる」といった不満を述べるという事は、「私はあなたから学ぶつもりはまったくありません」「あなたが私に何かを教える態度をとる事は認めません」という宣言に他ならないわけでしょう。

上の例は極端ですが、同じレベルの論者同士の議論にしたって、いや、相手が周回遅れだと分かりきっている場合でさえ、「私の知らない、だけど相手の知ってるコト」を得ようという気持ちがまったくなければ、そもそも建設的な議論は成立しないわけです。
「上から目線を感じる」とかそういう事を気にしている限り、その人に向上心がある可能性は、まったくもって絶望的だと言っても良いのではないでしょうか。

──なんて書いていて、実は自分が一番、批判に晒され続けて先鋭化・カルト化してしまった人間なのではないか……などと悩み始めてしまうのでした(苦笑)。
by 田部勝也 (2008-06-19 04:57) 

pooh

> きくちさん

やっぱり、ある意味トートロジーで。説得(対話)しても通じなかったひとを、そこではじめて「信奉者」なり「ビリーバー」と呼ぶ、と云う部分もあるわけですよね。
by pooh (2008-06-19 07:41) 

pooh

> 田部勝也さん

例えば、「綺麗な言葉遣いで楽しく暮らそう」とか「環境を大事にしよう」みたいな考え方そのものって、とくに否定する筋合いはないわけですよね。で、それがニセ科学に結びつくのが問題になる、と。

で、後者を議論するときに、前者を(そのことそのものとして)否定することはないし、実際のところそれをしているひともいないわけです。で、前者と後者の切り離しの作業が論において発生する。前者がもとの発話者の人格に近い部分から生じているなら、切り離しを行わなければどんな意図でも「人格攻撃」になってしまうわけです(これは受け止める側の意識にも関係してきますけど。もとの発話者の意識のうえで、自分のすべての言説を自分の人格と強く紐付けしていれば、どのような批判的言説も人格攻撃にしかなりえない)。

で、その辺りで、田部さんとニケさんの対話は、人格同士のぶつかりあいになっています。一概に悪いとは思いませんし云いませんが、田部さん自身の動機がどこにあるのか、を、もう一度考えてみてもいいかも、なんて思います。
by pooh (2008-06-19 07:47) 

pooh

> 黒猫亭さん

これ、なんかなまじ背景についての認識がある程度共有されているので、話がややこしくなっている部分はあるような気もします。上の田部さんへのお返事にも書きましたが、どう議論してもニケさん個人に収束してしまう、と云うか。

こちらで、

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-06-13

ぼくはニケさんの論をほぼ完全に否定していました。でもそれはニケさんの一連の騒動における役回りに関してなにか関係する部分ではないわけです(かと云ってその部分になにか肯定的だったりするわけではまったくないですが)。そこを論じる際には、また言及先(消されてしまいましたが)でのニケさんの論とはまず切り離して議論する必要が、ぼくの動機の面からするとあるわけで。

そこがどうもうまく切り離せない状況がある。例えばニケさんは上のエントリのコメント欄でのaliceさんやせとともこさんのコメントをお読みになって、このおふたかたがぼくに今後アンフェアな扱いを受けるかもしれない、と云うことを心配されている。
ぼく個人に関して云えば、これが一番失礼な物言いです。侮られる、莫迦にされると云った水準を越えて、論者としての根本的な姿勢をひどく小さなサイズの物差しで図られていることになる。

なるんですが、どうしてもそう云うフレームワークがはずせないところが、まず発話主体のニケさんにある以上、言及する側もそこを踏まえざるを得ない。結果どうもすっきりしない構図になってしまって、上のエントリでちょちょんまげさんが提示されている疑義につながっていくんだと思います。

オチは「難しいなぁ」だけなんですが。
by pooh (2008-06-19 08:00) 

alice

poohさん

【このおふたかたがぼくに今後アンフェアな扱いを受けるかもしれない】というところですが、実際のニケ氏の文章は、せとともこさんに対しては「あちらでのお立場が悪くなることも心配」、私に対しては「せとさんへの気持ちと同じように申し訳ない気持ち」ですよね。

ニケ氏は、poohさんの6/13エントリのコメント欄で、ニケ氏に共感を表明するという、極め付きの少数派に対し気遣いの言葉をかけたのであって、poohさん個人の論者としての質を疑ったものではないと思いますよ。
私はこんな程度↓に読み取りました。

「あちら」=poohさんの6/13エントリのコメント欄
「立場が悪くなる」=コメンターの大多数から反論を受けてしまう
by alice (2008-06-19 11:23) 

黒猫亭

>aliceさん

あ、やっぱりその箇所のことでしたか。他にも言及があるのかと思ってログをチェックしたんですが、その箇所であれば、オレも大体同じように受け取りました。ただ、今は削除されているとはいえ、本文のほうではニセ科学批判者一般をアンフェアだと批判しておられたわけですから、やはりその文脈上でコメントも読まれてしまうのは仕方がないかな、とも思います。

>poohさん

aliceさんのご指摘の通りであれば、オレもニケさんはpoohさんがせとさんやaliceさんにアンフェアな振る舞いをなさるという意味で仰ったのではないと思いますが、これは本人に伺ってみないとわからないことですし、前述の通り本文の兼ね合いというものもあると思います。

まあ、たしかに説得という意味では難しさはありますね、言説批判では届かないし、個人性を表に立てると対立点が絶対化してしまう。これは相手の論自体に混乱があるからでもありますね。

ニケさんの言説を痛烈に批判されたpoohさんのお名前が出てくる場面では一切批判らしいことは仰っていないのに、削除された本文のほうでは「ニセ科学批判者」についての一般論としての批判を語っておられるのだから、本来poohさんも批判の対象のはずなんですね。だからpoohさんがニケさんのご意見をご自分に対する批判として解釈するのは自然でしょう。

そこの距離感や階層性の混乱が対話や説得を困難にしているのかな、と思います。
by 黒猫亭 (2008-06-19 11:53) 

せとともこ

こんにちは。

本エントリー「説得する」と言う大きな幹に関しては、
皆さんのコメントを拝見して、自分自身の認識が、もう一つ膨らんでいくようで、とても参考になります。
本を読むことや、ネットでの交流は自分の体験や経験の枠を超えるものとして、改めて感激しています。
実は、田部さんのニケさんへのコメントを何回もなんかいも読みました。
少なくとも私にはズバッ====と響きましたねぇ、、、
読みながら三木清を思い出して、つい自分の所で三木の文章を引用したくらいです。
「今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語らうとするのであるか。
怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
切に義人を思ふ。義人とは何か。怒ることを知れる者である。
人生論ノートより」

自分の中での「アルカイク・スマイル」にズドンです。
「曖昧な妥協は許さない」と「ここはこことして、取りあえず前に行こう」の二つのバランスの間でこれからも試行錯誤していきそうです、、、

さて、それはそれとしてpoohさんのコメント、及びaliceさん、黒猫さんのコメントを拝見して、私の関係在るところだけ書かせてください。
私もニケさんの文はaliceさん同様の感想を持ちました。
決してpoohさんへのアレコレではないと思います。
私はニケさんと何度もなんども会話・対話させていただいていますが、
あの方は「浪花節」のように熱くて、浪花節のように気を遣われる方です。
討論・議論は人ではなく、あくまで中身である、とするpoohさんと「気の遣い方」が違うだけではと考えます。

なお黒猫さん>
「そこの距離感や階層性の混乱が対話や説得を困難にしているのかな、と思います。 」
大丈夫ですよ!!!
すくなくともニケさんはニセ科学に対しては、糸は、それほどこんがらがっていません。(陰謀論に関してはちょっとこんがらがっているかも)

あの方がこんがらがっているのは、これとはまた「別のこと」では???と、思います。


by せとともこ (2008-06-19 12:59) 

pooh

> aliceさん、黒猫亭さん、せとともこさん

あぁ、まぁ、それならばいいです。こんなところのコメント欄でそもそも立場もなにもないだろうに、とか思うんですけどね(だから誤解したわけです。例によって「こちらの派閥」みたいなのを想定して、そこに対して「そちら」みたいな云い方をされたのかと思った)。

伝わる、伝わらない、と云う話で云えば、以前No.4560さんのエントリにかこつけてこんなエントリを書いたことがあります。

http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-09

いずれにせよ、ぼくらには言葉しかなくて。それが知らない誰かに伝わることがある、と云うだけでも、凄いことなのかもしれません。
by pooh (2008-06-19 22:09) 

pooh

katsuyaさんのところでこんなエントリが。

http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/56907959.html

いやこれ、完全に同意です。心底。
lets_skepticさんのご懸念にも関係してきますが。

ただ、ネットを介した対話、となると違ってくるんだよなぁ。
と云うかむしろ、ぼくは無意識に対話の場所をネットの上に限定して論じていたらしい、と云うことに気付いた。これはこれで間違いですね。
by pooh (2008-06-20 08:03) 

alice

> poohさん
紹介されたkatsuyaさんのエントリ、私も賛同です。
また、その後に続けて書かれているpoohさんの感想にも同意しつつ、自分の問題意識のありどころも見えてきた気がします。

それは、ネット以外の手段も含めた、情報提供や説得(説得という言葉には違和感がありますが)の方法ということのような気がしてきました。

そして、その対象は、ニセ科学だけではなく、オカルト、カルト、陰謀論、代替医療など非科学も含めたものであるべきなような。

科学者の方々にとっては、ニセ科学という風に対象を限定した方が対話が成り立ちやすいだと思いますが、その他の分野の人がこの手の問題を考えるときに、ニセ科学という枠にこだわらなくてもいいわけですよね。
by alice (2008-06-20 10:57) 

Narr

>田部勝也さん
 見てただけの私が今さら言及するのもどうかと思うんですが、参考までに私の思ったところを簡単に。

>黒猫亭さん wrote:
>「そして、田部さんとニケさんの対立点というのは、それぞれにとって大事なものを痍附ける脅威がニセ科学であるかニセ科学批判であるかの違いである、むしろそれしか違いがない、というふうに言えると思います」
 黒猫亭さんのこのご意見には、私は違和感があって。ここまで単純化できるものじゃないと思います。半分は正しいけれど、半分は違うというか。こういうふうに見えてしまうことが問題だというか。
 じゃあ何かと問われると、うまく説明できないんですが。

>田部勝也さん wrote:
>初めて書き込んだ当初から、その「ニケさんにとって大事なもの」が何なのかを聞き出したかった(ニケさん自身に自覚して欲しかった)だけなのですけど、どうやらダメでした。
 おそらく、関係無いんだと思いますよ。『「ニケさんにとって大事なもの」が何なのか』は。

 私は、人としては、田部さんの怒りは当然だと思うんですけれども。じゃあ今回のように感情を他人に見せるのが有効かというと、疑問にも不安にも思います。
by Narr (2008-06-20 20:52) 

pooh

> aliceさん

> ニセ科学だけではなく、オカルト、カルト、陰謀論、代替医療など非科学も含めたもの

基本的にぼくの問題意識はご指摘のくらいの広がりを持っているものなのだろう、と思っています。

ただ云いたいのは、それぞれにはそれぞれ特有の力学が働いていて、ひとしなみに扱えるものではない、と云うことです。根は繋がっている部分もあるかもしれませんが、まとめて同じ原理で理解出来るほど単純なものではないとぼくは思っています(代替医療に関してはいろんなかたのヘルプがいただけたことがあって論調を定めることができましたけど、宗教関連なんかぼく的にはまだぜんぜん)。

そう云う意味で、切り口を定めるのにはけして意義がないわけではない、と主張しておきます。
by pooh (2008-06-20 23:48) 

pooh

> Narrさん

要素はどっさりあります。ご存知の通り。
(って、お分かりだとは分かってますが)
by pooh (2008-06-20 23:50) 

田部勝也

みなさん、私の「誰か“ビリーバーは説得できない(から、ほどほどでやめとけ)”って、はやく僕に言って(切実)」には親切なレスをたくさんくれるのに、「“上から目線を感じる”とかいった不満を言い出すような相手とは、そもそも対話は不可能」説のほうはスルーなんですね。さびしい……(苦笑)。
このエントリ記事的には、「“上から目線を感じる”とかいった不満を言い出すような相手とは、そもそも対話は不可能」説のほうが、いろんな意味で示唆は深いと思ったのですけど……まぁ、いいか(苦笑)。

