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動機と材料 [よしなしごと]

uumin3さんがなぜいつまでも水伝?続・なぜいつまでも水伝?と云うエントリを挙げられていて、それに続く続続・なぜいつまでも水伝?と云うエントリをお書きになっていて。で、それに対するレスポンスとして、TAKESANさんが何故かと言うとと云うエントリを、亀@渋研Xさんが本当に「なぜいつまでも水伝?」なんですと云うエントリをお書きになっていて。
そう云うわけで、この一連の話題については相当丁寧な議論がかわされていて、ぼくが独自に付け加えることのできるような知見は特にないように思うのだけれど、「水からの伝言」に触れる内容を述べることの多い書き手として、ちょっと現状認識について書いておこう、と思う。

・「水からの伝言」を受け入れる言説は減少していない
いつも引き合いに出すのはブログ検索で「水 結晶 70%」って検索してみる、ってパターン。ネットワークビジネスお薦めブログも含めて、だいたい毎日1件以上、このことを論拠にして何事かを述べているネット言説が生産されているのがわかると思う(60%だったり、80%だったり、7割だったりすることもあるので実際には同種の言説はもっと多い)。まるきり廃れてなんかいないのが現状で、いまでも相当なボリュームで流通している。
ついでに内容を拾い読みしてみていただければ、それがuumin3さんの云うような「批判言説があるせいで生き残っている」と云うようなものではないのはお分かりいただけるかと(どうかな?)。
で、議論そのものはそのまえの議論を踏まえて先に進んでいくのだけれど、議論の外の個別の言説はもちろんそれまで「どんなことが議論されてきたか」は踏まえていなくて、当然ながら周回遅れなんかも発生する。これは当たり前のことで、でこのことに対応するには「何度も云う」しかない。読むひとも退屈だろうからまるきりおなじ角度からおなじことを書くことはしない(ようにしているつもりだ)けれど、でもおなじ事柄に何度も言及することに、ぼくは意義があると思っている。
・「水からの伝言」はわかりやすい
ニセ科学を継続的に批判している人間の動機はひとそれぞれさまざまで、統一されたものはない、と云うのはだいたい批判者側では共有されている認識だと思う。で、ぼくなんかはニセ科学と云う切り口で、その根底にある紋切型思考と云うものについて考えていくのがわりと根っこにある動機だったりする。
「ニセ科学」と云う言葉についてはいまでもときおり議論が生じるような、まぁ「生きている」言葉で、批判の対象となるにあたっての要件もそれなりに(実地にあたっては)複雑だったりもするけれど、菊池誠がどこかで書いていたように「水からの伝言」はそのなかでもとりわけ「わかりやすい」(なんたってその基本構造が金枝篇で読み解けてしまうくらいで)。
わかりやすいことに対してどうして何度も言及するんだ、もっとわかりづらい事柄に取り組めよ、みたいな云われかたをすることが多いけれど(なんとなくそう云いたくなる気持ちもわからなくはないけど)、ぼくの場合動機が上述のようなものである以上、「ある程度のマスを持って流布していて」「その構造が見えやすい現象」のほうが材料として適切なわけだ。
ぼくは「科学至上(絶対)(万能)主義者」でもなければ、「科学リテラシの重要性を啓蒙するために批判を行っている」わけでもない(わりと頻繁にそう云うふうに決め付けられるけれど)。オカルトを嫌悪しているわけでもない(程度の低い、紋切型の集積の域を出ない安物のオカルトは許せないけれど)。ただ、どう考えても不適切な場面で「信じること」を「信じて」しまうことを問題にしている、みたいにも云ってしまえば云える。
ついでに云うと当然ながらぼくが言及する対象は「水からの伝言」絡みの言説だけではないけれど、そこにはそれまでの議論で得られた知見が活用できている。で、こう云う(主に議論を通じて、ここのコメンテーターの皆さんをはじめとする多くのひとの示唆によってそれなりに鍛えられた)知見は、うまく行けばこの場所の議論以外の場でも「使える」ものになりうる。微々たるものにしても、これはこれで貢献できる可能性のある部分ではある、と思っている。

