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相対主義 [世間]

Schwaetzerさんの今日付けのエントリを読んで、少し悩んだ。

悪いけど、あんなので傷つく神経の持ち主のほうがやわにもすぎる。

こんなことが云えるようなノリでエントリを書けたら爽快かもなぁ、でもどんなふうに叩かれるんだろうなぁ(ちょっと楽しみ)、とか思ったのはまぁどうでもいいとして。

想像力の欠如でも科学的思考力の不足でもなく、頼るべきフィクションをいかに表現するか、あるいは表現されたフィクションのどれに飛びつくかという問題のはずで、であるならばむしろ、フィクションとの付き合い方やフィクションのネタのほうを考えた方が、たぶん、近道なのだろう。

お書きのことは結構同意できるような気も、筋が通っているような気もするんだけれど、どこかひっかかる。どこが引っかかるんだろう。

結局、フィクション、と云う言葉の捉え方なんだろうな、と思った。どんな意味でこの言葉を使っているのか。

Schwaetzerさんにとって、フィクションとはなんだろう。
そして、フィクションでないものとはなんなんだろう。

フィクションは必要なものかもしれない。
でも、フィクションでないもののほうはどうなんだろう。

多分キーワードは、「極端な相対主義」。


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corvo

こんばんは。
紹介のエントリーをざっと読んだ感想ですが、フィクションの質について何も問うてないのではと思います。人が生きる上でフィクションは必要です。僕もそうとうに妄想が強いです。
より質の高いフィクションを知ること、どうしようもないフィクションに対する耐性を持つことは大事かもしれない。僕はフィクションの発信者でもあります。だからこそ気をつけなくてはいけないし、勉強もしなければならない。細心の注意を払うことを、習慣づけているつもりです。
もうひとつ引っかかったのは、あたかも科学者がフィクションを持っていないように書いていること。菊池さんは言うに及ばず、僕の友人の研究者も極めて豊かなフィクションを精神世界に持っています。それがなくては、科学者という仕事はできないのではと、僕は思っています。
あんまりまとまらないですが、雑感です。
by corvo (2008-02-08 23:44) 

pooh

> corvoさん

フィクションの質もあります。それはもちろん、洗練されているものもHypeなものも。
もうひとつは、ファクトがなければフィクションも生きない、と云うことでもあると思います。

もちろん何がファクトなのか突き詰めると難しくなります。でも、フィクションを欲するこころのほかに、ファクトをどうしても希求する心理が人類の知の歴史をドライヴしてきた、と云う事実があって。
そのことを所与のものと捉えて、ひどく鈍感になっているケースがまま見られます。

corvoさんのフィクションの質を支えているのは、ファクトに対する深い敬意と理解だと思います。多分フィクションとは、そしてファクトとはそのようなものだと思います。
by pooh (2008-02-08 23:52) 

FREE

こんばんは

フィクションって何をさしているのでいるのでしょうか。「物語」という意味で使用しているのかなとも思いましたが、「虚構」とも取れそうな感じもしてしっくりきません。それとも幻想という意味なのか・・・。読み方が間違っているのかなぁ。まさか「騙す」ではないだろうし。
 
個人を取り巻く物語って紡ぐというより取り込まれるっている受動的な印象が私は強いんですよね。逆に虚構だと能動的に(無意識的にせよ)張り巡らすものって印象なんですが。幻想は生み出されるものって感じで。私はいったい何を書いているのか・・・、まとまっていません。

 



 
by FREE (2008-02-09 00:19) 

トド

この前コメントをアップしたとき「始めまして」と書いてしまいましたが、実は2回目のコメントでした。自分自身も忘れていて・・
大体、いつもはROMなのにコメントしてしまうのは酔っている時なんです。なので、前々回コメントしたことさえ忘れているんですね。すみません。