ここの別エントリのコメント欄にも書きましたけど、以前『kikulog』に書いたこのへんの話が、私の中でずっと問題意識として残っているんですね(↓)。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171442853
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171637869

本当に届かない。それはもう絶望的なほどに。そして、届かない理由が(自分にとっての人間としての矜持とか誇りとか、そういう自分勝手な基準で見ると)あまりに情けなさ過ぎる。
いや、私の(2008-06-19 04:57)のコメントに、的を射てる部分がほんの少しでもあるのならば……という仮定の話にすぎないんですけどね。

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余談その1(あくまで余談のつもり)

せとともこさんの引用された三木清の言葉は60年前のものなんですよね。時代は変わった……のかなぁ。教員をされているなら、「子どもを怒ってはいけません。常に優しく話しかけて理解させましょう」と強く言われたり、自分を戒めていらっしゃるのではないでしょうか(少なくとも私はよくそう怒られました)。それは、間違った事ではないと思います。

実際問題、どれだけ怒りをぶつけても、「(よく分からないけど)これほど傷つき激昂し許し難い気持ちになっている人間がいるんだ……知らなかった。悪い事をしたかも……」といった「人間の感情的反応」を引き出す事などできないのが、自分の力だと実感するしかないわけで……。
素直に怒りをぶつけてみても、(ギャラリーも含めて)逆ギレされるか、「ナニ、マジになってんの? コワーイ」的な反応を引き出してしまうだけなのが現実なわけで……。
まぁ、力のない者の愚痴なんですけど。

で、怒りの表出が、もともと賛同してくれている人の溜飲を下げるだけのモノでしかないのでは、まったく意味はないし……というか、それだけでしかないのだとしたら徹底的に非難されて当然だし。

Narrさんの懸念はもっともで、たぶんpoohさんが紹介されたkatsuya_440さんのエントリ記事(↓)
http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/56907959.html
のような状況・条件でしか、怒りの感情は届かないモノなのでしょう(さすがにたった7年だけでも教員してれば実感として分かります)。だからこそ、相手にとっては「感情」が何よりも(「科学」や「論理」なんかよりも)大切だと分かっているのに、いわゆる「ニセ科学批判者」が誰も感情を前面に押し出したりなんかしないわけで。そこにはやっぱり理由がある。
とりあえずは、今回の自分の言動が、ケーススタディとして検討の対象となり、今後の教訓となってくれれば、これほど嬉しい事はありません──というか、そこにしか救いがないかも(本当は今回のようなケーススタディは過去にいくらでもあって、その上での現在のような方法論なのでしょうけどね……)。

以前、きくちさんが、批判や対話の仕方・態度について、「笑いは難しい」といったような事を書いていたような気がしますが、「それ以上に怒りは難しい」というところでしょうか。

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余談その2(本当にただの余談ですよ)

以下、くだらない自分自身の矜持というか、心情吐露というか。
私は、人間が成長するとか向上するとか、そういう事は「傷つけたり傷ついたりする事」を避けては通れないと思ってる節がちょっとあって。成長するとか向上するとかって、「今までの自分の無知や無力や過ちを知る・気づく」事──究極的には「それまでの自分否定=人格否定」?──があるからできるものだろ……とか。心地良い言葉や体験だけで素敵な人間になれるほど、自分は欠陥のない・欠陥の生じ得ない完全体に生まれついたわけじゃない……とか。なんだか、カルトのマインドコントロールの手法そのままみたいな話ですけど……(苦笑)。
そんなわけで、最大唯一の価値判断基準として「絶対に少しも傷つきたくない」とか「ぼく(やその仲間)を傷つけないで・傷つける奴は許さない」とか宣言されると、もう、際限のない肯定のしあいか、傷の舐めあいしか有り得ないわけで。
もちろん、肯定のしあいや傷の舐めあいは必要なわけで、自分はそれなしで生きていられるような人間では絶対にないし、いつでもどこでも常に「成長しろ」「向上しろ」とか、どっかの経営者みたいな事は、私は絶対に言えませんけど、「お互いを高め合うためにする対話」が成り立つ条件として、双方に「傷つけたり傷ついたりする」覚悟は多かれ少なかれ必要なんじゃないかな……とは、ちょっと思ってみたり。自分はマゾなんでしょうか(苦笑)。
──なんだか、こんな事を書いてると、本当に自分が後戻りできないほどに危険すぎる領域にまで先鋭化・カルト化してしまっている狂信者みたいで、なんかイヤだな……。まぁ、反面教師という事で、どうかひとつ。
by 田部勝也 (2008-06-21 02:21) 

黒猫亭

>Narrさん

>>じゃあ何かと問われると、うまく説明できないんですが。

それは説明出来ない種類の事柄だからではないでしょうか。勿論、Aという人の言説とBという人の言説が「違う」のは当然なんですが、それを読んでいるCというAB両氏とまったく断絶した位置にある読み手がそれぞれの言説の是非を判断する場合、「説明出来ること」で判断する以外ないと思うんですね。

だから、殊にテキストオンリーの遣り取りでは、可能な限り「説明出来ること」の範疇で議論を進めることが望ましいわけですが、この場合に差し出されているのはそれぞれの方の個人性なので、大半が「説明出来ないこと」なんですね。だからそもそも第三者には、半分くらいしか是非の判断が出来ないということなんだと思います。

個人性を軸にした議論が難しいのは、第三者にはその是非が判断出来ないし、議論当事者同士の間で通じなかったらそこで議論がオシマイになってしまう、というところなんだと思います。おそらくNarrさんが感じられる違和感というのは、個人性が軸になっている議論なのに個人性の部分には言及していないことから生じるのではないかと思います。ただ、それに言及することは、それこそ読み手個人がどちらの個人性に「共感」を覚えるかという話になってしまうわけで、これはこれでまた難しい問題になるのだと思います。
by 黒猫亭 (2008-06-21 04:19) 

黒猫亭

>田部さん

>>このエントリ記事的には、「“上から目線を感じる”とかいった不満を言い出すような相手とは、そもそも対話は不可能」説のほうが、いろんな意味で示唆は深いと思ったのですけど……まぁ、いいか(苦笑)。

元々の「ビリーバーは説得出来ない」というきくちさんのご発言の趣旨というのは、きくちさんご自身が説明されているように、「説得出来ないのがビリーバー」というトートロジー的な定義に依拠しているわけですよね。それは個人に固有の言説による説得は万能ではなく限界があるという意味合いになるのだと思うんですが、ではどういう相手は説得出来ないのか、という「一般論」をしてしまうと、それこそ「そういう相手」の説得は最初から放棄するのか、という話になると思うんですよ。

なので、「誰か“ビリーバーは説得できない(から、ほどほどでやめとけ)”って、はやく僕に言って(切実)」というご意見には特段の異論もないわけですが、「“上から目線を感じる”とかいった不満を言い出すような相手とは、そもそも対話は不可能」説というのは、きくちさんが仰るような意味では「ビリーバーは説得出来ない」という言説とは整合していないな、と感じるところがありまして。

結局前回のオレの意見も、ニケさんに対する説得としては田部さんの言説は相性が悪いのではないか、というものですし、poohさんやTAKESAN さんの言説批判は相手に届かないし、田部さんの個人性に基づく批判は相違点が絶対化してしまうから相性が悪いということになると、どういう言説が説得の言葉として通じるのかは難しい問題ですね、というのがオレの考えですから、或る特定の言説の傾向を示す論者とは「そもそも対話は不可能」というのは「一般論」としては成立しないと思います。

そうすると、田部さんとはまた別のロジックやアプローチの論者もまたそういう相手とは対話出来ないという意味の一般則になりますから、自身に固有のロジックやアプローチしか持たないという限界を持つ田部さん個人がそういうふうに言い切って好いのか、という疑問も感じますし。この議論では、どなたにせよ、「自分個人には説得出来ない種類の相手がいる」という以上のことは仰っていないと思うんですよ。

で、たとえば田部さん個人の言説を視る場合、個人としての怒りの感情を露わにしておられるのですから、相手によっては高圧的で攻撃的な言論に見えるという側面は確実にあるわけで、その場合に「上から目線だ」と言って過剰に防衛的になる相手とはたしかに対話は成立しないだろうな、とは思いますから、田部さん個人の言説の限界としてのお話なら理解出来ます。

>>以前、きくちさんが、批判や対話の仕方・態度について、「笑いは難しい」といったような事を書いていたような気がしますが、「それ以上に怒りは難しい」というところでしょうか。

たとえば「子供を怒る」というとき、実は日本語として「てにをは」が間違っていますよね。正しくは「子供に怒る」でしょう。でも「子供を」でも通じてしまう。この辺はあんまり突っ込んで論じると襤褸が出ますが(笑)、この場合に「怒る」というのは「叱る」が代替されているところがありますよね。子供から見ると大人が怒っているように見えるけれど、教育的な意味では「怒る」というのは手法として「怒ってみせている」わけで、子供相手の場合、教育の為の身振りの問題だったりするわけです。

身振りとして怒る、というのは、やっぱり未熟な相手に対する説得の手法ではあるわけで、相手によっては別の意味で「上から目線」と感じさせるリスクがある。また、心底怒っている場合は、それこそご自身や周囲の人々の感情的な慰藉しか得られない場合が多いわけです。そもそも、人間が他者に対して発露する感情の中で、怒りというのは最も攻撃的で相手を興奮させたり怯えさせたりしやすい強い感情ですから、対話それ自体を怒りの感情が圧し潰してしまう可能性は常に高いわけです。

その意味で、怒るというのはかなりリスキーな手法であることはたしかだと思います。怒らなければ成立し得たかもしれない対話の可能性というものが、常に在り得るわけですから。たとえば、怒りを露わにされる田部さんとは逆に、オレの場合「相手を怒らせてしまいやすい」という固有の限界を抱えているようですが(笑)、そこで「議論において感情的になる相手とはそもそも対話が不可能だ」と一般論として言っても成立しないと思うのですね。
by 黒猫亭 (2008-06-21 05:10) 

pooh

> 田部勝也さん

えぇと。

「上から目線」だのを云い出すのは、そもそも議論のレイヤーをすり替えるための試みですよね。だから、やっぱり大事なのは「どう乗らないか」だと思うんですよ。そこに自分から降りていっちゃうと説得もなにもなくなってしまう、とぼくは思うんですよね(いやこれ、異論をお持ちの方は多数いらっしゃるだろうな、って気がしますが)。

ちょっとNarrさんのエントリをリンクします。

http://blogs.dion.ne.jp/beta_reverse/archives/7221653.html
by pooh (2008-06-21 07:24) 

pooh

> 黒猫亭さん

感情ってのがひどくパーソナルなものだ、と云うのがひとつのキーなのかな、と。自分にとっても、相手にとってもパーソナル。

ひどく当たり前のことを云ってしまって恐縮ですけど。
by pooh (2008-06-21 07:29) 

Narr

>黒猫亭さん wrote:
>それは説明出来ない種類の事柄だからでは
>おそらくNarrさんが感じられる違和感というのは、個人性が軸になっている議論なのに個人性の部分には言及していないことから生じるのではないか
 私の認識としては、最初から最後まで個人性(の具体的な内容)は関係ない話だと思ってます。「ニケさんにとって大事なものが何なのかは関係無い」も、そういうことで。

 田部さんの怒りは個人性に起因する怒りではなくて、公共意識と言ったほうが適切です。公共意識をリアルに個人としても感じることによって生まれた怒り。で、ニケさん(だけでなく、ニケさんに共感を感じる人の意識)も、これも一種の公共意識です。公共意識といっても、田部さんとは別の形です。つまり、個人性を軸にした議論ではなく、実質的には公共意識と公共意識の対立です。実質的には公共意識どうしの対立なんですが、あるレイヤーに合わせて対話を行うと、あたかも個人性の対立の構図のようなものになってしまう。
 この場合の「第三者が田部さんとニケさんのどちらに共感を感じるか」というのは、「田部さんとニケさんの個人性のどちらに、個人的に近いものを感じるか」というのではなく、「どちらの公共意識を理解しやすいか」「どちらの公共意識が、自分にとって都合が良いか」の問題。
 と、私の認識はこういうものです。

 黒猫亭さんは、私が違和感を感じる理由を「個人性が軸になっている議論なのに個人性の部分には言及していないことから生じる」と想像しておられますけれど、そういうことではないです。私の違和感は「個人性は関係ない話をしている(と私は認識している)のに、あたかも個人性が軸になっているような議論をしている。議論の当事者だけならともかく、周囲の人達までも、個人性が問題だと割り切って受け取ってしまうのには、違和感を感じる。何か割り切れない、構造的な疑問を感じるべきではないだろうか?」です。

