SSブログ

伝える目的 [世間]

札幌の心療内科である札幌明和病院のブログに掲載された「水(Water)の結晶」から学ぶと云うエントリを読んだ。

なんと云うか、「心療内科のブログ」と云うところに、とても微妙なものを感じるのだけれど。このブログ、誰に向けて、どんな目的で書かれているものなんだろうか。

先程、「雪の結晶」について触れましたが、「水(Water)」にも「結晶」があるそうです。

そりゃある。ふつう水の結晶と云えば、水とか氷とか雪とか霜とかだ。だから、

水を凍らせて結晶の写真を撮影したものですが、「水の結晶」は氷が溶け始めるほんの数十秒間しか出来ないそうです。それを逃すとすぐに消えてしまう、という幻のような世界です。

なんてことはない。溶け始める前から結晶だし、溶けたら水だ。いや、もちろんここで使われている「結晶」と云う言葉はなにか別のものを指しているのかもしれないけれど、そうなるとこれは科学の言葉ではなく、文芸の言葉だ、と云うことになる。

「愛・感謝・有難う・可愛いね」という言葉掛けをした「水の結晶」には、とても美しい結晶が見られるそうです。一方「馬鹿野郎・ムカツク・無視」などの言葉掛けには結晶を結ばないそうです。そう言った意味では【水は心の鏡】と言えるのではないでしょうか。

いちおう病院と云う「科学」の側に立っているはずの組織の公式ブログに載っている言葉とは思えないのだけれど。

 私たち人間は、様々な感情を持ちながら生きています。美しい「水の結晶」がたくさん身体に蓄えられて、そして滞らずに流れますように…‥。

だから結晶すれば滞るでしょ? ってえか凍死するでしょ?
比喩的な意味で「水の結晶」って言葉を使ってるんだったら、それって実験なんかで確かめられるものであるはずないでしょうに。それともこの病院のスタッフの方々は、そう云う「医学」を学んでこられたのだろうか。心身医学ってのはニセ科学ならぬニセ医学なのか? そんなはずはないと思うのだけれど。

「水の結晶」と同じように「一瞬一瞬を精一杯生きること」そして私達も「自然の中で・人の中で生かされていること」を感じ大切にしていくと、きっと滞らず「きれいな結晶」になるのではないでしょうか。

だから水は生きてないってば。水が人間と同じように生きているとか考えているお医者さんに診てもらうのはいやだなぁ。あとおいらは結晶になんかなりたくないぞ。ここの病院は患者さんを結晶にしたいのか?

野暮なことを指摘しているなぁ、と感じられるかもしれないけれど。でも、こんなふうにお医者さんが「水からの伝言」から学んじゃやばいでしょう。こう云うことを病院の公的なブログで書いちゃうのは、控えめに云って相当まずいと思う。
インターネットと云う場所で、病院の公式な見解として、いったいどんなことを伝えたいんだろう?


nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 6

newKamer

 添削。
> 「水の結晶」は氷が溶け始めるほんの数十秒間しか出来ないそうです。

 ×「水の結晶」
 ○江本氏らの方法を用いた場合、「気相成長」

> そう言った意味では【水は心の鏡】と言えるのではないでしょうか。

 これは、江本氏が「日本には水は心の鏡という言葉があります」と言っていて、「それは、あんたが作っただけじゃないの?」と突っ込まれていたやつですね。
by newKamer (2007-12-06 09:34) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。少し説明しますね。

中国の思想には心を水に例えたものが数多くあります。元々の出典は荘子と言われている「明鏡止水」だと考えられます。この言葉の意味は、「波風の無い水面が鏡の様に風景を正しく映し出す様に、心を平静に保つなら、世の中の物事がゆがむことなく正しく把握出来る」という意味です。

そういう視点で水伝問題を見てみると、江本氏は言葉や音楽に対する自らの好悪の情により波立つ心で、「気相成長」した結晶を見たために、本来、なんら違いはない結晶の中から、「良いと思う言葉や好む音楽」の時は「美しく見える結晶」を選び出し、「悪いと思う言葉や嫌いな音楽」の時は「崩れて見える結晶」を選びだした訳です。すなわち、明鏡止水とは遠く離れた心の持ちようであったわけです。

ご紹介のあったブログの著者にしても「善悪・好悪」の情に波立ち騒ぐ心を持って水伝を知ったことにより、水伝の話が個人の好悪を人に押し付ける強力なツールとなる「酷い話」であることに思いがいたらずに、「良い話」であるかのごとくにブログで紹介してしまうわけで、やはり明鏡止水とは遠く離れた心の持ちようと言うことができるわけです。
by 技術開発者 (2007-12-06 10:38) 

pooh

> newKamerさん

すいません。
なんか昔、古舘伊知郎がプロレス中継をやってた頃を思い出しました。

古舘伊知郎「さあ、黒髪のロベスピエールと呼ばれておりますこの前田日明」
TVの前のぼく「だれも呼んでねえよ」
古舘伊知郎「さあ登場しましたアンドレ・ザ・ジャイアント、ひとり民族大移動と呼ばれております」
TVの前のぼく「あんたが呼んでるだけだろうが」

いや、好きだったんですけどね。
by pooh (2007-12-06 22:25) 

pooh

> 技術開発者さん

何と云うかですねぇ。
そう云う意味ではぼくはこれが「心療内科病院の公式ブログに書かれたエントリ」であることにひどくひっかかっています。いやまぁ、テクニカルにはそう云う手法を使わざるを得ない場合もあるんでしょうが。
by pooh (2007-12-06 22:26) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>そう云う意味ではぼくはこれが「心療内科病院の公式ブログに書かれたエントリ」であることにひどくひっかかっています。

 たしか聖書に「悪魔は天使の姿を借りて天使の声で誘惑を行う事もある」なんて言葉があったと思います。天使の導きを求める心がなければ、悪魔が天使の姿を偽ろうとたいして効果が無いわけです。逆に天使の導きを求める心が強いほど、その偽りの姿や声に心惹かれて誘惑されやすくなってしまいますね。

 人の相談などに乗り、真面目に「考え方・生き方」について良いアドバイスができないかと悩む者ほど、「良くできた作り話」に惹かれてしまうのでは無いでしょうか?そういう意味では「水伝」を道徳の時間に教える教師もまた「真面目に教え方に悩んでいた」ということは感じています。だからこそ、水伝という偽りが最終的には「人の中で生かされている」ということをなし崩しに壊してしまう悪魔の囁きであることに思いがいたらず飛びついてしまうのだろうと思います。
by 技術開発者 (2007-12-07 08:18) 

pooh

> 技術開発者さん

まさにそう云うお話だと感じます。

でも、このことは難しいし、辛い。
by pooh (2007-12-07 23:05) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。