上でリンクしたuumin3さんの続続・なぜいつまでも水伝?と云うエントリのなかに、

 要はそういうのを信ずる人の人格を否定するようなからかい方をせず、きちんと話してみるということに尽きるのではないでしょうか。アンチ疑似科学とアンチアンチ疑似科学のやり取りの中でそうおっしゃっていた方がいらっしゃったと憶えておりますが、非常に納得させられたものです。

 そういう対応をきちんとして、なおかつ相手が信念を曲げないなら、それはもう一般の合理的な理路ではないところにその相手の動機がある(もしくは何らかの宗教的なるものへの渇望を抱えている)ということではないかと思いますので、それはどうしようもないと一旦諦めるのが穏当なところではないでしょうか。

と云うくだりがあるけれど、いちおうぼくとしてはその向こうを見ているつもりではあるのだった。

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TAKA

言及先の記事、読みました。印象論だけで語り続けると、説得力が弱く成ってしまうのだなと思いました。uumin3さんの最近のコメントも見ました。人の批判を深読みせずに、そのまま素直に受け入れる事の出来る、穏やかな人だと思いました。uumin3さんが仰っている様に、人格否定では無く、その言説を見て批判出来るように成りたいと、私も考えています。

最近は、文章だけのやり取りは難しいものだと感じています。何気ない一言が誤解を生み、他人を悩ませる事に成るからです。一旦こじれた関係は、すぐには修復出来ません。相互理解が深まる会話の仕方を、早く習得したいものだと、今は考えています。
by TAKA (2008-05-09 03:49) 

pooh

> TAKAさん

この「人格否定」と云う言葉、ぼくにはよくわからないんです。なんか批判された側の錦の御旗のように思えてしまう。論は論だ、みたいにぼくは思ってるんですが、その論に対して「自分の人格の肯定」みたいなのを込めているひとからすると、それに対する批判は自動的に「人格の否定」として受け止められる、と云うような仕組みがあるのかな、とか推測します。
まぁ、論と関係ない部分を否定すれば「人格の否定」になるのかも知れませんが。そう云う意味では、ぼくに向けられる批判は多くの場合ぼくの「人格の否定」だったりもしますね。

> 文章だけのやり取りは難しいものだと感じています。

難しいです。不自由ですもの。
できることと云えばやっぱり、誠実に注意深く言葉を積み重ねることぐらいなのかな、みたいにも思います。これはTAKAさんに云うと云うより、自分自身肝に銘じないと、みたいなことではあるのですが。
by pooh (2008-05-09 07:59) 

Noe

批判を「人格否定」と捉える方は、議論に対する耐性というか経験が少ないんだと思います。まあそういう方の方が得てして「はまりやすい」ので、普通に批判していてもニセ科学批判=人格否定ととられがちなのだと思います。

こんな分析をしても解決策にはなりませんが。すみません。
by Noe (2008-05-09 10:18) 

kurita

> 批判を「人格否定」と捉える方

論理における「部分否定」と「全否定」の違いを明確に意識できずに議論する方も時々いるようなので、そういう人は自分の主張が「批判」を受けると「全人格が否定された」的な反応をしてしまうのかも。 つまりアタマがあまりよろしくない可能性が...(失礼)

by kurita (2008-05-09 13:35) 

技術開発者

こんにちは、 pooh さん。

>この「人格否定」と云う言葉、ぼくにはよくわからないんです。

なんていうか、我々は全体を見ることができない場合に、見えている一部から全体を推し量ろうとする傾向はもっていますよね。例えばある政治家がどういう人格かは分からないものですが、例えばどこかで下品な発言を一つした時に、「政治家に相応しくない下品な人格なのかも」と思ったりする事はあるわけですね。そして、そのように思ってしまいやすい人間の傾向というのが、必ずしも悪いわけではなくて、そういう傾向を前提として個々の自制を促す働きもあると考えています。例えば政治家であれば「人は一度でも下品な振る舞いを目にすれば、自分を下品な人間と思うかも知れない。だからどのような場でも品のないことをしないようにしなくては」という自制を作り上げて来た面もあると思うんですね。