 で、私がうまく説明できないのは、こういうことを色々と考えていて、まとまってないから、なわけで。

>田部さん wrote:
>Narrさんの懸念はもっともで、たぶんpoohさんが紹介されたkatsuya_440さんのエントリ記事(↓)
>http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/56907959.html
>のような状況・条件でしか、怒りの感情は届かない

 これはもう少し詳しく言い換えると、「田部さんから見ると、このような状況でしか、怒りの感情が届いたと感じることはできないであろう」だと思います。
 文字通りに、怒りの感情が届かないということはないです。むしろ逆に、届き過ぎるんだと思います。田部さんの望まない別の形で届いてしまうことが問題。感情だけが別の形で増幅されて届いて、内容が届かない。
 感情をしっかりと受け取っているつもりになっているけれど、実際には全く分かってない人に対して、繰り返し繰り返し伝えようとすると、その行動から別の意図を勝手に読まれてしまうことになります。「上から目線」だけでなく、他にも色々と、まぁ、たくさん。
by Narr (2008-06-21 21:57) 

pooh

> Narrさん

なんか、論じ方と論ずる題材のギャップ、みたいなお話なんですかね。
by pooh (2008-06-21 22:20) 

黒猫亭

>Narrさん

ああ、もう少しシンプルな問題意識だったのですね。公共意識の問題を話し合っているのに、何故個人性を差し出しているのか、という。一応、オレもそこの問題性自体は踏まえています。

本来公共意識の問題というのは、さまざまな人々に一般的に当てはまる事柄を論じているのですから、個人性とは関係ない話だろう、というのはまさにその通りです。ですから、本当なら大多数の第三者が客観的に納得可能なロジックを軸にして論ずべき問題ではあるのですし、ニセ科学批判の言論というのは基本的にその主調で論じられているはずですね。

しかし、この場合問題になっているのは1 to 1の説得(そこから間接的に立ち上がってくる普遍性)という文脈なので、グローバルに理解可能な客観的ロジックでは届かない相手というのが出てきます。一面では、どんな議論にも個人性の動機があるというのも真理ではありますし、相手によってはその論者の個人性を差し出さないと言説を信用しない方というのもいらっしゃるわけです。

勿論、一般的な議論の状況において個人性を持ち出すことは、解消不能な紛糾の元でしかないのですが、1 to 1の説得の場面においては、個人性を赤裸々に差し出すことでしか届かない場面というのも在り得るわけです。

で、田部さんとニケさんの議論というのは、田部さんが公共意識に関する個人性の部分を差し出すことで、客観的な言説批判では納得されないニケさんとの対話を試みられたということになると思います。ニケさんもまた個人性を前面に出して主張を展開しておられるので、その意味ではロジックの性格は合致しているわけですが、ただ、このようにして個人性を差し出すことは、言説の強さしか伝わらないし、一歩間違えば解消不能な対立に帰着する、というデメリットがあると思うのですね。

その強さが相手に伝わって共感を得る、という、割合客観的なロジックとは無関係なところで両者間の信頼関係が成立して、相手の意見を受け容れる下地が作られれば、それは説得の場面において「方法的に」有効だったということになります。

しかし、そもそもこういう形で議論を交わす以上は結論が相違しているわけですが、言説の強さが相手の共感を呼ぶ、という、客観的ロジックとは無関係な心理機序がうまく機能しない場合、相違点は解消されず絶対化する、そういう意味で申しあげました。

つまり、個人性を差し出すことでしか通用しない説得の局面はあるのだけれど、個人性の議論というのは、そもそも相違点をロジカルに解消していく対話ではない、その意味で、気持ちの強さが通じなければそこで話がオシマイになってしまうという弱みはある、そういう意味でした。
by 黒猫亭 (2008-06-22 06:49) 

黒猫亭

あ、一つ大事なことを書き漏らしました。

「説得」ということで謂うなら、その所期の帰着点は相手の「納得」ですよね。この「納得」というのは、poohさんが別のところでも論じられていることですが、割合デリケートな問題で、その納得の根拠を奈辺に置くか、というのは当然個々人によって偏差があるわけです。

極単純化して謂えば、たとえば「客観的なロジックの整合や妥当性」に納得の根拠を置く方もおられれば、「個人的な実感」に根拠を置く方もおられるわけで、これは納得の根拠ということで謂えば、別段どちらが正しくてどちらが間違っているということは言えないわけです。

で、前者を根拠に置く方に対しては比較的容易に説得が可能で、言説のロジックを詰めて整合性や妥当性を整備することで、相手は納得「せざるを得ない」という形で言説を受け容れるわけです。

しかし、後者を根拠に置く特定の方を説得するなら、客観的ロジックだけでは足りずに或る程度個人性を差し出す必要がある。ところが、個人性を差し出せばそれで納得が得られるかと謂えば、必ずしもそうとは限らない、というか、かなりリスクが高い。

そして、世の中には後者に納得の根拠を置かれる方が割合たくさんおられるので、対等な議論という局面では最重要視される客観的なロジックも、「説得」という文脈で謂えば万能では在り得ない。個々の言論者個別の限界を抱えざるを得ないだろう。そういう関係になるかと思います。
by 黒猫亭 (2008-06-22 07:14) 

pooh

実際のところは、Narrさんと黒猫亭さんはそれほどすれちがっているわけではないのでしょう。

難しいのは、「こうあるべきだし、そうあれればうまくいく」→「どうやったらそうあれるの?」と云うような部分の接続なんだろう、と云う気がします。
by pooh (2008-06-22 07:24) 

Narr

>黒猫亭さん

 いえ、問題意識ではなく、違和感です。問題意識と違和感はぜんぜん違います。違和感は限定された部分のみを指し示した感覚に過ぎません。しかし、問題意識は考察の対象の全体を指し示してます。私が実感している問題意識はシンプルでない。問題意識はシンプルでないから「色々と考えてまとまってない」わけで。
「私は、違和感を持っている」という表明以上ではないです。それ以上は責任を持って話ができない。まとまってないですから。私のモヤモヤを、ここで拙速にまとめる必要は無いです。


 仮に、実質的に公共意識の対立だとしても、それが個人性の言い合いのようなものになってしまうこと自体は、不思議でないと言えば不思議ではないです。対話の当事者は、公共意識の基本的な構造そのものが対立していること自体に気付かないのが殆どだから。私が言っているのは、構造そのものが異なった公共意識が対立しているのではないだろうか、ということです。ある公共意識のルールに基づいた、誰にでも理解できる公共的な主張が対立しているのではなく。
 私は、今回の田部さんとニケさんの対話だけを見ているつもりはなくて、個人的な経験を含めて、一般化して考えてます。

 大抵の論者は、公共意識の構造(言い換えれば規格・判断基準)が、一致していることを前提に話をします。構造が一致しているのなら、問題になるのはデータです。そのデータが、論者お互いの主張内容になってる。
 ある構造において、ある主張の決定的な根拠となる(と、それぞれの論者が認識している)のがデータならば、データだけの言い合いになります。それが今回、表面的には個人性のように見えるものを言い合うこととして現れた。

>1 to 1の説得の場面においては、個人性を赤裸々に差し出すことでしか届かない場面というのも在り得る

 今回のケースで問題になっているのは、「ある文化圏においては、個人性を赤裸々に差し出すように見せかけることでしか、意見表明として認められない公共意識がある」だと認識してます。
 「一対一の説得の場面だから、個人性を差し出すしか方法が無い」ではなく、「一対一の説得の方法しか、有効な意見表明として認められない文化圏」。大雑把かつ一面的な見方ですけど。

>客観的な言説批判では納得されないニケさんとの対話を試みられた
>ニケさんもまた個人性を前面に出して主張を展開しておられる

 「客観的な言説批判では納得されない」は、一面的な見方では結果的にはそうかもしれないですが、私の認識とは微妙に違います。「ニケさんは、ある文化圏の人から見れば、客観的な言説批判が、もともと有効ではない公共意識で判断しているように見える」です。ニケさん個人が客観的な言説批判を軽視している人なのではなくて。
 ニケさん個人は、ニケさんが客観的な言説批判だと認識する批判であれば、納得する人なのではないかと私は想像しています。「何が客観的なのか」の基準が違っている、というか。お互いに「あなたは客観的でない」と批判し合う構図になっている、というか。
 乱暴に言い換えると、「ある公共意識に基づいて判断を行う文化圏では、客観的な言説批判は重視されないのが正しいとされている」ですかね。ここまで言うと、観測者の視点の問題で、言いがかりととられる場合も多々あるんですけれど。(これは、ニケさんに直接述べる批判の言葉としては間違ってます。)

 今回のような問題を考えるときに必要なのは、「観測者の立ち位置はどこにあるのか」「観測者の観測基準はどのようなものなのか」を意識することです。観測者によって、同じ現象が別の意味に見えてくるから。言い換えると、「自分が第三者的な、絶対基準となる視点で見ているとは限らない、と認識する必要性がある」です。
 もっとも、これも考えがまとまってないです。私がここで言っていることは、もやもやした概念、という程度に受け取ってください。

>つまり、個人性を差し出すことでしか通用しない説得の局面はあるのだけれど、個人性の議論というのは、そもそも相違点をロジカルに解消していく対話ではない、その意味で、気持ちの強さが通じなければそこで話がオシマイになってしまうという弱みはある、

 最初に私が表明した違和感は、特にニケさんサイドの意識が、「個人性を差し出すことでしか通用しない」という社会意識、ルールのようなものがあるように、別の社会意識を持っている人には見えてくる。そういうニケさんのルールに乗ってしまうと、根本的に対話が成り立たないのでは、ということです。最初から「話がオシマイになってしまう」と決まっているルールに乗るべきではない。最初から話がオシマイになってしまうのが前提のもとに成り立ってる社会意識なんですから。
 だから、特に第三者は、今の段階で「個人性が問題になっている」と割り切るのは早計ではなかろうか、ということ。

>極単純化して謂えば、たとえば「客観的なロジックの整合や妥当性」に納得の根拠を置く方もおられれば、「個人的な実感」に根拠を置く方もおられる

 これを視点を意識して認識する必要がある、というのが、私の問題意識の一つです。「客観的なロジック」とは、誰がどのような基準から見て客観的なのか。「個人的な実感」とは、誰が見た「個人的な実感」なのか。現実には、対立する論者がお互いに「あなたは客観的ではない」「私は客観的である」と主張し合うことがある。
 自分が「客観的なロジック」として提示した主張が、相手に届くと「それはあなたの個人的な実感ですね」と理解される。逆に相手が客観的なロジックのつもりで提示した主張が、自分には主観的な思い込みに見える。こういうことから、お互いに「何が客観的なのか」の基準が異なっていて、かつ、お互いの文化圏で公共意識の構造(言い換えれば規格・判断基準)が異なっている、と私は考えてます。

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>poohさん
>実際のところは、Narrさんと黒猫亭さんはそれほどすれちがっているわけではないのでしょう。

 すれ違いというか、話が進みすぎというか。もちろん進んでも構わないんですが、私も自分の考えがまとまってないので、責任を持って進められないんですよ。私も、言っていることがコロコロ変わるかもしれないので…。
 もともと、自分のブログで書いてる以上のことは言えないです。自分でも自分の文章は意味が通らないと思っているのに、人様のところで話はできないですよ。
 要点だけなら、「私の違和感はここにある」「問題意識ではなく違和感」ということだけです。私はそこから先のことまで言いたいわけじゃないです。今は意見が同じだとは言えない、と確認したいだけというか。
 すいません長文で。相手が黒猫亭さんだから、長くても大丈夫かな、と。
by Narr (2008-06-22 11:16) 

pooh

> Narrさん

いや、長いのは大丈夫ですよ。気にしないでください。
だんだんお話が難しくなってきてますが(追いきれていない)。
by pooh (2008-06-22 12:21) 

黒猫亭

>Narrさん

一通り読ませて戴きましたが、やはり理解しづらいですね。仰る通り、こちらは長い分には気にしませんので、poohさんのほうでお気になさらないなら構わないのですが、Narrさんの中で論が成熟しておられないのでは、結局お答えのしようがないですね。

オレの意見に「違和感を感じる」と仰るので、Narrさんのご意見からあれこれ真意を理解しようと努めているわけですが、Narrさんご自身の中でそこまで整理が附いておられないとすると、他人であるオレには尚更わかりません。