で、酔った勢いでまたコメントさせて頂きますが、Schwaetzerのエントリは、とても小気味の良いもので、私的には共感出来るものでした。

poohさんが「フィクション、と云う言葉の捉え方なんだろう」と分析されているのが流石だなぁ、と思ったのですが、それはSchwaetzerの「(人間には)フィクションは絶対に必要だから」と言うことに同意した上で、フィクションのもっと深い意味を問うているのだと解ったからです。

恐らく(否、ほぼ絶対に)、私とpoohさんの思考過程は異なっていると思うのですが、Schwaetzerさんが仰っているフィクションというのは、私の馴染んでいる言葉に置き換えると「方便」なのではないか、と私は思っていて、そういう風に「フィクション→方便」と置き換えてSchwaetzerのエントリを読むと、Schwaetzerさんがフィクションが必要だ、ということの理由が納得出来るのです。

ただ、私がSchwaetzerさんのエントリに対して、残念だなぁ、と思うのは、信仰も科学も中途半端だからなのかな、という気持ちです。
信仰(宗教)も、本気で突き詰めていくと半端な理論体系のものには納得出来ないものです。ニセ科学なんかより余程しっかりした教義体系が築かれています。
で、そういった信仰の世界で人々の救済のためのツールとして使われるのが「フィクション」であり「方便」であり「妙」なのです。

科学が、人間の都合とは関係無いところに存在するのと同様に、例えば仏教でいう諸行無常という真理の一つも、人が望むと望まないに関わらず、世の中の全てのものは変化する、という「冷たい」ものです。その冷たい真理を理解して自らの行いを律することを求めるのは、未熟な私達には非常な困難なことであり、なので「フィクション」が必要な訳です。

私達は(程度の差はあれど)夢(フィクション)を追いかけて行動しています。だから、全く夢が無いと思われてしまったら生きてさえ行けないかも知れません。
しかし、フィクションは、自らを完成するためのツールであって、その先に何があるのかを、否、その先に有るべき自らのイメージそのものである、と思います。

先日、想像力を「他人のことを思い量る気持ち」とコメントしました。他人のことを思うのは難しいので、努力して意識しなければならない、と思っていましたが、将来の自分がどうなっているか、ということも想像力がなければ描けません。自分の将来の姿さえ「想像出来ない」なら想像力の欠如も末期的なのかなぁ、と思ってしまいます。
by トド (2008-02-09 01:19) 

黒猫亭

まあ、この方の仰るような世界の見方があることは事実ですけどね、それでもこの方は、倖田來未自身がそういう意味合いにおける良質なフィクションを他者に与える職業的立場にあるということはどう考えておられるのでしょうかね。

また、彼女の抱えているフィクションが、たとえば他者に大して有害であったり不当な悪影響を与えるとしても、それは構わないんだということになんでしょうか。そうだとすると、この世は個人と個人のフィクションが戦っている場だという意見になりますが、それはちょっとどうなんですかね。

poohさんの仰るファクトというのは、この方の言い方によれば、別々の人間が同じものを視ていると信じるフィクションだということになりますが、そんな簡単に割り切っていいもんじゃないと思いますよ(笑)。

まあ、それこそ「極端な相対主義」というやつだと思います。
by 黒猫亭 (2008-02-09 01:25) 

トド

あ~。やっぱり飲んでコメントするのはいけませんね。ブログ主さんに失礼だし。

今、アップされたのを読み直して、文章が冗長かつ解り難いのは仕方ないとして、Schwaetzerさんに対して何度も呼び捨てにしていることに気づきました。本当に申し訳無いです。

意識してのことではないので、お許し頂けます様、お願い致します。
by トド (2008-02-09 01:28) 