政治家の様に「立場」が無くとも、我々は「社会を構成する一人」としてやはり或る程度の自制はもたなくてはならない面があると思います。なんていうか、その自制というのが果たして周りと無関係に個人の自制心のみでできるものかどうかを考えている面があるわけです。例えば、たいした話ではない日頃の話でも、気楽にいい加減な発言を良くする人は、「あいつは、よく考えずにいい加減な発言をしやすいから、こういう大事な誤解が生じやすい事については知らせないでおこう」なんて、のけ者にされたりする可能性みたいなことが世の中に現実にあることで、「たいした話でないことでも、あまり周りからいい加減な事を言う奴とは思われない程度には慎重に話そう」なんて自制が生じやすくなっていたりするのも人間の文化だろうと思ったりするんですね。

なんていうか、現代の日本の社会は、こういう社会的な自制のサポート部分を「煩わしい」と捨てる事で、様々な「社会人としての自制」を「全て自分の強い自制心のみでまかなう」ことが求められている社会になっている気もするわけです。私は良く金融機関の日々の出納チェックなんて例を出しますが、「そういうのは社員を疑って居る人格否定だから」と捨て去るなら、「出来心を押さえるのは個人の自制心である」と個人に対する要求のレベルは高くなってしまう訳です。それが果たして社会に生きる個人にとって、本当に幸せなのかどうかを考えたりする訳です。

by 技術開発者 (2008-05-09 16:45) 

pooh

> Noeさん(いちどお聞きしたかったんですが、「ノエ」さんでしょうか、「ノォ」さんでしょうか。いえ、後者だと呑んべとしては忘れられないBooker Noeと云うひとの名前を連想するもので)

> 議論に対する耐性というか経験が少ないんだと思います。

そう云うこともあるのかもしれませんね。
あと、ぼくなんかには思いもよらないところにプライドをしまってあるのかも。
by pooh (2008-05-09 22:50) 

pooh

> kuritaさん

いや、それでもですね。やっぱり言説は人格から生じるものでもあるのですよ。ぼくみたいな匿名の論者の論は、やっぱり一定の度合いでは見える範囲での人格に担保されている部分もあって。

あれですかね。論より人格が大事、だったりするんでしょうか。だからぼくは概ねの人格攻撃が平気だったりするんですかね(ぼくの場合、そもそもたいした人格じゃない、って自覚があるし)。
by pooh (2008-05-09 22:53) 

pooh

> 技術開発者さん

どうもですね。「人格攻撃」に強く反応する方ほど、ネットの上で晒している自分の人格と云うものに無頓着な印象があったりするんです。と云うか、開き直りめいたものを感じる、と云うか。
どうなんでしょうね。下劣な人格は攻撃されてもしかたない、みたいな感覚があまりないのかな。すべての人格が尊重されるべきだ、世界にひとつだけの花だ、みたいに思ってるのか。

> 様々な「社会人としての自制」を「全て自分の強い自制心のみでまかなう」ことが求められている社会になっている気もするわけです。

これ、考えてみるときついですよね。しかもなんか「ロールモデルが自分しかない」みたいなお話にもなっているような。
by pooh (2008-05-09 22:58) 

黒猫亭

>poohさん

批判と人格否定の関係については、最近ネットと現実の照応関係ということをよく考えることがあります。新しい媒体であるネットコミュニケーションというのは必然的に新しい言論の関係性を提起するわけですが、ネット参入者のエクスパンションが未だ進行中であるが故に、その部分のコンセンサスが遍く周知されているとは言い難い部分があるのではないか、ということです。