>>すれ違いというか、話が進みすぎというか。もちろん進んでも構わないんですが、私も自分の考えがまとまってないので、責任を持って進められないんですよ。

そういうことであれば、そういうふうに仰って戴ければこちらもその時点でNarrさんの論の成熟を待って判断を留保したと思うのですが、違和感の表明以降の一連のご発言は「論を進める」方向のものであるとお見受けしました。
by 黒猫亭 (2008-06-22 19:58) 

Narr

>黒猫亭さん
>オレの意見に「違和感を感じる」と仰るので、Narrさんのご意見からあれこれ真意を理解しようと努めている
 不要です。というか、いきなり先に進みすぎです(笑)。

>違和感の表明以降の一連のご発言は「論を進める」方向のものであるとお見受けしました。
 逆です。論が私の意図より先に進みすぎたから、戻そうとした。
 ええと、ここで議論のやり方を話してもしょうがないんですが。私がなんでこういう発言をしたかというと。

>黒猫亭さん wrote:
>おそらくNarrさんが感じられる違和感というのは、個人性が軸になっている議論なのに個人性の部分には言及していないことから生じるのではないか
 私が感じる違和感の原因は何か、ということを推測しておられるわけです。その、「他人が感じる違和感の原因を推測すること」と、「真意を理解しようと努めること」とは、似て非なるものです。で、その上で、黒猫亭さんの辻褄の合わせ方が整然としていたので、私が自分で「私はそういうことは考えていない」と否定する必要が生まれた。

>Narr wrote:
> 黒猫亭さんのこのご意見には、私は違和感があって。ここまで単純化できるものじゃないと思います。半分は正しいけれど、半分は違うというか。こういうふうに見えてしまうことが問題だというか。
> じゃあ何かと問われると、うまく説明できないんですが。
 私が最初に書いたのは、これ。
 黒猫亭さんが実際に行ったのは、「黒猫亭さんの論の範囲内で、Narrが違和感を感じる原因を仮定し、黒猫亭さんの説に組み込んで、自説を改めて述べた」、ということに過ぎません。「Narrが何を述べようとしているのかを理解しようとしている」のとは違います。
 私は「ここまで単純化できるものじゃないと思う」と述べています。ですから、黒猫亭さんがもし「真意を理解しようと努めている」のなら、「上手く説明できないのなら、説明できる範囲で構わないから説明してくれ」「あなたは、私の論に何が足りないと考えているのか?」と質問すればよかった。繰り返しますが、実質的に黒猫亭さんが行ったのは、「黒猫亭さんが、『Narrの違和感』を組み込んだ、黒猫亭さん自身が納得できる仮説を作って述べた」です。

 「私が感じる違和感の原因が何か」ということを、黒猫亭さんは、黒猫亭さんの論に従って書いておられるわけですから、事実と違う推測をされたら、私は自分で否定する必要がある。黙っていたら承認したととられる可能性がありますからね。私が真意を説明するためには、結局のところ、私が考えているところを不完全でも説明する必要があります。つまり黒猫亭さんは、事実上、私が詳しい説明をする必要性を作ったのと同じこと。
 黒猫亭さんは、私がそのように受け取ったことを自覚しておられないから、私が自分の意思で自ら論を進めようとした、と受け取られたのでは。もっとも、こういう私の受け取り方が正しいかどうかは、私には判断つきませんけれど。

 私は「何かと問われると、うまく説明できない」とも書きましたから、カウンセラー的(?)に、分析して説明しようとするのも仕方ないです。しかしそれは「真意を理解しようと努める」のとは違います。

--------------

>やはり理解しづらい

 ええと、以前に比べれば、だいぶ整理できたんですけどね。やっぱり分かりにくいですか。こうなるんじゃないかと思って、

> じゃあ何かと問われると、うまく説明できないんですが。

 と、このように。
by Narr (2008-06-22 21:24) 

Narr

△「あなたは○○のように考えているのではないか?」
■「いいえ、私はそんなことは考えていません。」
△「しかし、私はあなたが○○のように考えていると感じている。」
■「そう思わせてしまったのなら申し訳ないですが、私はそういうことは考えていません。」
△「あなたは私が○○と感じたことを否定するのか?」
■「ですから、あなたにそう感じさせてしまったことは申し訳ないですが、客観的な事実として、私はそういったことは考えていません。」
△「私が○○と感じていることは、客観的な事実だ。あなたに否定される筋合いは無い。」
■「そんなことを言われても。誤解しておられるのは、◎◎が原因ではないですか?」
△「あなたは私の感じ方を壊そうとしているのか? あなたは非常識だ!」
■「……………すいません。」

 極端なのか、極端でないのか、よく分からない例ですが。今のところこれくらいしか例が思いつかず。今回のニケさんと田部さんの件に関係ないと思われるかもしれませんけれど、私としては別だとは思っていません。
 こういうのを含めて、特定の個人の問題ではなく、△さんのような人たちが集まって何らかのルールが作られていると考えると、ヨミトリニクイ文章になってしまった。私もわけがわからない。
by Narr (2008-06-22 21:48) 

aoyama

aoyamaと申します。

Narrさんwrote at 2008-06-20 20:52
> 黒猫亭さんのこのご意見には、私は違和感があって。ここまで単純化できるものじゃないと思います。半分は正しいけれど、半分は違うというか。こういうふうに見えてしまうことが問題だというか。
> じゃあ何かと問われると、うまく説明できないんですが。

上記のように疑義を提起されれば『オレの論のどこが問題だったんだろう?』と検討を始めること、そしてその検討に疑義を提起した人がつきあってくれると期待すること、は間違っていないと思います。
(「うまく説明できないんですが」と釈明が付いていてもです)
あらためて論を見直すことでその内容がより深まるということもあります。

「黒猫亭さんのこのご意見には、私は違和感があって。」としているのですから、「「私が感じる違和感の原因が何か」ということを、黒猫亭さんは、黒猫亭さんの論に従って」検討するのは当然でしょう。

推測の内容に苦情を申し立てるのならば、Narrさんは他人に伝わるようにNarrさんの論をまとめるべきではないですか?
(さもなければ沈黙。推測に対する沈黙は同意を意味しません)


上記の意見は別としても、私にはNarrさんのコメント内容およびコメントの目的が分かりません。



by aoyama (2008-06-22 22:29) 

Narr

>aoyamaさん
>私にはNarrさんのコメント内容およびコメントの目的が分かりません。
 すいませんでした。今後控えます。
 (「コメントの目的」は、最低限、「私は黒猫亭さんと違う意見を持っていると表明すること」でした。poohさんが何度か参考にと私の名前とエントリを出しておられたので。)

>推測の内容に苦情を申し立てるのならば、Narrさんは他人に伝わるようにNarrさんの論をまとめるべきではないですか?
 沈黙する必要は無いと考えてます。「推測の内容が違う」と言うだけでも良かった。ですが、それだけではなくて、可能な限り説明した、というつもりです。(poohさんは田部さんに、私のエントリを参考に出しておられましたから、その内容に沿っているつもりでした。)
by Narr (2008-06-22 22:48) 

Narr

> 沈黙する必要は無いと考えてます。「推測の内容が違う」と言うだけでも良かった。
 度々すいません。このあたり、なんだか自己矛盾しているようで。

 「推測の内容が違う」と言うだけでは説得力が無いし、過去、しばしば、自分で違うと言うだけでは、誤解が解かれなかったことが非常に多くて、説明の必要を感じました。
by Narr (2008-06-22 23:00) 

pooh

> 黒猫亭さん、Narrさん、aoyamaさん

まず、Narrさんのおっしゃっていることは苦情ではないです(って、ぼくが云うことではないですが、黒猫亭さんにはお分かりかと)。ですので、控えていただく必要はありません。

詳細を検討して、筋道を見つけるのが黒猫亭さんのスタイルで。で、単純な善し悪しではないにせよ、その筋道が違っている(または要素を取りこぼしている)ケースは生じます。で、それに対してNarrさんが相違点を述べられるのは自然で。

で、消化できていないぼくとしては、勝手ながらのんびり議論を進めていただけるとうれしいです。もちろん、ただの要望ですけど、参考になるので(もともとNarrさんは、ぼくにはぜったいちゃんと考えられない部分について追求されていますので)。
by pooh (2008-06-22 23:05) 

Narr

>poohさん

 すいませんでした。何にしても、自分でも意味が咀嚼できていない長文を書くにも、許される程度がありますね。

 黒猫亭さんと、aoyamaさんと、ROMの皆さんにもお詫びします。

 (水伝騒動で文章について偉そうに言っててこれだから…自分が情けない。)
by Narr (2008-06-22 23:14) 

黒猫亭

>Narrさん

どうもオレには、NarrさんがNarrさん以外の人間にNarrさんのお考えがどのように伝わると考えておられるのか理解出来ません。Narrさんが挙げられたような推論の過程もまた、他者がNarrさんのご意見の真意を理解する為のプロセスだと思うのですが、それを否定されると、何というか非常に神秘的な伝達プロセスを想定するのでもない限り、他者の考えを理解することが不可能になるように思います。

なので、Narrさんのご意見に対する言及は控えようと思いますし、Narrさんのご意見を理解しようという努力も致しません。

>>(poohさんは田部さんに、私のエントリを参考に出しておられましたから、その内容に沿っているつもりでした。)

それはこの場におけるオレの言説には無関係な話ですよね。poohさんの言及は、オレの論に繋がる文脈で挙げられたものではありませんし、そういう意味ではNarrさんが何故Narrさんの言説とは無関係なオレの論に対して「私は黒猫亭さんと違う意見を持っていると表明」されたのか、理解出来ていません。
by 黒猫亭 (2008-06-22 23:16) 

TAKA

ニケさんてまだ、お若い人なのかしら?そうであるならば、色々悩んでいるニケさんを、親切な案内人がその手を取って、理解の本道を逐一教えてあげるのは、良い事です。将来ニケさんが、立派なニセ科学批判者に成った暁には、きっと生涯、感謝してくれる事でしょう。

ちなみに私自身の場合、こう考えています。「いつまでも愚痴を零している暇があったら、その分修行に励みたい。自分の思考は自分で磨く。他人に頼っているばかりでは、大きな成長は見込めない。」

>説得を諦める段階 試みる段階

確かに、最初からいきなり「ビリーバーか!」と言う批判者は過去、居なかったような気がします。しばらく対話を試み、「おっとこの人ならば、聞く耳を持っている。みたいな?」という感触を得れば、気の長い批判者たちは、こう考える事でしょう。「もう少し、説得を継続してみよう。何か実りが、有るかも知れない。」

そう言えば私は過去、poohさんに「批判は心強い。もっとやってくれ。世に蔓延るトンデモを、もっと切ってくれ」という趣旨の意見を述べたことがありました。その後勉強を進めて、到達した結論はこう成りました。
「批判の仕方は人それぞれ。試行錯誤し、良い結果、悪い結果を批判者達で共有する。より効率の良い、批判の有り様を見ざして。そしてその情報を、多くの人の目に届く場所に置くのが、望ましい。批判者を目指す後輩の、道案内と成るからだ。」

今、私は望みます。ニケさんが子ども扱いされず、臥龍の庵を将来、一人で出立できる、その威風堂々とした姿を。

今日はこんな感じです。たまには真面目な意見を述べておきます。最近の読者が誤解しますからね(^^。「なんだあれ?あんな放言ばかりの者が出没するブログって、どうよ?」
by TAKA (2008-06-23 00:32) 

Narr

>NarrさんがNarrさん以外の人間にNarrさんのお考えがどのように伝わると考えておられるのか

>非常に神秘的な伝達プロセスを想定

>>(poohさんは田部さんに、私のエントリを参考に出しておられましたから、その内容に沿っているつもりでした。)
>それはこの場におけるオレの言説には無関係な話ですよね

 私が失敗を認めているのは前提として。
 自分のブログのエントリの内容が、ある程度閲覧者に伝わるのであれば、そのエントリの内容に沿っているのであれば、他の人にもある程度は伝わるかと想定してました。

 私の中では、「他人に伝わるように話すと、受け取る人によって内容が大きく変わったり、とんでもない取られ方をしたりする。逆に、誰でも同じ意味にとれるように話すと、文意が非常にとりにくくなり、なおかつどのように他人に伝わるのか想定し難い。」という状況です。
# 先に長文コメントした内容が「どのように伝わると考えているのか」の説明にもなってます。回答になっていませんが。