かも ひろやす

引用先の人は、科学者が伊達や酔狂でニセ科学に対抗していると勘違いしてるんでしょう。

科学者であろうとなかろうと、自分の子に学校で変なことを教えられては困るし、自分の親がろくでもないものを高額で売りつけられたら困ります。また、どんな職業であっても、その職業の偽物がばびこるようになると、その職業に従事する人も困るし、顧客にとっても良いことではないので、こっちが本物だとアピールして対抗せざるをえなくなります。科学者(のごく一部)がニセ科学について発言するのは、そういう社会人として一般的な行動の一例だということが、まったく見えていない。

要するに、この人は、科学者を「科学者」という記号としてしか認識できなくて、それぞれの人生をかかえる社会人であることが理解できないのでしょう。想像力の貧困も極まれりですね。
by かも ひろやす (2008-02-09 02:07) 

NO NAME

>黒猫亭さん

> 倖田來未自身がそういう意味合いにおける良質なフィクションを他者に与える職業的立場にある

と断言してしまうのは、ちょっと厳しすぎないですか?

いや、彼女の言動が想像力と配慮に欠けた、不当というか未熟なものであることには異論は有りませんが、芸能人であるからと言って「良質なフィクションを他者に与える職業的立場にある」というのは、求め過ぎな気がしますが・・

poohさんの仰られるファクトとは、私の理解するところとしては「人格の完成」という全人類が視ている同じゴール地点のことですが、その具体的なイメージは人それぞれ違っていて、だから、映画や芸術や文学は、「人格完成」の様々な具体的イメージをフィクションとして観せて、観る者に進むべき道を示しているのではないか、と思います。

まぁ、そういう意味では、彼女が本来の意味でのアーティストではなく、我々一般大衆と同じレベルでしか無いことが暴露された、という事件だなと思っています。、
by NO NAME (2008-02-09 02:14) 

トド

すみません、↑の「NO NAME」のコメントは、私「トド」のものです。名前入れ忘れました。
by トド (2008-02-09 02:19) 

pooh

> FREEさん

多分ですね。フィクション、と云う言葉を多義的に使おうとしたら、その多義性そのものに言説が取り込まれてしまった、と云うところじゃないかと思うんですよ。なのでそれがどんなふうに紡がれて、どんな機能を有していて、どんなふうにふるまうものなのか、と云う部分が曖昧になってしまったのではないかと。これはこのエントリの論理の基礎になる部分だろうと思うんですけどね。

実際、FREEさんのお考えのようなそれぞれの定義に基づくと、それぞれ異なった議論に展開するんですよね。
by pooh (2008-02-09 06:17) 

pooh

> トドさん

まず、ここでは「ファクト」と云う言葉を、「フィクション」の対義語として使っています。で、意味はと云うと、「Schwaetzerさんのおっしゃるフィクションではないもの」と云うことになります。事実とか、真実とか云う意味合いに近いんですが、それ以前にそもそも「フィクションが何を指すのか」が曖昧なので、ここで使う「ファクト」も曖昧になってしまう。そう云う言葉として使いました。

Schwaetzerさんがどのような問題認識をしているのか、それに対してどんなことが云いたいのか、はなんとなく分かるんです。でも、この曖昧さが論理を濁らせてしまって、結果結論として提示されたものはどうにも首肯できないものになってしまっている、と云うのがぼくの感想です。なんと云うか、もったいない。

宗教も科学もフィクションとしての側面、機能を持っています。ただ、それはひとが特定の目的のためにちょっと考えれば提供できるような安易なものではないし、トドさんのおっしゃる通り自然な感覚で人間が簡単に理解することを拒むような「冷たさ」も持ったものです。それはその機能において必要なもので、本質的な部分です。となると、それを「フィクション」としてくくってしまった時点で、Schwaetzerさんのロジックは本質的な要素を見落としたものになってしまうんですね。

で、このことは単に「言葉をうっかり使ってしまった」だけの問題に見えますが、そうではなくて。「フィクション」と云う用語を採用することによって議論を理解しやすく進めようとしたのに逆にその言葉に論理が振り回されてしまう、と云うのは、ぼくがここで何度か触れている「紋切型思考」の問題に関わるもので。このエントリあたりですね。