たとえば現実社会において厳しい批判を受ける場面を想定してみましょう。残念ながら多くの場合、固有の人間関係における序列関係というのが大きく物を言います。下世話に言えば下っ端が偉いさんのご意見に逆らうなんてとんでもないわけで、論それ自体の当否よりも現実の序列関係によって発言力が決まる部分があります。

それ故に、たとえば自分が幾ら正しいことを言っていると思っても、「下っ端の分際でおこがましい、自分の立場を考えろ」というニュアンスバリバリで窘められるわけですね。部長の言っていることだから正しい、ヒラの意見だから間違っている、そのような序列関係が対話の前提となる基準として機能しているわけです。それは、正しいことを言っているつもりの下っ端からしてみれば、自分の存在を丸ごと否定されたような悔しい思いに繋がるわけで、こういう経験は社会に参入して以来誰でも数限りなく体験してきているでしょう。

一方、ネットコミュニケーションの魅力とは、一般にそのような現実社会における序列関係からフリーなところで、自由に物が言えることだと考えられている。たとえばブログというのは、企業組織と違って自分の城ですよね。現実の企業組織というのは決して自分を中心に廻っている場ではないし、自分以外のところに中心があって、その中心に対して常に配慮しながらコミュニケーションを行うことを強いられている。しかし、ブログというのは飽くまで自分が中心の場所であり、自分以外の誰にも関係性としての配慮を求められない言説空間である。

おそらくナイーブにブログで発言するような方の多くは、漠然とそのように認識されているのではないかと思います。そのような方にとって、ブログで自由に発言することで自分が中心となる言説空間を実感出来ているわけですから、他者から批判された場合にその自由を脅かされたような印象を覚えるということはあるでしょう。

ネットでは誰に配慮することもなく自由に物が言えるはずなのに、そのようにして自由に発言したことを咎め立てする人がいるということは、その自由が脅かされたということになり、これを現実社会のアナロジーで言うなら、やはり自分の存在そのものが否定されたような感覚に繋がるのではないでしょうか。

たとえばOLさんが会社の愚痴をブログ上でこぼして、「○○さんのおっしゃったようなこと、私にもあります。やっぱ下っ端OLは辛いですよねぇ〜」みたいなレスが附いたとするなら、対等者同士の共感によってブログ主とこのレスを附けた方が互いに存在を確かめ合えたような実感があるわけですが、このほのぼのした共感空間に血まみれの手斧を携えたモヒカンがプロテクターをガチャガチャ言わせながら大勢土足で乱入してきて「それはおまえの言い分が間違っている、そんなことで会社を批判するのは間違いだ」とか筋道立てて批判したとしますわね。

これは容易く「自身の存在の正当性を否定された」という感覚に直結するわけで「おまえのようなつまらない奴は物を言うな」という圧力として感じられるわけです。或る種このようなブロガーというのは、自身の論によって不特定多数に何かを訴えたいわけではなく、現実社会では存在を軽んじられている自分でも物が言いたいという欲求に基づいてブログで発言しているわけで、一人の人間としての発言権を確認したいと感じているわけです。

そこへ筋論の批判を加えることによって、ネット上で発言する行為にも客観基準としての当否があるという現実を突き附けられるわけで、筋道立った批判というのは「頭の悪い奴には発言する資格なんかないんだ」という客観基準の突き附けとして感じられるわけです。これは当人にしてみれば「下っ端には発言権なんかないんだ」という現実社会の基準とそれほど変わらないわけで、ひどい言い方をすれば、下っ端で頭の悪い自分でも、そういう客観基準に基づく評価の如何に拠らず平等に発言出来るのがネットだという幻想があるわけです。

ですから、そういう相手を批判する場合は、どうしても人格や存在を否定されたという受け取り方に繋がりやすい。これは、多分実社会では割合従順で温和しい人ほどそういう傾向があるんではないかと思います。