>Narrさんが何故Narrさんの言説とは無関係なオレの論に対して「私は黒猫亭さんと違う意見を持っていると表明」されたのか

 田部さん向けの表明でもあります。
 私の意見からすると、黒猫亭さんの意見は、このエントリにコメントするのであれば、言及の優先順位が高いものでした。何かコメントするなら、無視できない程度に。(私は、コメントする度に、誰の意見に対してでも、同意不同意を表明するわけではありません。)
by Narr (2008-06-23 00:51) 

黒猫亭

>Narrさん

>>自分のブログのエントリの内容が、ある程度閲覧者に伝わるのであれば、そのエントリの内容に沿っているのであれば、他の人にもある程度は伝わるかと想定してました。

ですから、「伝わる」という結果は想定しておられるとしても、「どのような」プロセスを通じて伝わっているとお考えなのか理解出来ないということです。

>>「他人に伝わるように話すと、受け取る人によって内容が大きく変わったり、とんでもない取られ方をしたりする。逆に、誰でも同じ意味にとれるように話すと、文意が非常にとりにくくなり、なおかつどのように他人に伝わるのか想定し難い。」

正直申しあげて、何を仰っているのか理解出来ません。理解出来る方がいるとも思えないのですし、それを理解しようとするとNarrさんが否定されたようなプロセスでNarrさんの真意を類推せざるを得なくなる。

ですから、「どういうプロセスで他者に考えが伝わるとお考えなのか」ということを問わせて戴いているわけです。

>>田部さん向けの表明でもあります。

田部さんに通じたかどうかはわかりませんが、直接言及されたオレには意味が理解出来ませんでした。その後の一連のNarrさんのご意見がその説明として機能しているようにも感じませんでした。

それから、一応確認させて戴きますが、NarrさんはpoohさんがNarrさんのエントリーを紹介される「前に」書き込まれたオレのコメントが、poohさんが紹介されたNarrさんのエントリーを踏まえて書かれている、と誤解されたわけではないのですよね? 時系列的に言って、そのように判断する根拠はないですから。

そうだとすれば、Narrさんのご意見が「黒猫亭の論に対する言及」になるのであって、オレの意見が「Narrさんの論に対する言及」になるわけではありません。その意味で、Narrさんの一連のご意見はオレにとっては大変不可解なものであったと言わざるを得ません。
by 黒猫亭 (2008-06-23 01:07) 

Narr

>NarrさんがNarrさん以外の人間にNarrさんのお考えがどのように伝わると考えておられるのか

 今回に限ってなら、水伝騒動で色々な文字解釈がありましたが、ああいう解釈の手法の複数を、同時に満たそうとしている、と言えば、比較的分かり易いでしょうか。対話や説得を考えるのなら、必要なのは、翻訳です。

 もっとも、今回の私のように、翻訳しようとして宇宙語になってれば、意味が無いですけれど。

 (中途半端な意見表明は控えてるつもりですが、ちょっとどこまで説明すべきか分からなくなってます。連投すいません、poohさん。)
by Narr (2008-06-23 01:11) 

Narr

 上のコメント、黒猫亭さんの(2008-06-23 01:07) に気付きませんでした。

>ですから、「伝わる」という結果は想定しておられるとしても、「どのような」プロセスを通じて伝わっているとお考えなのか理解出来ないということです。
 ニケさんの文章を読んでいること。または、水伝騒動についてある程度知っていること。または、「書いてないことを勝手に読む」を実際に見た経験があること。など、何かしらの似た経験を持っておられる人。そういうものについて疑問なり興味なりを感じている人なら、ある程度通じるかと思っていた、という意味で申し上げました。
 「プロセス」の意味がよく分かりません。理解できる人とできない人の区別なのか、読む人がどの文書をどういう順番で読むことを想定しているのか、なのか。

>>「他人に伝わるように話すと、受け取る人によって内容が大きく変わったり、とんでもない取られ方をしたりする。逆に、誰でも同じ意味にとれるように話すと、文意が非常にとりにくくなり、なおかつどのように他人に伝わるのか想定し難い。」
>正直申しあげて、何を仰っているのか理解出来ません。理解出来る方がいるとも思えないのですし、それを理解しようとするとNarrさんが否定されたようなプロセスでNarrさんの真意を類推せざるを得なくなる。
 「受け取る人によって内容が大きく変わったり」は、水伝騒動で起こったことに近いです。黒猫亭さんの発言を文脈からちゃんと理解する人もいれば、理解しなかった人もいたように。あれがもっと極端になったものを想定してもらえれば。
 「誰でも同じ意味にとれるように話すと」は、今回ここで通じなかったこと、そのものです。

>オレのコメントが、poohさんが紹介されたNarrさんのエントリーを踏まえて書かれている、と誤解されたわけではないのですよね?
 私の意見とは関係なく、黒猫亭さんが述べた論だと認識してます。

>Narrさんのご意見が「黒猫亭の論に対する言及」になる
 私のエントリに対する直接の言及でないから、という発想は、全くありませんでした。

>Narrさんの一連のご意見はオレにとっては大変不可解なものであったと言わざるを得ません。
 理解できていないのに失礼ですが、申し訳ありませんでした、としか言えません。
by Narr (2008-06-23 02:01) 

pooh

> TAKAさん

ぼくの感覚では、ニケさんはひとりのおとなの論者であるはずで、なのでお気づきいただける部分はご自分でお気づきいただきたい、みたいに感じているんですけどね。
by pooh (2008-06-23 08:11) 

pooh

> Narrさん、黒猫亭さん

えぇと、議論を咀嚼できていないですぼく。

その状態で云うのもなんですが、黒猫亭さんの議論のフォーカスがすこし違ってきている気がします。へんな云い方ですが、Narrさんのなかでまとまっていないことを問うても話が先に進むとはあんまり思えないですし、明解な結論がなくても自分の議論の本筋を示すことはそう不誠実なことでもないでしょう。

ぼくが不用意にNarrさんの議論を援用しようとしたことにも、要因の一端はあるのかもしれないです。別の切り口を待って議論をされたほうがいい気もします。
by pooh (2008-06-23 08:20) 

Narr

http://blogs.dion.ne.jp/beta_reverse/archives/7309235.html
今さらながら、自分のところに書きました。書く範囲を、過去に他人にもある程度意味が通じた部分に限定して。
しかし、色々と問題があって…。

意味が通らない発言や問題のある態度を繰り返して、本当に申し訳ありませんでした。(poohさんから見てあまりに意味が通らない私のコメントは、削除して頂いても構いません。)
by Narr (2008-06-23 19:16) 

pooh

> Narrさん

いや、ここで続けていただいてもかまわないんですけどね。
ぼくなんかが率先してノイズを入れるので、議論しづらいかも、です。
by pooh (2008-06-23 21:25) 

田部勝也

なんだか、流れぶったぎって、すみません。田部勝也です(このブログのコメントは文章の下に名前が表示されるので、上から読んでいると、基本的に最初は誰の文章か分からないまま読む事になるんですよね。予断なしに読めるのは利点かも知れませんけど、今回はあえて最初に投稿者暴露)。


lets_skepticさんのブログのエントリ記事を読みました(↓)。
--------------------
健康な人間は誰しも、自分をダメな人間だと思わなくて済むように動機付けられています。自分を無能だと思いたくない気持ちに、無能であるという指摘をぶつけ、「認知的不協和」を起こしたところで問題が解決することはあまり期待できないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080620
--------------------
もうおっしゃる通りで。私には反論の余地はありません。この言葉は私自身の戒めとして深く胸に刻んでおくとして。

で、この言葉に関して、ずっと以前から2つの事を漠然と考えていて。ちょっと長くなるのですけど、私自身の頭の中の整理という意味も含めて書かせて下さい。あと、大変便利なんで、「ニセ科学批判」の文脈で用いられる特殊な用語を説明抜きでどんどん借用してますけど、そのへんは文脈を読んで下さい……という事で。

===============
まず、1つ目は、上の(2008-06-21 02:21)のコメントに関連する事なんですけど、「その“認知的不協和”は、現在、社会として望ましい適切なレベルと言えるのか?」「その“認知的不協和”を、社会として望ましい適切なレベルに保つにはどうすれば良いのか?」という問題。

私のような極めて独善的かつ感情的な人間でさえ、自分自身の事として「そういう“人間の基本仕様”があるから、気をつけなくちゃ」と自然と気づく事はできたわけです。私のような極めて独善的かつ感情的な人間でさえ、「その“認知的不協和”は幸せな生のためにとても大切だけど、行き過ぎると逆により良い幸せを逃してしまう」事は容易に想像できるわけです。
そして、もっと重要なのは、その知識・認識が、実際に感情の発露に強い影響を与えているという事です(ここでいう「感情」は、無意識の生理的なレベルでの「感情」までをも、私は考えています)。

うまく説明できないので、伊勢田哲治さん言うところの「思いやりの原理」を(私の文章に対して)発揮していただきたい部分なのですけど、ある知識・認識の有無で、まったく同じ状況において、まったく違う感情が湧き上がるという事はよく実感されるのではないでしょうか(以前、亀@渋研Xさんのブログ記事「私にとってのニセ科学問題」(↓)
http://shibuken.seesaa.net/article/52937095.html
のコメント欄で少し書いた私自身の体験などは参考になるでしょうか?)。
知識・認識によって、無意識の感情の発露でさえ変わりうると考えるからこそ、「その“認知的不協和”を、社会として望ましい適切なレベルに保つにはどうすれば良いのか?」といった問題が設定できるわけです。

で、上の(2008-06-21 02:21)のコメントの問題意識につながるわけです。そのコメントを再掲(↓)。
--------------------
ここの別エントリのコメント欄にも書きましたけど、以前『kikulog』に書いたこのへんの話が、私の中でずっと問題意識として残っているんですね(↓)。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171442853
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171637869

本当に届かない。それはもう絶望的なほどに。そして、届かない理由が(自分にとっての人間としての矜持とか誇りとか、そういう自分勝手な基準で見ると)あまりに情けなさ過ぎる。
いや、私の(2008-06-19 04:57)のコメントに、的を射てる部分がほんの少しでもあるのならば……という仮定の話にすぎないんですけどね。
--------------------

上で紹介した『kikulog』に書いたような子どもたちの状態について、「その“認知的不協和”は、社会として望ましい適切なレベルと言えるのか?」と聞かれたら、私には即答できないのです。少なくとも、私個人としては「その程度の事で、その“認知的不協和”が発動してしまうというのは、人として(社会の中の“人”として、自分自身の幸せを追求すべき“人”として、両方の意味で)どうなんだろう?」と悩む部分が大きいわけです。
じゃあ、「その“認知的不協和”を、社会として望ましい適切なレベルに保つにはどうすれば良いのか?」と言われると、さらに返答に窮してしまう……それが1つ目の問題意識です。


ちょっと余談になりますけど、以前、亀@渋研Xさんのブログ記事「学校教育になにを期待するか」(↓)
http://shibuken.seesaa.net/article/87906746.html
で取り上げていただいた私のコメントは、私にとっては、この問題意識と根は同じだったりします(コメント欄も読んでいただくと、より理解しやすいかも知れません。共感はできないかも知れませんが)。
by 田部勝也 (2008-06-25 00:39) 

田部勝也

あまりに長いんで、コメントを分けました。田部勝也です。

lets_skepticさんのブログのエントリ記事(↓)
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健康な人間は誰しも、自分をダメな人間だと思わなくて済むように動機付けられています。自分を無能だと思いたくない気持ちに、無能であるという指摘をぶつけ、「認知的不協和」を起こしたところで問題が解決することはあまり期待できないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080620
--------------------
に関して、ずっと以前から漠然と考えていた事の2つ目です。こちらはかなり過激です。

要するに「問題が解決すること」をどこに置くかという点。
私はずっと以前から「損切り」という事を考えていて……もちろん、自分のほうが「損切り」される事も「覚悟」の上で。