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-06-13

で、ぼくはこれはニセ科学問題の一面の本質にも関わってくるものだと思います。

ちなみに、Schwaetzerさんのおっしゃる「フィクション」に意味的に近いものに、ぼくはここのブログの文脈上では「ものがたり」と云う言葉を充てていることが多いです。それは確かに、ひとが必要とするものだと思います。
by pooh (2008-02-09 06:41) 

pooh

> 黒猫亭さん

なんかですね、そう云うわけで、このようなかたちで提示された文脈に乗ると、どんどん議論はばらばらになっていくわけです。ここでぼくは「恐るべし紋切型」と感じたりするわけなんですが。
by pooh (2008-02-09 06:43) 

pooh

> かも ひろやすさん

おっしゃるようなことは、こちらのエントリのコメント欄でぼくがきくちさんにちょっと叱られて(^^;いるようなことと関連してくるんだと思います。

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2008-02-05

実はですね。この方のような立ち位置から「フィクション」を語る場合には、その背後にあってなかなか意識されない「ファクト」への目配りが必須なのではないか、と云うのがひとつあると思っています。
by pooh (2008-02-09 06:48) 

pooh

> トドさん

追加です。

> 芸能人であるからと言って「良質なフィクションを他者に与える職業的立場にある」というのは、求め過ぎな気がしますが・・

彼女は歌手です。あまつさえ「アーティスト」とまで呼ばれたりします。なので、彼女には「表現者」に求められるものは求められてしかるべきです。
でなければ、彼女は「表現者をまねる芸能人」と云うことになります。それこそ彼女がアーティストであることがフィクションだ、と云うことになってしまいます。このことは多分彼女の側から見ると、なにがあっても認めてはいけない種類の認識であるはずです。
だとすれば、彼女を擁護するにしても、その角度からは絶対に行ってはいけないんです。それは「ニセアーティストなんだから勘弁してやってくれ」と云っているのと同じことです。

実際のところ黒猫亭さんやぼくはそれに近い認識を持っているんですが、それは個人の感覚に基づくものでもあるので議論を歪めてしまうし、なによりも本人やその支持者に対してあまりにも惨いことだったりするので、あえてその認識から議論を出発させていない部分もあります。彼女を擁護するひとたちも、もう少しその部分にまで考えを回してくれれば、みたいに思う部分もあったり、です。
by pooh (2008-02-09 07:06) 

黒猫亭

>トドさん

今回は完全にpoohさんにお膳立てを整えて戴いている感じで恐縮なんですが(笑)、要するに「人は皆フィクションを求めている」という粗雑な言い方は、読み手に何かが伝わったように感じさせながら、その実語義が曖昧なので読み手相互の間の議論が噛み合わないという、そういう側面を持っているわけですね。

>>芸能人であるからと言って「良質なフィクションを他者に与える職業的立場にある」というのは、求め過ぎな気がしますが・・

この場合なら、トドさんが「それは求めすぎではないか」と仰るのは「過剰な要求ではないか」という意味ですから、「程度」の問題となるわけなんですが、そこで謂われている「フィクション」という言葉が何を指しているのかが特定されない限り議論は噛み合わないわけです。しかし、本文で紹介されているエントリーにおける「フィクション」という用語の使い方を視ると、

>>もうなんでもフィクションになる。スピリチュアル・水伝・ピュア信仰・占い・験かつぎ・小説・漫画アニメ・音楽・諸芸術・恋愛・日本を誇りに思おうナショナリズム・エトセトラエトセトラ・・・。もちろん、昔ながらのキリスト教の神様や仏様も。ひょっとしたら科学的認識論だってフィクションの一つかもしれない(フィクションだと断定してかまわんのかもしれないけれど)