他方、現実社会で重んじられている立場にあるブロガーはどうかと言うと、現実社会における発言権というのは、自身の能力や実績、社会的立場に基づく既得権であるわけです。だからブログ上の発言というのは、そのような権利に伴う社会的期待や義務からフリーな境地で好き勝手に発言出来るという魅力がある。また、現実社会においては、能力や実績に基づいてくだくだしい議論抜きに優先的に発言を尊重されていたわけですから、自身の発言の正当性に無意識の自負、言い換えれば周囲に対する同調の期待があるわけです。

しかし、本来現実社会においては、責任関係に基づいて序列が定められているだけで、たとえば課長より部長の発言権が大きいのはそれだけ責任が重いからであって、本来対等に議論を交わせば、筋論においては課長の発言のほうが正しい場面など幾らでもあるわけですね。で、ネットというのはそういう序列関係をすっ飛ばして論を戦わせる場ですから、無自覚に自分の言説を正しいと思い込んで発言すると、いろんなところからボコボコミサイルが飛んできて打ちのめされるわけです。

そういう人は、おそらく現実社会で尊重される立場に立つだけあって、その論考に一定の妥当性を付与する能力がある場合が多いわけですが、現実社会の組織というのは多くの場合は合目的組織ですから、公平に論を戦わせることが期待されているわけではなく実効を持つと見做される強い論の発信が期待され説得力を持つ側面があるわけで、公平に討論を交わすとか批判を受けるということには不慣れな部分がある。

要するに、学問の場合とは違って、その言説の範疇で強い整合性があり、実効を持つという「見込み」を多くの人が持つような論が「正しい」という基準になるから、別の観点からの実証的な批判に脆い。現実社会では絶対基準での妥当性ではなく、合目的的な基準における見込みとしての妥当性が問われるわけですから、前者の観点からの批判というのは剰り生産的なものだとは見做されていないわけですね。

ですから、そのような方は他者から筋論の批判を加えられると、自身の論考に自身の理路に基づく見込みとしての妥当性があると信じられる限り、自分個人に加えられた理不尽な攻撃というふうに受け取るおそれはあるでしょう。

まあこれは極単純化したモデルケースですが、ここから抽出可能なのは、現実社会においては特定の人物の存在意義を攻撃乃至否定する目的以外で批判が加えられることは少なく、ネットにおけるコミュニケーションをそのアナロジーで視る見方が根強いということではないかと思います。本来ネットの言説というのは、そのようなロジックを超越した対話が交わせることがメリットなのですが、そのようなコンセンサスが周知されていない、どうしても現実社会との関連で他者の言説を判断してしまう、それが大きな問題としてあるのではないかと思います。

最初に語ったように、下っ端だから間違っているとか上役だから正しいということなんかないんですが、それが直ちに下っ端の言うことが正しくて上役の意見が間違っているということにはならないわけで、序列関係に基づいて発言力が決まっている限りは、その言説それ自体の妥当性を対話によって公平に量ることは出来ないということです。

ネットコミュニケーションでは、そのような現実的な序列関係とは別のロジックで対話が成立しますから、論それ自体の妥当性を問うという基準設定になるわけで、その前提で言えば、下っ端の言うことが正しい場合と間違っている場合を、論それ自体を視ることで見分けることが出来るわけです。現実社会とはそこが違っているだけなのですが、どうも平等性への過剰な期待や幻想があるのではないかと思います。
by 黒猫亭 (2008-05-10 08:50) 

PseuDoctor

こんにちは。
興味深い話題ですね。

私などは、Noeさんと同じ様に「人格否定と感じる人は、議論に慣れていないだけだろう」と思っていたのですが、黒猫亭さんの仰る様な要素も大きいという気がしてきました。つまり「慣れていない人達の間にいきなりブログというツールが広まったので尚更慣れた人とのギャップが拡大している」のではないかと。

おそらく、少なくない数の人にとってブログとは自分の言いたい事を自由に言える「だけ」の道具であり、実はそれが「誰でも自由に自分を批判する事ができる」というのと全く等価である点には殆ど無自覚である様に見えるのです。
黒猫亭さんの意見を言い換えただけですが、ネットの世界では(ある程度)社会性から解放されるので誰でも個として無条件に尊重されるという幻想があるのかもしれません。実際にはむしろ逆で、社会性から開放されているからこそ「言った事それ自体」だけで評価されてしまいがちなのですが、一旦開放感に酔いしれてしまうと、なかなかそこまでは思い至れない様です。

