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穴だけ埋めても仕方がない [よしなしごと]

福耳さんの穴埋メダケガ学習カと云うエントリを読んで、ちょっと横道的に考えた。

ゲーム機のメーカーは実は知識を問うクイズでないものを、暗記のトレーニングでしかないものを(だってこの形式なら記憶の内容は乱数表覚えるのと変わらんもの)、クイズと錯覚させて売り上げを伸ばしているわけでね。

ある一定水準においてはそもそもクイズってそういうもんじゃないかな、と云うのは本題と関係ないので置いておいて。

カッコの中に入るのが(ブレトン・ウッズ体制)とか(短期資本移動規制)であったとしても、カッコ穴埋めをさせて測れる学生の学習成果というのは、前後の語彙から判断して過去に暗記した模範的例文を想起しそこからカッコ内を補完する用語を想起して書き込める能力を持ち合わせている場合と、学説を論理的に理解して咀嚼して自分なりに考えて解答を推測して書き込んだ場合を、論理的に識別する術は、穴埋めをさせているだけでは存在しないのではないだろうか。

学習効果と云うか、これはそもそも能力の種類の違いなんじゃないだろうか。前者は文脈を読みこなす力だけあればおっけーなので、そもそもなにも学んでなくても、なにも考えなくても評価を得ることは可能だったりする。例えば論客として議論に参加するときにこの能力があれば議論の効率を上げることができるけれど、この「能力」だけしかない場合「一見議論に参加しているようで実はノイズを生産しているだけ」と云う、議論そのものに何の貢献もしないなんと云うか非常に邪魔な存在にしかならない(ちなみに「ニセ科学批判」批判者にはこの種の「議論ごっこ」を半ば確信犯的に行っているとしか思えない手合いが目立つのはご存知のとおり)。使えない能力ではないけれど、単体ではほとんど意味がなくて、その場になんらかの貢献をするためには後者の能力が必要になる。

で、ここからは本来の福耳さんのエントリから敷衍した話になるのだけれど。

あるひとつの知識の体系を考えたときに、全体として蓄積の分厚い部分と薄い部分、穴が開いている部分があって。学問の知識でも、ビジネスの知識でも。で、新しく出てくる概念はだいたい薄い部分を強化するか、穴を埋めるパーツになる。
価値のあるパーツはもとの体系に全体として変容をもたらして、体系を強化してより有効なものにしたり、場合によっては体系そのものをひっくり返してまるきり別のものにしてしまったり、と云うことがある。これがまぁ、新しい知見、と呼べるものなんだと思う。

ところが、新しい知見は必ずしも単体では役に立たなかったりもして。それまでの知見をひっくり返すような大胆かつパワフルなパーツでも、「ひっくり返ったもとの体系」がないと意味をなさない。

でもこのパーツがパワフルだったり、キャッチーだったり、わかりやすかったりすると、受け止める側には「そのパーツ」しか見えなかったりする。新しいバズワードとか、新しい概念とか。
それだけを取り沙汰してああだのこうだの議論したり、「これからはほげほげ2.0だよ」なんて云ってみたり。一見わかりやすい議論にはなるけど、もとの体系を踏まえてないから実は知的にはほとんど意味がなくて、なんとなく新しいことを云っている気になって気分がいいだけ、みたいなお話が、世間にどれだけあるか。えらそうにふんぞり返ってもの申しているお歴々のうちどれだけが、その程度の水準で満足しているか。

よく見られる最悪のパターンが、新しいパーツが意味不明の単なるキャッチフレーズだったりする場合。ロ○スだの、ヒ○リングだの。聞いているこちら側にとって意味不明なのはこちらの勉強不足かもしれないけれど、口にするご立派なみなさまがそもそもどれだけわかってるのか。スイーツ(笑)

よくわからない。そう云う知性のたたずまい、と云うのも存在するのかもしれない。
でもそう云うのって、とりあえずぼくの定義できる「知性」とはほぼ対立概念のように感じられる。

評価の質そのものが「評価のしやすい指標」に引きずられることって、まま生じていると思う。「わかりやすさ」が、価値の基準を決めるような。すごくわかりやすい例が、例えばお金で。