私にとって許し難い言説をしている人たちを「転向」させたり、私の気持ちに「共感」してもらったり、逆に、私のほうが無知なだけだった事を「理解」し、許し難い言説と思っていたモノに「納得」し、自分自身が「転向」したり、……そういった期待は、私自身がすべき事・できる事としては、だいぶ前に諦めてしまっている部分が大きいです(それはもちろん私個人の能力のみに起因する事であり、私がそういう試みを非難したり否定したりした事はこれまでなかったと思います)。
でも、だからといって、私にとって許し難い言説を放置しておくわけにはいかなくて。自分に何ができるのか考えたら、「対抗言論」を置き続けていく事くらいしかないわけで。私にとって「問題が解決すること」は、「その言説を目にしうる後のすべての人間が、“その言説を許し難く思っている人もいる”と容易に気づく状態にしておく事」くらいしか今のところ思いつかないんです……。
(余談ですけど、そういう意識でいるので、たとえば『kikulog』のこのコメント(↓)
--------------------
私が提示できる視点は一連のやりとりですべて提示していると思いますし、これ以上は同じ主張の繰り返しでネット上のリソースを浪費するだけの事になりそうですので、この件についての私の書き込みは以上で終わりにしたいと思います。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1211901606#CID1213448276
--------------------
みたいな事も言えるわけですね。でも、相手が新たな許し難い言説を出し続ける限り、なかなか「言い合い」を終われないのが致命的な欠陥でもあります。以上余談終わり)

で、当然、そうすれば(特に私のような極めて独善的かつ感情的な人間がそうすれば)、相手に「認知的不協和」を起こさせる事になるのは容易に予想されるわけであって、それはもちろん「覚悟」の上でやっているつもりなのですけど、一方で自分の行為の正当性をどう説明するのか悩み続ける事になるわけで。

ずっと考え続けていたのが「損切り」という事。ここのブログ記事「奈辺に愛か存じませぬが」(↓)
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-06-13
への(2008-06-16 00:26)のコメントの一番下「最後に余談」に書いたような事を、ここ何年も考え続けています。
正直、なにか示唆が欲しくて。やっぱり、「あなたは“ニセ科学批判”には向いていないから(むしろ他の“ニセ科学批判者”の迷惑になるから)、辞めたほうが良いですよ」「性格的に辞めるのは無理そうなんで、極力そういうのを見ないように努力したほうが良いですよ」って結論に落ち着くのかなぁ……とか。


【補記】もちろん、katsuya_440さんが書かれた(↓)
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ネットで「相対性理論は間違っている」とかわめく人物を相手にするのならともかく、家族など自分の大切な人が医療に関する疑似科学を信奉している場合には、何としてでも説得して信念を変えさせなければならない逼迫した状況なのだから、「信奉者の説得は可能である」と信じて欲しい。
貴方の大切な人を救うためなら貴方の人生のいくらかを犠牲にすることを躊躇してはならないはずだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/56907959.html
(改行位置は引用者が変更)
--------------------
というような状況では話は変わります。私が問題視しているのは、あくまで、私にとって差し当たりどうでもいい人が、私にとって(自分の大切な人を侮辱し冒涜し苦しめるような)許し難い言説を振りまいている状況だという事を、ご理解下さればと思います。
by 田部勝也 (2008-06-25 00:54) 

田部勝也

長文の連投、すみません。これが最後です。田部勝也です。

最後に私の姿勢について。
私が何かを非難するのは、これはもうただ単に「腹が立ったから」だけです。私がしているのは、単純に「頭にきたから文句を言う」という行為でしかありません。それ以上でもそれ以下でもたぶんない。少なくとも意識の上ではない。

私には、「すべての問題は、究極的には“感情”の問題である」という認識があって。
どんなに理屈で合理的・理想的だと頭で理解したって、心情的に不愉快に感じたり、生理的に拒絶反応を催す事は(たぶん)あるわけで。はっきり言えば、私はどちらかと言うと「考えるんじゃない、感じるんだ!」派の人間であって、そこは明確に「ニセ」側の人間なのです。

で、究極的には、どんな問題も「どう感じるか」で判断されるべきだと思っていて。
たとえば、どうあっても多くの人間が「水からの伝言」を心地良いものと「感じる」のならば、それは社会として容認しなければならない。それでもしも「水からの伝言」に実害があるのならば、「水からの伝言」を容認した上で、その実害に対するどのような「フェイルセーフ機構」を社会に組み込むかという話になるべきである──という認識でいます。
「宗教」とか「煙草」とか「原子力発電所」とか「民主主義」とか、みんなそうかも知れません。上手い例が思いつきませんが、私は虫が苦手で、そういう人のために「衛生的な都市環境・住環境」を用意するコストは、用意しない場合のコストに比べて明らかに不合理・不条理に大きいのだとは思うのですけど、やっぱり、寝床に妙な虫の出ない環境を望んでしまうわけです。もしそれで衛生的過ぎる事による免疫弱体化などの実害が本当にあるのならば、(次善策でいいから)「衛生的な都市環境・住環境」は保った上で良い対策を考えてくれと、私は「感じる」でしょう。

こういった話はたぶん技術開発者さん言うところの「人間の基本仕様」論のような話になっていくのかも知れません。ここで技術開発者さん言うところの「人間の基本仕様」についてまとめられたエントリ記事へのリンクを張っておきます。『「人間の基本仕様」について』(↓)
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-04-22

だから、私にとって、ある言説に対して「いや、私はその言説が許し難い」「非常に腹が立つし頭にくる」と表明するのは、たとえその事によって個人間で決定的な対立が生じたとしても、決して無駄な事ではないと思っているんですね。そういう「感受性」の人がいる事を社会に対して知らしめるのは大切であると。
そこで、相容れないのでそういう人とは住み分けするようにするのか、相容れないけど現実的に住み分けする事もできないから「囚人のゲーム」で最高の場合よりはお互いにちょっと損をしつつ「協力」のカードを出し続ける事になるような「フェイルセーフ機構」を社会に組み込むのか──という事を、社会の「第三者」が判断できるわけです。

ここで重要(希望)になるのは、上の第1の問題認識に通ずる事なのですけど、知識・認識が、実際に感情の発露に強い影響を与えているという事です(ここでいう「感情」は、無意識の生理的なレベルでの「感情」までをも、私は考えています)。
そして、人間の「感受性」というのは実はそうそう違いはなくて、否定派が「肯定派が知るべき事」として提示する事すべてと、肯定派が「否定派が知るべき事」として提示する事すべてを、「確証バイアス」とか「認知的不協和」とかいった束縛のない人(たとえばその対立を目にしうる後のすべての人間)が同時に見れば(知れば)、現在生じているような強く激しい対立が生じるほど、その「感じ方」に差が出るとは思えない──という勝手な思い込みがあるんです。
さらに、その人間の「感受性」は十分信頼できるもので、その「感受性」に頼るだけで、人間は(私の価値基準で見て)十分素晴らしい社会が築けるはずだ──という、これまた勝手な思い込みが私にはあるんですね。

──もしかしたら、Narrさんが私の怒りに対して「公共意識をリアルに個人としても感じることによって生まれた怒り」と「感じ」られたのは、以上のような私の特異な「世界観」に起因するのかも知れません。ただ、私自身は、自分の怒りがどこからどのように生じたのか自分で説明する事は難しいです。「考えるんじゃない、感じるんだ!」派の人間なんで(苦笑)。

まぁ、以上の事は、私個人の自己弁護というか「認知的不協和」に他ならないのですけど、一応その自覚はあるという事を表明した上で、批判の場にさらす事にします。


【補記1】上の私の「思い込み」については、『神は妄想である(リチャード・ドーキンス、早川書房)』の第6章「道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?」、第7章「「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」」が非常に強く肯定してくれているので、とてもいい気分になっています(苦笑)。
【補記2】私は明確に「ニセ」側に人間であって、「ニセ」側の人を非難するときには、たいてい「あなたが私を非難しているまさにその点・その論拠で、私はあなたを非難しているんだ」という状態です(なかなか気づいてくれませんが)。だから私には、lets_skepticさん言うところの「コントロール不可能な問題は棚上げ」するという事はちょっと難しいです。だって、相手が(唯一)拠り所としている点がまさに私の怒りの理由なわけですから。基本的に視座が同じなんですよね。「同じ土俵」にいると言うか。だから、たぶん互いに終始心地良い「対話」はできない(気がする)。
(参考)lets_skepticさんの「相手の態度はコントロール不可能ではない」(↓)
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080623/p1
by 田部勝也 (2008-06-25 01:06) 

pooh

> 田部勝也さん

これから書くことは、完全にpoohの主観です。基本的に一般化はできないものとしてご理解ください。また、何かを指導しようとして書かれたものではありません。見当はずれでも、ご容赦いただければ。

まず、ぼくは感情が完全にコントロールできないものだとはあまり考えたくありません。この辺、ユング(via河合隼雄)的な発想の多少幼稚な解釈にもとづくものだと思うんですが。
感情は大事です。それは共感にもつながります。ただ、自分のなかの感情を制御不能な聖域として捉えると、ずいぶんと不自由なことになってしまうのではないか、と云うことも思います。

また、感情や共感に基づく理解は、非常に脆弱なのではないかと思います。まず、感情がコントロールできない聖域であるのなら、その時点で通じたはずの気持ちは別の時点では通じない、と云うことがふつうに起きるわけですよね。そうすると、それだけ感情に基づく相互理解が生じても、いつでもそんなものはちゃらになりうる。感情に基づく共感にしても、同じことです。
だとすれば、なにができるか。確証をもって云えるわけではないですし、ぼく自身が実践できているかと云うとそんなことはまるっきりないのですが、やはり「自分のなかで特定の感情が沸き起こるメカニズムを把握すること」ではないかと思います。

エントリの主旨とはまったく関係のない不適切な引用になりますが、地下に眠るMさんの最近のエントリで、河合隼雄が「影の現象学」で引用していたある詩についての言及がありました。

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080613/1213335582

この詩、はじめて読んだ20年ほど前から今に至るまで、ぼくのなかに非常に強い感情の嵐(と恐怖感)を引き起こします。それはもう、そう云う仕組みになっている、以上のことは云いがたい(いや、分析心理学的な説明はできるのですけど)。要するに、「ある感情はランダムに起きるのではなくて、そのメカニズムがある」みたいな捉えかたです。「あぁ、こんなメカニズムが働いているんだな」みたいに。
ご自分でご自分を「独善的かつ感情的」などと形容される前に、このあたりのことをお考えになると、すこし楽になれるかもしれませんよ。まずご自分に対して、そして相手方に対して。

あと、認知的不協和と云うのは、特定の事象に対して特定の人物が陥っている状況を指すのであって、周囲すべてに対して「認知的不協和の状況にあるひと」が存在するわけではないですよね(それでは暮らせない)。なので、そのひとが認知的不協和に陥っている事象を切り分けて、そこに対して発話をする、と云うスタンスが適切なのではないか、とぼくは思っています。
by pooh (2008-06-25 08:05) 

newKamer

> 田部勝也さん

たぶん、認知的不協和を誤解しているんじゃないかと思います。

認知的不協和仮説(理論?)は、人が不協和関係にある複数の認知を持った場合、それを一貫した認知にするように動機付けられるという話です。

一貫した認知を作るためには、様々な対処法があります。どの対処法をとるのが適切かについては、認知的不協和の守備範囲ではないと考えるのが正しいと思います。つまり、認知的不協和自体は価値中立と考えてよいはずです。
by newKamer (2008-06-25 15:34) 

pooh

> newKamerさん

「認知的不協和」と云う用語については、ぼくも通り一遍の理解しかないのですけど、なにか適切なテキストなんかご存知でしたらお教え願えませんかねぇ。
by pooh (2008-06-25 22:31) 

newKamer

 意外に良い解説はないですよね。フェスティンガーの本持っていないので、「こうだろ」と思うところはあるのですが、社会心理学専攻していた方に意見を聞いてからにします。
by newKamer (2008-06-27 20:11) 

pooh

> newKamerさん

あぁ、すみません。

気付いてみると、じつは心理学についてなにも知らないも同然なのかもしれないな、なんて思ったりしました。でも、信用が置けて手軽なテキストがどれなんだか、どうも見分けがつかないんですよね。
by pooh (2008-06-27 21:38) 

ちがやまる

いろんなところに首をつっこんで申し訳ありません。いろいろな人の用例から考えてみる、というやり方もあるかと思って見回してみましたが、newKamerさんの解説からはずれるような例は見あたりませんでした(わたし個人は「認知的不協和」なんていう特別なことばを使う必要性は強くは感じませんが)。