更に想像するならば、こういうネットでの脱社会性がリアルの社会に「逆流」を起こし始めているのかもしれません。そうした傾向が、技術開発者さんの指摘されている「社会的な自制の喪失」に拍車を掛けている様な気もするのです。
勿論、だからといって「ネットが悪い、ブログが悪い」などと言うつもりは全くありません。ただ、あまりにも変化が急激に起こり過ぎているのではないかという感じは持っています。
by PseuDoctor (2008-05-10 11:27) 

pooh

> 黒猫亭さん、PseuDoctorさん

ネットの上の人格って、考えてみると「素」の人格なんですよね。自分で意識してつくった仮の人格でも、それは「自分でつくった」もので。周囲にいる他者の前では、それは自ら表現したもののみで評価されてしまうけれど、やはりそれは「本人から出て来たもの」に対してだけ下される評価で。そう云う意味では、ファクターが少ない分実はネット上での対話と云うのは剥き出しの、ストレートに内奥に届くものなのかもしれないです。

ただ、ネットとは原理的に「つながり」であって。このことを意識できないと、嫌な目にあうひともいそうです。また、意識せずにだれかを嫌な目にあわせる可能性も高まる、と云う気もします。

いずれにせよそこのギャップを理解することは、昔は(それこそ先人のモヒカンに)最初に叩き込まれる部分であったような気がします。そう云う場所を経由しないで入って来たひとたちがもはや大多数である、と云うのも、まぁなんとなく関係してくるような。
by pooh (2008-05-10 20:07) 

Noe

黒猫亭さん

私自身ブログを持っていないので、ブログ開設者の意図というのはいまいち想像しきれない部分がありますが、せっかく自分の庭を作ったのに、よそ者に荒らされたみたいな感覚はなんとなく分かるような気がします。
(そんなに荒らされたくないなら人の目に触れないようにしておけよとも思いますが)


poohさん

Booker Noe氏は存じ上げませんでした。
私は酒飲みとはとてもいえませんので(それが理由ではありませんが)、ローマ字読みでお願いします。
(お酒は正月に御屠蘇をなめた以来飲んでないなあ・・・)
by Noe (2008-05-12 08:20) 

技術開発者

こんにちは、PseuDoctor さん。

>つまり「慣れていない人達の間にいきなりブログというツールが広まったので尚更慣れた人とのギャップが拡大している」のではないかと。

 私は、なんとなくリアルな社会で「慣れるための経験」そのものが不足している気がして仕方ないんですね。黒猫亭さんの出された様な事例というのも私なんかはずいぶん経験してきましてね。下っ端の頃に「こうしちゃあいけないんですか、うまく行きそうですけど」なんて提案して、上の人から「うちのグループとしてはうまく行くだろうけど、周りのグループとの関係があるから駄目だね」なんて却下されるわけですね。そういう経験を積むことで、今度は上に立ったときに下の人が「こんなに良い提案なのに何で取り上げてくれないんだ」とゴネても、「もう少し上の視点で全体を見ると、それをやるとこういう問題が生ずる事がわかるよね」なんて説明出来る様になってきているわけです、通ってきた道だものね(笑)。なんていうか、そういうのって、身体で覚えなくちゃ成らない面があると思うんですね。

 なんていうか、「幼児が歩くときに転びそうな小石を取りのける親」って笑い話が有るんだけど、大けがをしない程度の小石は残して上げないと、大きくなってから、突然石だらけの道を歩けと言っても歩けなくなっちゃう(笑)。

>更に想像するならば、こういうネットでの脱社会性がリアルの社会に「逆流」を起こし始めているのかもしれません。そうした傾向が、技術開発者さんの指摘されている「社会的な自制の喪失」に拍車を掛けている様な気もするのです。