ぼくは以前、足し算のできないひと、と云うのに会ったことがある。このひとは例えば50+50の計算ができなかった。でも、50円玉が2枚あれば、それが「100円だ」と云うことはわかったりした。なんだかすごく不思議な気分になった。たぶんこのひとにとって抽象的な「100」と云う数字は意味がないけれど、「100円」と云う金額は意味のあるものだったので、関心の度合いが違ったのだろう。
でも。このひとを笑ったり、気の毒に思ったりするまえに、ぼくたちはもっと他のレベルで、まるで同じような歪みを抱え込んでいないだろうか。

なんか妙な結論になったけど、亀@渋研XさんのところのPISAが測っているのは「学力」「応用力」ではないと云うエントリで語られていることともつながってくるような気がするので、とりあえずトラックバックだけ。


タグ:教育
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コメント 6

トド

え~と、お話しが難しくて、酔っ払っている私にはよく解らないのでけれど・・・二つだけ・・

一つ目・・
「評価」に関して・・人は誰かの評価を得ようとするものかも知れないけれど、何のために評価が必要なのか、どんな評価が欲しいのか、ということが有りますよね。果たして「評価」は自分にとって必要なのか・・

二つ目・・
昔、自分は通ってなかったけど、算盤宿というのが近所にあって・・「願いましては・・6634円なり、89624円なり・・・・」って・・・なんでお金で計算しなきゃならないのか、って不思議だったです。実は今でも違和感有るんですけど・・

すみません。
by トド (2007-12-09 00:48) 

pooh

> トドさん

あまりちゃんとしたお答えは準備できないのですが。

> 果たして「評価」は自分にとって必要なのか・・

これは、「ひとの向上心(のようなもの)はどう動機付けられるのか」と云うようなお話のように思えます。ここでのお話は「その計測基準の設定が実効性そのものに影響しているのではないか」と云うようなものですけど。

そろばんについては、なぜでしょうねぇ。
by pooh (2007-12-09 05:39) 

亀@渋研X

本題じゃなくて、そろばんの話に反応。
「商いのお稽古としての『そろばん勘定』の名残だろうなあ」と思いつつ、なんの根拠もないのでググってみました。

トモエそろばんというメーカーの「そろばん質問箱」(FAQ)にありました。

http://www.soroban.com/faq/fag5.htm#24
[ 質問24] 読み上げ算のときに、数字の最後に「~円なり」とつけるのは、なぜですか? 

説明が「算盤の伝来」で始まるのにたまげました(@@
by 亀@渋研X (2007-12-10 16:22) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

よく考えると無駄に遠大な説明のような。

でもいつから「円」なんでしょうねぇ。室町時代や江戸時代はどんな単位を使ってたんだろう(まぁ「銭」だと語呂的にも問題ないだろうけど、「分」とか「朱」とかじゃ云いづらいし、「両」では桁が大きすぎるしなぁ)。
by pooh (2007-12-10 22:10) 

ちがやまる

こんにちは。そろばんの話が面白そうでしたので、私もあちこちのぞきまくってしまいました。
「今米12万2千456石7斗8升9合へ98万7千654石3斗2升1合を加えて何程と問う」
「今銀3貫60匁を375に割何程と問う」(『算盤指南』)
「今銀6匁2分5厘を16合せて何程と問
答百目」(『算盤通書』)
「或(あるい)は~に割れば こたえて~なり」(『十露盤早知伝』)

という感じで、大体「塵劫記」系のパターンは決まっているようでした。実際に寺子屋なんかでどうやっていたかまでは伺えませんでしたが。
出所は
https://library.u-gakugei.ac.jp/etopia/orai_list.html
by ちがやまる (2007-12-11 11:54) 

pooh

> ちがやまるさん

あ、これは面白い。
米は通貨でもあったわけですし、銀の重さはそのまま通貨単位だったわけですから、亀@渋研Xさんがお書きのような意味合いで一貫しているわけですね。
(しかし算盤のあの読み上げかたで「もんめ」って発音が入ると語呂が悪くなりそうだなぁ)
by pooh (2007-12-11 22:01) 

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