用例1
拒食症や過食症などの子供に、作文やロールプレイによって「内化された薄い理想」を批判させると、理論的には心理学的不快感(認知的不協和cognitive dissonance)を生じて「内化された薄い理想」を減らすよう動機づけられる。
用例2
(高齢者が自分の老いを否定してより若くとらえる傾向をもつことについて)
認知的不協和cognitive dissonance説は、高齢者が若い時にもっていたネガティブな態度から現在もつポジティブな態度へ変化することに説明を与えてくれる。この説は情報に接した個人の反応に関するものであるが、情報の一部はその人自身の見方や過去の知識の枠組みに整合し、一部は整合しないのである(参照:Festinger LA. 1957. A Theory of Cognitive Dissonance. Stanford University Press: Stanford, CA.)。年をとるまで高齢にネガティブな態度を持っていた高齢者は、別の情報や説や訓練に出会って不協和状態解消の努力をしstrive to avoid、現在の内的に整合した態度と感性attitude and perceptionを受入れ、協和状態(consonance)に至るのである。
by ちがやまる (2008-06-27 21:50) 

pooh

> ちがやまるさん

ありがとうございます。
とりあえず(非常に緩い意味では)ぼくの理解もそう外れてはいないのかな。
by pooh (2008-06-28 08:18) 

田部勝也

>poohさん

poohさんが私のコメントのどこに反論しているのか(あるいはいないのか)よく読み取れないのですけど、おっしゃりたい事は、私が3連投したうちの最初のコメント(1つ目の問題意識)や、最後のコメントの「ここで重要(希望)になるのは、……」以下の文章と似たような主張と理解してよろしいのでしょうか。

ちなみに、自分を「独善的かつ感情的」だと思っておくのは(どう考えても)とても楽な事です。少なくとも「(誤った)自尊感情」を維持するために虚勢を張ったり、ボロを取り繕うために恥の上塗りを繰り返すような生き方や、生理的・無意識な感情を無理に抑えたり、生理的・無意識な感情に反したりする事を自分に課さねばならないような生き方よりは、よほど楽だと思います。もちろん、みなさんはそんな生き方はしていないと思いますけど。
ふと目に留まったので、poohさんが以前書いたエントリをリンクしておきます。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2006-11-15


>みなさん

学生時代のノートを引っ張り出してみました(あまりアテになりませんけど(苦笑))。
newKamerさんのご指摘の通り、「認知的不協和」を誤解していたようです。なんだか、頭の中の感覚的イメージとして、「防衛機制」の「抑圧」や「合理化」あたりと混同していたみたいですね。学生時代、教職課程の心理学で勉強していた事が、長い年月の間に完全に塗り替えられちゃっていたわけで……はぁ。今知っておいて本当に良かったです。

そんなわけで、私のこれまでの文章では、「思いやりの原理」という事で、適当に読み替えて頂けると幸いです。
負け惜しみとしては、連投の3番目のコメント内の「まぁ、以上の事は、私個人の自己弁護というか“認知的不協和”に他ならないのですけど、一応その自覚はあるという事を表明した上で、批判の場にさらす事にします」だけは、本来の意味での「認知的不協和」かも知れないですね。


余談ですけど、ふと、きくちさんが以前書かれていた言葉が目に留まりました。
http://ytsumura.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_05f4.html#comment-15218053
http://ytsumura.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_05f4.html#comment-15223563
今回の私の問題意識は、これらのきくちさんの言葉を勝手に拡大解釈したものと言っても許されるでしょうか。なんというか、一体どこまで「批判される側」を甘やかせれば良いのか分からなくなってきた……というか。助けを求めているのは(批判される側ではなく)自分なのかも知れない……というか。
by 田部勝也 (2008-06-28 22:09) 

pooh

> 田部勝也さん

いや、特に反論とかではないわけです。
ただ、田部勝也さんがしたいことを考えるうえで、どの場所に自分を立たせるのが有効なんだろうな、とか考えただけでした。なんとなく、田部さんのやり方って、最終的に結果を自分で引き受ける段になってからしんどくなるような気がするなぁ、みたいな話です。
by pooh (2008-06-29 22:03) 

田部勝也

>poohさん「また、感情や共感に基づく理解は、非常に脆弱なのではないかと思います(2008-06-29 22:03)」

私は逆に、感情や共感に基づかない理解は非常に脆弱だと思います。
かつて、技術開発者さんが、アメリカの労務管理だかの話をされていたと思います。工場の流れ作業などで、どれだけ合理的・効率的な作業手順を考えても、機械でない人間たる作業員はなかなかその通りに動かない・動けない──という話だったと思います。
学校教育の現場では、理屈としてでだけ理解するのではなく、しっかりと感情や共感に基づいた理解を子どもたちにさせるように、どの教員も苦労しているわけです(経験則として、そのほうが理解が定着するので)。
どんなに論理的に正しく合理的な制度でも、それが民衆にとって、感情的に受け入れられなかったり、生理的に共感できなかったりするものであれば、絶対にどこかで無理が出てくるものだと思います。つまり、人間の「感情や共感に基づく理解」を織り込まない社会システムは、非常に脆弱(ありていに言えば「机上の理想論」)なのではないかと、私は思っています。

でも、そういった事をpoohさんが考えていないわけはないはずで、正直に言って、この一連の文章でpoohさんの主張したい事を、私は理解できていません。
このコメント欄に書いた私の(2008-06-25 01:06)のコメント(の特に「ここで重要(希望)になるのは、」以下の文章)を、もう一度読んで頂ければ、この件に関する私の考え方は(同意ではないにせよ)理解して頂けるものと思いますけど……。

=========================
余談ですけど、『論語』で言えば、自分は「而立」や「不惑」や「知命」の境地にはまったく興味がなくてどうでもいいけど、「耳順」と「従心」には強い憧れがありますね。60歳と70歳か……無理っぽいなぁ(苦笑)。
一般には、「耳順」や「従心」よりも「不惑」が目指される理想とされる事が多いようですけど、そんな価値観にとても強い違和感を覚えたりもします。

=========================
>poohさん「なんとなく、田部さんのやり方って、最終的に結果を自分で引き受ける段になってからしんどくなるような気がするなぁ、みたいな話です(2008-06-29 22:03)」

poohさんがどのような事態を想像されているのか分からないので何とも言えないのですけど(できれば具体的に教えて欲しかったりします)、もう20年近く同じ問題意識を訴えてきて、「最終的に結果を自分で引き受ける段になってからしんどくなる」というような経験はちょっと思いつきません。
むしろ、感情よりも論理や合理性を重視する事を公言されている人が、生理的に生じる自分の感情と、自身の主張の論理的合理的一貫性との乖離に直面するほうが、しんどさという点では深刻な事態に思いますけど……。たとえば最近ですと、apjさんが、瀬尾佳美准教授の暴言に対する所属大学への抗議をどう考えるべきか悩まれた件が印象的でしたね。

いずれにしろ、私に立ち位置では、
--------------------
(前略)理科教員としての自分のせいだという職業的な自責の念に、ずっととらわれています。自分が、こんな「少なからぬ人たち」を育ててしまったという、原罪に近い罪悪感と言っても良いかも知れません。
http://shibuken.seesaa.net/article/87906746.html
『PSJ渋谷研究所X』「学校教育になにを期待するか」
--------------------
と書いた同じ人間が、平気な顔して、
--------------------
たとえば、どうあっても多くの人間が「水からの伝言」を心地良いものと「感じる」のならば、それは社会として容認しなければならない。それでもしも「水からの伝言」に実害があるのならば、「水からの伝言」を肯定した上で、その実害に対するどのような「フェイルセーフ機構」を社会に組み込むかという話になるべきである──という認識でいます。
「宗教」とか「煙草」とか「原子力発電所」とか「民主主義」とか、みんなそうかも知れません。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-06-18
『Chromeplated Rat』「「説得する」」(一部修正あり)
--------------------
とか、
--------------------
(前略)「どうせ、みんな、そういう社会がお望みなんでしょ。もう勝手にやってれば……」(後略)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1209434581#CID1212761299
『kikulog』「憲法9条と911陰謀論、または安斎先生はどう考えておられるのだろう(追記あり5/2) 」
--------------------
とか、平然と言い切れちゃうわけですよ、「独善的で感情的な」人間ですから。だから、「しんどくなるような気がするなぁ」と言われても、正直ピンとこないです。

それと……、

>poohさん「なんとなく、田部さんのやり方って、最終的に結果を自分で引き受ける段になってからしんどくなるような気がするなぁ、みたいな話です(2008-06-29 22:03)」

私は、自分の言動が「他者に影響力を及ぼす」事に対する責任を引き受ける覚悟は常に持っているつもりですけど、私からの影響を受ける事を拒否した人・社会に生じる最終的な結果まで引き受ける気はさらさらないし、引き受けるべきどんな義理もないと思っています。
by 田部勝也 (2008-07-08 02:09) 

pooh

> 田部勝也さん

えぇとですね。まずぼくは「どうあるべきか」と云う話よりも、いま田部勝也さんがしんどそうに見えるなぁ、と云うことを気にしています。余計なお世話は承知ですけど。
考えすぎなのかもしれないんですが、「独善的で感情的な」と云う言い方が、どうも自嘲とか自責に読めてしまう。

なんか最近は共感とか論理とか云う言葉が一種ポリティカルに使われる向きもあって論じるのにちょっと抵抗があるんですが、例えば共感とか感情とか云うものは究極的には個人の中に、内側にあるものです。あるひとのなかにあるそれを、例えば当事者間すべてで等距離で認識することはできない(ひとの感情に対して、ほんとうの意味でわがものとして共感するのは原理的に無理です)。対してロジックはひととひとのあいだにあるものなので、そこへの距離は複数の人間で等距離をとることが(理屈のうえでは)可能になるわけです。ぼくはそこにけっこう大きな違いを見ています。

もっとも、このあたりぼくにはぼくのバイアスがある可能性もあって。単純にぼくに共感を形成する能力が低いので、そのあたりに信を置かない、と云うだけかもしれないです。
by pooh (2008-07-08 07:46) 

TAKA

こんばんは。みなさん、お疲れですか?行き詰った時は、気分転換が一番です。
「説得する」→「説伏する」→「一服する」→「一泊二日」…「そうだ京都行こう!」
知らないところへ行って、見聞を広げましょう。
「そうだキューバ行こう!」「そうだチューバ吹こう!」「そうだチューハイ飲もう!」「そうだ乾杯しよう!」「そうだ献杯しよう!」「そして友よ!今こそ共感しよう!我らの未来に!ニセ科学の未来に!共に説得の実りが有らん事を!」

うーむ(-_-;。
by TAKA (2008-07-10 21:59) 

pooh

> TAKAさん

ぼく個人に限って云えば説得するなんてのは柄じゃないので、せめてなんとか理解しあいたい、みたいな感じもあるのですけどね。

あぁ、キューバ行ってモヒート呑みながらソン聴きたい。ってえかバリ行ってワルン・マデで生のビンタン呑みたい。
by pooh (2008-07-11 07:40) 

田部勝也

>poohさん「いま田部勝也さんがしんどそうに見えるなぁ、と云うことを気にしています。(中略)「独善的で感情的な」と云う言い方が、どうも自嘲とか自責に読めてしまう」

あぁ、なるほど。自分(田部勝也)は「独善的」にも「感情的」にも特にネガティブなイメージを持っていないので、あまり意識する事はなかったですけど、普通はそう読むのが自然かも知れませんね。「揺るぎない信念を持つ情緒豊かな人間」とでも書けば良かったかな(笑)。

なんというか、自分を「独善的で感情的な」と規定しておくと、ものすごくラクなんですよね。生きていても、苦しむよりも楽しい事のほうが遥かに多くなる感じ。少なくとも、「(誤った)自尊感情」を維持するために虚勢を張ったり、ボロ(たとえば無知とか誤解・誤認とか)を取り繕うために恥の上塗りを繰り返したりするような生き方や、生理的・無意識な感情を無理に抑えたり、生理的・無意識な感情に反したりする事を自分に課さなければならないような生き方よりは、よほどラクだと思います。
どちらかというと、他人からは「自嘲とか自責に読めてしまう」ではなく「免罪符にしてるだけ」と疎まれる心配のほうを気にすべき生き方ですね。