 実のところ限られたメンバーの間の雑談ですら「社会と無関係では無い」という意識を最近強く感じて居るんですね。パートで来て貰っている人が「今度の月曜日、年次休暇ください」なんていうと私なんかは「はい、はい、どうぞ」なんて言うんだけど、たまに「こうやって簡単に認めて貰えるなんて余所では考えられない」なんて言われると、私は「法律上は好きなときに好きに使えるのが年次休暇の原則で、どうにも困るという理由無しに駄目なんて言ってはいけないんですよ」なんて言うのね。でもって何かの時に「余所に比べてうちが恵まれているのではないのね。余所が本来法律の原則を大事にしていないだけなの」なんて説明して、「その原則を大事にしていない状態がいくら当たり前になっているからと言って、そっちが普通でこっちが恵まれているなんてのはあまり言って欲しくないのね。それはおかしい状態を基準にするということで、皆さんがそういう事を何気なく言うほど、おかしい状態が普通になっていくからね」なんて言った事があるんです。何気なく「ここは恵まれているよね」なんて発言ですら、そこにはわずかだけど、現状のおかしさを強める働きを持つ事に気づいて欲しいのね。

by 技術開発者 (2008-05-12 13:52) 

pooh

> Noeさん

比喩に乗らせていただくと、いちばん好きなように庭を保っておきたいなら、やっぱり万人に立ち入らせないようにするのがなによりなんですよ。
ぼくなんかの場合、庭にお越し下さるみなさんのお話がとてもためになるので、閉鎖しておくわけにはいかないわけです。

ブッカー・ノゥ氏はバーボンの雄、ジム・ビームのえらいひとでした。
by pooh (2008-05-12 21:54) 

pooh

> 技術開発者さん

余談めきますけど。
昔はネットに接続することひとつとってみてもそれなりに敷居が高くて、グル(ぼくの場合は当時NTTのエンジニアの友人)の云うことをきかないとどうにもならない、と云う時代があったじゃないですか。
で、まだインターネット自体のインフラが乏しかった時代には、いかにそれを利用するのに公共心を基本にした考え方とふるまいが重要であるかを、グルから強烈に叩き込まれるんですよね(とくにぼくの場合は友人だったので容赦なかった、と云うのもあるんですが)。

ぼくは自分で所謂モヒカンであると云う自覚はないんですが、そう云う部分を欠いたひとにはやはりちょっと「それって違うよ」みたいに見てしまう部分もあるのかな、とか思います。
by pooh (2008-05-12 22:03) 

PseuDoctor

こんばんは。

>技術開発者さん
実は丁度今日、目の前で幼児が転んだのですが、私は本人が自分で立ち上がるのを黙って眺めていました。それはまさしく技術開発者さんが仰られた動機によるものだったのですが、傍から見るとちょっと冷酷なオジサンに見えたかもしれません(笑)。

ですので(と言うのも変ですが)、勿論、技術開発者さんの仰る様な要素を否定している訳では全くありません。「ただでさえ社会性が失われがちなのに、ネットの存在が更に拍車をかけているのではないか」という危惧の表明だと思って頂ければ幸いです。

ただ、逆に、ネットの存在を社会との関係性を意識させる為に役立てる、という可能性もあるように思います。既にPoohさんがご指摘のように、ネット上では「剥き出しの個」に近い人格が現われてきますし、他の存在との繋がりをより強く意識する場面も多くあります。その2点とも完全に逆だと思い込んで入ってくる人が現在では多数派になってしまったようなのですが、ネットに慣れる事で逆に社会との関わりを再認識できれば、それはとても良い事のような気がします。実際、私自身を省みても、このようにして蒙を啓かれ、自らと社会との関係を確認しなおせる事が多々ある訳ですから。