ということですから、なんでもいいんですよ(笑)。「個人の生にとって有用」という基準に基づいて、既存概念一般を「フィクション」という言葉で雑駁に括っているわけですから、「個人の主観」というモノサシに基づいて概念一般を等価として扱うという物凄い暴論なわけで、poohさんの謂うように「極端な相対主義」なんですよ。個人の生における既製概念の有用性というのは、完全に主観で判断すべき事柄ですから。

ただ、一応オレは過去にpoohさんと「ものがたり」を巡るお話をさせて戴いたことがありますから、「倖田來未自身が〜職業的立場」と謂う場合には「ものがたり」としての意味合いを踏まえています。

たとえば、オレは一つ前のエントリーへのコメントで、倖田來未というアーティストは芸能ビジネスにおける企業の都合で生み出されたトップスターだという割合ボロカスな価値評価を下していますが、それでも芸能人であることはたしかなわけで、「エロかわのカリスマ」とか「女の子たちのファッションリーダー」「恋愛教の教祖様」的な売りで活躍していたわけです。

勿論表現者として括るなら、それこそ「ものがたり」に相当する良質な「フィクション」とやらを提供する立場なのだろうし、ただの芸能人という括りをしても、「芸能人という夢」というのも一種「ものがたり」として機能している部分はあるはずです。

それこそエロかわのカリスマだろうがファッションリーダーだろうが、倖田流恋愛術・自分磨き術だろうが、彼女自身のサクセスストーリーだろうが、トップシンガーとしての煌びやかな活動だって「フィクション」だと謂えばそういうことになる。この辺なんでもアリですから、そもそも何を言ったことにもならない雑駁さがあるわけです。

ただ、poohさんの所謂「表現者」ほど腹を括って既製の社会価値や文化と真剣勝負で向き合っていないのであれば、せめて「芸能人」という職業的立場は他者を不当に痍附けたり社会的規範に反するものであってはいけないわけです。倖田來未的価値観というのは、要するに娯楽としての健全性や社会性を踏み外さない範疇でしか存在の余地はない「芸能人の提供するフィクション」の一種ということになります。

そういう意味で、水伝を強力にプッシュしたり、羊水発言で他人を不快にしたり誤った科学的知識を強弁したりするというネガティブな側面は、彼女の芸能人性に照らして謂えば到底「良質なフィクション」とは謂えないんじゃないの?という話です。求めすぎでも何でもない、これでもかなりディスカウントしているつもりですよ。
by 黒猫亭 (2008-02-09 10:07) 

pooh

> 黒猫亭さん

この辺り、謝罪と云う対策を選んだのは果たしてマーケティング的に正解だったのか、と云う議論にもなってしまいますね。もう全然次元の違う話ですけど(で、議論をそちら方面に発展させるのも、なんかここじゃ場所的にどうか、って感じでもありますけど)。
by pooh (2008-02-09 11:27) 

corvo

poohさん

>corvoさんのフィクションの質を支えているのは、ファクトに対する深い敬意と理解だと思います。多分フィクションとは、そしてファクトとはそのようなものだと思います。

ものすごく褒めてもらって、とてもこそばゆい感じです。ありがとうございます。
僕の仕事はとても「フィクション」と「ファクト」のあり方が明解です。化石という「ファクト」から出発して、復元画という「フィクション」へと帰結します。どんなに真実を求めようとしても、絶対に確認することのできない世界を、現実味のあるように再現しなくてはいけません。実はとてもストレスの大きい作業です。
絵を描くという行為は、物質的な側面に立って言えば、「ファクト」の積み重ねです。そこに「フィクション」は存在しません。

>>芸能人であるからと言って「良質なフィクションを他者に与える職業的立場にある」というのは、求め過ぎな気がしますが・・

これは見る側がそれだけ求めていないということになります。これを言ってしまうと、表現する側はなめてかかるでしょう。昨今のテレビ業界を見ていると、おそらく視聴者を軽く見ていると感じることが多々あります。良質の表現を受け取りたかったら、もっと表現者に対して厳しくあって良いと思います。応援するのと、甘やかすのは、まったく別のことです。このあたりのことが、線引き出来ていない「ファン」と呼ばれる人たちが多いのだと思います。
by corvo (2008-02-10 01:43) 