少し前に「耳順」と「従心」に強い憧れがあるって書いたけど、旧約聖書にも「汝の心の道を歩み、汝の目の見るところに歩め(伝道の書、第11章9節)」という言葉があって、思ったままに振る舞い、感じたままに生きられるのならば、それは本当に素敵な事だと思うのですよ。
でも、そう生きる事を妨げているモノを数え上げていって、それらのモノを乗り越えたり捨て去ったりする事とのトレードオフをずっと考えていってたら、いつの間にかこういう生き方になっちゃってました──といったところでしょうか。
失ったモノも大きかったのかも知れませんけど(私個人としては「なんでそんなくだらないモノを後生大事に抱えてるんだろ?」というモノばかりなんですけど、多くの人にとってはアイデンティティの維持に関わる本人の人格と不可分のモノでありうるという事は理解はできます)、でも少なくとも、本人に「自嘲」とか「自責」とかいった意識はまったくなかったなぁ……「認知的不協和」解消のひとつの形でしかないのかも知れませんけど。

──と思っていたら、lets_skepticさんがこんなエントリ記事を書いていました(苦笑)。
『「いじめ」とか「いじり」とか』(↓)
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080711/p1

対抗して、poohさんが以前書かれたエントリ記事から引用してみます。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2006-11-15
>poohさん「善行は、気持ちいい。/自分が気持ちいいからするのだ」
>poohさん「動機について、自分を自分でごまかすことはしない」
>poohさん「盲目の善より、正確な自己認識と状況把握力に裏付けられた偽善」

で、先のpoohさんのコメントに戻って……。

>poohさん「いま田部勝也さんがしんどそうに見えるなぁ、と云うことを気にしています。(中略)「独善的で感情的な」と云う言い方が、どうも自嘲とか自責に読めてしまう」

まぁ、確かに自嘲や自責なのかも知れません。正直、否定はできない。でも、しんどいが故にそういう言い方をしたという事は(たぶん)ないです。それでも、他人が客観的に観察すれば、やっぱり無理してるように見えるのかなぁ?
たとえば、自分のする「善行(と思った事)」を他人から「偽善」と揶揄されたとき、「あぁ偽善だよ。それがなにか?」と泰然と言い放つ生き方と、「偽善ではない」と傷つき憤りあれこれ言い繕わなければならない生き方と、どちらが、しんどい生き方なのだろう……とか思うわけで(前者は「自嘲」と言う事もできるかも知れないけど、「しんどい」とはちょっと違う気がしますよね)。

【補記】あと、自分を「独善的で感情的な」と言うのは、自分の非難対象(いわゆる「ニセ科学」な人たち)への揶揄がたぶんに含まれてもいます。「あなた(いわゆる「ニセ科学」な人たち)とまったく同じ(独善的で感情的な)価値判断基準と感受性(プラスあなたにない事実認識と想像力)を私は持っているから、私はあなたに怒りを感じている(要するに、あなたの私への非難はぜんぶ自分に跳ね返ってくるのにそろそろ気づいたら?)」という当てつけですね。
by 田部勝也 (2008-07-12 05:14) 

田部勝也

>poohさん「例えば共感とか感情とか云うものは究極的には個人の中に、内側にあるものです。あるひとのなかにあるそれを、例えば当事者間すべてで等距離で認識することはできない(中略)対してロジックはひととひとのあいだにあるものなので、そこへの距離は複数の人間で等距離をとることが(理屈のうえでは)可能になるわけです」

これらの点については、初等教育の現場での教員の経験という強いバイアスが、私にはある事を否定しません。

(2008-07-08 02:09)のコメントにも少し書いたけど、ちょっとでも初等教育の教員をすれば、ロジックだけでの理解は何のアテにもならない事を身をもって痛切に感じさせられるわけです。言い方を変えれば、そのロジックを「知識として知っている」か「無意識・生理的な感情の発動に影響を与える形で知っている」かにこそ、大きな違いを見ています。
たとえば、「ゴミ問題が深刻→(途中省略)→しっかり分別しましょう」というロジックを知った事で、分別しないと気持ち悪かったり落ち着かない気分になったり、分別せずに出されたゴミを見て憤りや悲しみの気持ちが生じたりするようになってしまう人もいれば、そうならない人もいるでしょう。
上の書いた2つの問題意識に絡めて言えば、私としては、「そうならない人」は、もう「損切り」の対象でしかなくなってしまう──という事です。「そうならない人」の別の例として、3年前のきくちさんのコメントを引用してみます(↓)。
--------------------
事実かどうかよりも、聞いて気持ちいいかどうかを判断基準にする人たち(船井はその代表)が、河合さんの話くらいで納得するかどうかですね。「そうなんですか・・・でも、僕はそういうことって本当にあると思うんですよ(振り出しに戻る)」っていうのが、もっともありそうな会話パターンかなあ
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1118760320#CID1118792771
--------------------

でも、私は基本的に人間を信頼しているので、「そうならない人」は(不幸にも)そのロジックよりも遥かに強い確証バイアスに侵されてしまっただけだと考えていて、それが(2008-06-25 01:06)のコメントの、
--------------------
そして、人間の「感受性」というのは実はそうそう違いはなくて、否定派が「肯定派が知るべき事」として提示する事すべてと、肯定派が「否定派が知るべき事」として提示する事すべてを、「確証バイアス」とか「認知的不協和」とかいった束縛のない人(たとえばその対立を目にしうる後のすべての人間)が同時に見れば(知れば)、現在生じているような強く激しい対立が生じるほど、その「感じ方」に差が出るとは思えない──という勝手な思い込みがあるんです。
さらに、その人間の「感受性」は十分信頼できるもので、その「感受性」に頼るだけで、人間は(私の価値基準で見て)十分素晴らしい社会が築けるはずだ──という、これまた勝手な思い込みが私にはあるんですね。
--------------------
という言葉になったわけです。

よく考えたら、「“感情”や“共感”に基づかない理解は非常に脆弱」という言葉で、「“感情”や“共感”の発露としての言動に影響しない理解は非常に脆弱」という事を、私は考えていたみたいです。
by 田部勝也 (2008-07-12 05:23) 

pooh

> 田部勝也さん

まず、どうもぼくはみなさんと「共感」と云う言葉の使い方にずれがあるようです。日常生活の中でだれもが感じるふつうの共感(もちろんぼくにもあるはずです。ふつうの社会生活を送ってますから)とは違う意味で使ってるっぽい。このあたり、ちょっと精度がよくないかもです。

> 自分を「独善的で感情的な」と規定しておくと、ものすごくラクなんですよね。

これ、ストレートに受け止めるのにちょっと抵抗のあるおっしゃりようです。少なくともその場所は、他者に向けて発話するのに適切な場所ですか?

…ごめんなさい。単なる「余計なお世話」以上のことは云っていないような気がしてきました。
by pooh (2008-07-12 08:43) 

TAKA

poohさん、とうとうと流れる自分語りは好きですか?
私は、好きです。
ROMの皆さんも、きっと好きです。
>このあたり、ちょっと精度がよくないかもです

そんなことは無いと思います。
いつも参考にしていますよ…。
私も。
ROMの皆さんも。

>少なくともその場所は、他者に向けて発話するのに適切な場所ですか?

それはどの辺ですか?
是非教えてくださいね。

>…ごめんなさい。単なる「余計なお世話」以上のことは云っていないような気がしてきました

ごめんなさい。
私もです。
余計な横レスでした。

受け止める覚悟が無くて。
ストレートな批判を。

だって。
年頃なんですもの。
…分かって。(最後の台詞。さすがにこの界隈では居ないでしょうなあ。ネタ元が分かる人は…)
by TAKA (2008-07-13 07:25) 

pooh

> TAKAさん

えぇと、ネタ元わかります。なんでだろ。
by pooh (2008-07-13 08:02) 

TAKA

うーむ。ご存知でしたか(-_-:。そういえば、オジャ魔女ネタも知っていましたね(^^。
今後はさらに、魔女っ子ネタが増えそうな予感かも。(あと、妖怪ネタも、もっとやりたいかも)
by TAKA (2008-07-17 00:17) 

田部勝也

ごめんなさい。延々自己弁護を述べて他者からの肯定を欲する気分に陥っていただけみたいです。弱い人間の弱さをさらけだしたくなる気持ちだったみたいです。物理的なメモリとか他者の貴重な時間・思考とか、だいぶ無駄遣いを強いてしまった事は大変申し訳なく思いますが、その分、私は今まで心の奥底(自分のダークサイド?)に溜まっていたモノを吐き出す事ができました。

>poohさん「少なくともその場所は、他者に向けて発話するのに適切な場所ですか?」

仰る通りですね。ちょっと愚痴が過ぎました。なんというか、自分に跳ね返ってくる非難の見本みたいな感じですね。
by 田部勝也 (2008-07-17 01:38) 

pooh

> TAKAさん

とくに魔女っこ好きってわけでもないんですけど、うぅむ、なぜだろう(^^;。
by pooh (2008-07-17 07:37) 

pooh

> 田部勝也さん

いや、愚痴っていただくのはぜんぜんかまわないです。
ただ、なにかしらお役に立てることが云えるとは限りませんけどね。
(結局、当座の結論にはご自分で到達されたみたいですし。いや、そうじゃなきゃ意味がないのかもしれないですけど)
by pooh (2008-07-17 07:40) 

alice

poohさん

>どうもぼくはみなさんと「共感」と云う言葉の使い方にずれがあるようです。

私はこのところ共感に関する心理学系の本を遅々として読んでいるのですが、もっともなっとくしたのはホフマンという発達心理学者の考えです。
共感はさまざまなレベル、さまざまな種類を内包する大きな枠組みとして考えるべきだというのです。
無意識に直感的に感じる低レベルの直感や、相手の立場を思いやってようやく達する共感、いろいろとあるそうです。
poohさんが「どうもずれているかも」と感じるものは、その違いによるのではないかと思いました。

余談かも知れませんが、今まで勉強した中で感じたのは、相手を説得するのに必要な「共感」は、テクニックとしては低レベルのものも使えますが、本質的には比較的高レベルのものが必要であると思っています。
lets_skepticさんの一連のエントリも、この違いを意識して読むとよりわかりやすいと思いました。

まだ勉強中の故、抽象的な話ばかりでわかりにくくなっているかもしれません。
もう少し勉強して考えがまとまったらもうちょっとまともなことが言えるのでしょうが、とりあえずさまざまな「共感」があるらしい、ということを言いたくてコメントしました。

by alice (2008-07-17 21:56) 

pooh

> aliceさん

どうもですね。根本的に、ぼくは誰かが誰かに対して使う「共感」と云う言葉から、同調圧力を感じ取ってしまうみたいです。たぶん最近、共感している方々どうしで派閥に分かれて団体戦をしたがる(あるいはそう云う構図を描きたがる)ひとたちを見過ぎたせいだと思うんですが。例えばこれはもちろん、1対1の対話のなかで生じる共感には当て嵌まらない認識ですよね。

ただ、お年寄りに布団や原野を売りつけるテクニックも、基本的には共感に基盤を置くものだとも思うんですよ。技巧そのものに善悪はないにしても。

> 共感に関する心理学系の本を遅々として読んでいるのですが

よい本があったら教えてください。
いわゆるふつうの「心理学」については、ぼくは相当に疎いので。
by pooh (2008-07-17 22:18) 

alice

なるほど。「論理派」VS「共感派」の言い争いのせいですね…。あれは共感の切り口で考えるより、人はどうして派閥を形成するかという観点で考えた方がいいかも知れません。どちらの派閥に組するにしても、共感という段階は必ず経るでしょうが。

>お年寄りに布団や原野を売りつけるテクニック
結局は、説得のテクニックですから、共感という道具は必要になるのだと思います。共感の創出は、悪質なカルトに巻き込まれた時の対処法にも使いますし、poohさんのおっしゃるとおり、技巧そのものには善悪はないのだと思います。

>よい本があったら教えてください。
今、悪文な本に引っかかって妙に時間が取られてしまい、良い本にたどりつけていません。(;_;)
katsuyaさんにも紹介いただいたホフマン『共感と道徳性の発達心理学』がかなり良さそうなのですが。
読んだら感想をアップします。

by alice (2008-07-18 11:23) 

pooh

> aliceさん

なんか感覚的には、「共感」と云う言葉に「感性」と云う言葉と同じくらいの(その言葉を使うことそのものに対する)evilな感覚を抱いてしまっています。いや、個人的な、でもって一次的なものなんでしょうけど。

なんとなく、共感と云うのは技術としては剥き身の剣のような気がしています。いや、たぶん多かれ少なかれ言説を行う人間は(ぼくも含め)意識しているかどうかに関わらず使っている技術なんだろうとは思うんですが。
by pooh (2008-07-18 22:36) 

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