結局は「ネットという強力なツールを如何に使うべきか」という話になってしまうような気もします。
それより前に横たわっている「個と社会との関係性を如何に再認識すべきか」という、技術開発者さんがずっと取り組み続けておられる問題そのものに対しては殆ど無力に近いかもしれませんが、それでもひとつの可能性ではあると思うのです。
by PseuDoctor (2008-05-13 00:07) 

pooh

> PseuDoctorさん

とりあえず、ネットで発信の主体となることが、それがどんなにメインランドから遠くてもそれなりに鍛えられることである、と云うのは実感を持って主張できたりはしますねぼくは。
by pooh (2008-05-13 00:40) 

PseuDoctor

こういう事をPoohさんに対して申し上げるのは非常に「今更」感があるのですが、Poohさんがそのような実感をお持ちなのは「表現する事の重み」をご存知なのと「表現した結果を出来る限り引き受ける覚悟」をお持ちだからだと思うのですね。
その事を「鍛えられる」と表現なさるのがまたPoohさんらしい、と勝手に思ったりもします。まあ、Poohさんには到底及びませんし立場も違いますが「鍛えられている」という実感は私にもあります。
by PseuDoctor (2008-05-13 00:55) 

pooh

> PseuDoctorさん

いや、ぼくの発信の目的には、そう云う面で自分を鍛える、と云う非常に個人的な部分ももともと大きいんです。それと一緒に、それなりに鍛えられた強靭なロジックを提供して、なんと云うか(漠然とした)「全体」に貢献できれば、と云うのももちろんあるんですけど。
by pooh (2008-05-13 07:43) 

技術開発者

こんにちは、PseuDoctorさん。

>それより前に横たわっている「個と社会との関係性を如何に再認識すべきか」という、技術開発者さんがずっと取り組み続けておられる問題そのものに対しては殆ど無力に近いかもしれませんが、それでもひとつの可能性ではあると思うのです。

 現実の社会が複雑化して、個人にとって全体が見渡せなくなっている、いわゆる俯瞰や鳥瞰ができなくなっている中で、ネットというのは2つの側面があると思っています。一つは個人が身にまとっている周りとの「しがらみ」を振り捨てて「生の存在」として自分を表現する事ができるということです。そのため、「自分はそれなりに一人前だ」みたいな意識で飛び込んで、ひゃぁ~、世の中スゴイひとが沢山居るな」となる場合もあれば、「自分なんて何もない」みたいな意識で飛び込んで「自分にも役立つ面があるじゃないか」と認識したりもすると思うんですね。生の自分の位置づけ確認の機会があるわけです。もう一つは、生の個人間のつながりができる中で、社会のしがらみばかりのつながりの根底にも同じことがあるという確認ですね。そういう意味で、「個と社会との関係性を如何に再認識すべきか」ということに関してネットというのは有力なツールに成り得ると思っています。

by 技術開発者 (2008-05-13 08:26) 

PseuDoctor

こんばんは。

>Poohさん
個人的な要求を満たす事が全体への貢献になる、というのは、何と言うか、ひとつの理想形ではありますね。

>技術開発者さん
お話を伺っているうちに「一旦社会性を脱ぎ捨ててネットに飛び込み、そこで改めて社会性を身に付ける」という形で再生というか再構築というか、通過儀礼みたいな役割をネットが果たせればいいな、などという淡い期待が湧いてきました。
勿論簡単にはいかないでしょうし、少なくとも物心ついた頃から既にネットがあるという世代がマジョリティになるまでは無理かもしれない、と感じてはいますが。
by PseuDoctor (2008-05-13 22:42) 

pooh

> 技術開発者さん

なんと云うか、現実で固まってしまった部分を一回ちゃらにして、再度組み直す(ネットと云うのは関係性の模式図でもあるので)みたいな意味で、自覚的に関係性と云うものに向かい合う、と云うことはできるのかも、です。
by pooh (2008-05-14 00:20) 

pooh

> PseuDoctorさん

ですので、そこに合致がある限りは、コミットし続ける意義は(ぼく個人としては)あるわけですよね。
by pooh (2008-05-14 00:21) 

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