かも ひろやす

ファクトとフィクションの関係って、要するに、もう何百年も延々やってる実在論 対 唯名論でしょ。消されちゃったみたいだけど、引用文の人のフィクション至上主義な態度は、素朴唯名論でしょ。それって、実在論 対 唯名論の議論では、現実的でないとして真っ先に否定されるもののひとつではないですか。そんなしょうもないもんを、めんどくさいことが歴史的に実証されてしまっている問題を考える出発点にするなんて、筋が悪すぎます。
by かも ひろやす (2008-02-10 04:23) 

pooh

> かも ひろやすさん

こう云うことについて考えるのが単なる車輪の再発明なのか、それとも現代的な問題意識の置き方なのか、ちょっと判別はつかないですけど。

しかし、あぁ、消されてしまったのですね。
ネガティヴな言及をしたつもりはなかったんですけどねぇ。
by pooh (2008-02-10 06:01) 

かも ひろやす

消しちゃったのは、はてなブックマークで大不評だったのも理由ではないでしょうか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Schwaetzer/20080208

結果論として、都合の悪いことを湮滅して逃げる卑怯者だと、すでに読んでしまった人に思われるデメリットと、新たに読む人をほぼなくすことができるメリットとを天秤にかけて、この人は後者を重視したということになります。それが本人の選択なら、それでいいんじゃないですか。私らとしては、そういう選択をする人だと記憶するだけで。
by かも ひろやす (2008-02-10 14:34) 

dlit

こんにちは。
消えちゃったんですね…あのエントリ。

僕もブクマコメントを書いたのですが、むしろあの内容と照らし合わせて考えると、僕のがきつい方に分類されるぐらい総じて冷静なコメントが多かったかな、と感じていたのですけれどね(むしろそれがきついかもしれませんが)。まあこんな考えだから「だからはてなは…」なんて言われちゃうんですかね(^^;
まあ本当のところ何が理由かは本人しかわからないとは思いますけれど。
by dlit (2008-02-10 19:53) 

pooh

> かも ひろやすさん

こう云うときに気分的に辛いのは、彼が彼自身を裏切っている、と云う気持ちになっているかも知れない、と感じることです。
ぼくはいつも不躾に議論を持ちかけるので(それは相手の靭さをある程度期待するからですが)、こう云う反応が来ると複雑だったりします。
by pooh (2008-02-10 22:10) 

pooh

> dlitさん

はてなにはカルチュアとして放言を許さない、いつでも議論上等で準備万全でいなければいけない的な清潔さがある気がするので、そこを期待してしまう部分もあるんですけどね。

余談ですがここもはてなに引っ越せばアクセスは相当増えるんじゃないか、と考えることはけっこうあったり。それはそれで(仕事上必要な)目的も果たせないし、プレッシャーも増えるだろうな、とも思うんですけどね。
by pooh (2008-02-10 22:14) 

かも ひろやす

poohさんの心配は杞憂でしょう。消したエントリの翌日付けのエントリから、懲りていないことが読みとれますから。

こういうときに黙って消すことは、「私は卑怯者です」と公言することに等しく、それは、個人の表現の自由ですから尊重しましょう。著者は自分が卑怯者であることを主張した。読者はそれを納得し記憶した。どこにも利害の衝突はありませんね。
by かも ひろやす (2008-02-11 19:34) 

pooh

> かも ひろやすさん

いやまぁ、いきなり馬上試合を挑んだ身としては、なかなかそうも云いづらいですけどね。

言及相手の論者としての強靭さを推し量るのは、いつだって結構難しかったりします。
by pooh (2008-02-11 23:30) 

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