サーチ・リテラシー [世間]
森口朗さんの学校が「波動ビジネス」に加担する罪深さについてと云うエントリを読んだ。
ぼくはこの方の著書は読んだことがない。でも、問題の源泉のひとつであるところの「教育の現場で『水からの伝言』のようなニセ科学が取り上げられる問題」と云うことについて、教育を論じる立場の側から論じていらっしゃる。
致命的なのは、「水からの伝言」を授業で教えていた先生達が善意からやっていた点です(そう、彼らには『知性』こそが最も欠けているのです。そして、それはTOSSだけの問題ではありません)。
そう、この「善意」と云うのが、どんな場合にも大きな問題になるのであって。
ところで、こちらのエントリの前半部分で、「メディア・リテラシー」についてお書きになっている。
「あなたが健康でない真実の理由は『波動』にあった…」とか、なんとか書くはずです。
そこで、「波動」「健康」で検索します。
はい、出ました。 なんと172万件!
3270件と172万件。これが波動ビジネスを取り巻く現実(インテリとバカの比率?)です。
むかし、「ある言葉がどれだけポピュラーか」と云うことを調べるときに、こうやってサーチエンジンの検索数を調べる、と云うことはよくやっていたなぁ、と思う。いつの間にかあまりやらなくなったのは、サーチエンジンのインデックス数が例えば5年前に比べると激増しているので、「どんな言葉で検索してもそれなりに大量の検索結果を持って来てしまう」ことから来ているのではないか(引用部分にある例でも、正直云って3270件と云う数字は「少ない数字」には見えないし)。
そのむかしの(AltaVistaが最強だった時代の)サーチエンジンに比べると、いまはGoogleでもYahoo!でも相当精度の高い検索結果を相当数返してくる。なので、最近はサーチエンジンを使ううえで重要なのは、「自分の欲しい検索結果を出すために、どんなキーワードを使うか」だったりする。どんな言葉を思いつくか、どう組み合わせるか。おいらみたいに仕事でもその辺り日常的に要求される状況にあると、この辺りで効率が大きく変わって来たりするので、そう云う「サーチ・リテラシー」みたいな能力もいまネットを使うにあたっては個々人のネット活用水準に影響してくるのかなぁ、と思ったりする。
ところで。
あるテーマについていまネット上でどんな言説がなされているのか、のトレンドをみるためには、通常のサーチエンジンよりもブログ検索を利用する方が効率がいいと思う。基本的に検索結果が時系列で出てくるので「最近の傾向」が見られるし、情報の質の選別が行われないのでなんでもかんでもひっぱってくる(語られ方、の実情が分かる)ので。
で、ここではYahoo!のブログ検索を使ってみる(単純にTechnoratiより動作が軽い、と云うだけの理由)。
例えば、「波動 実現」の検索結果。けっこうどっさり来る。
「愛と感謝 幸運」だとどうだ。これもけっこう多いぞ。
「水の結晶 ビジネス」なんてのも試してみる。・・・わはははは。
とりあえずこれだけで、「波動だのお水さまだのって発想の根底には、手軽な現世利益を欲しがる心理が横たわっている」と云うことは(検索結果の画面だけを材料に)なんとなく見えて来たりするのだった。
と云うか(想定してしかるべきだったけど)11/3 8:03現在では、エントリ内で上げたキーワードセットによる検索結果のトップはこのエントリになっている。昨今のウェブはダイナミックであることだなぁ。
by pooh (2007-11-03 08:04)
こんにちは、pooh さん。
石川英輔だったか、江戸時代の教育に触れて、字を教えるために実語経の「「山高故不貴、以有樹為貴」から教えている事などから、「読み書きそろばん」という実学と、人生訓が同時に教えられていた事などを挙げているのを思い出しました。
人生訓みたいなことを教えると、ともするとその部分で為政者に都合の良い偏向をされやすく成る面はあるのですが、社会観というものを無視して、実学のみを教えると「社会の成り立ち観」すらない人間ができてしまう面があります。或る意味、現在、教育に携わっている教育者すら、「社会の成り立ち観」があるかというと、私に言わせると「無い」様に見えるわけですね。
ここでいう「社会の成り立ち観」というのは単純な話で、我々は社会の受益者(消費者)であると同時に社会の構成者(生産者)でもあるということに過ぎないわけです。生産者として手抜きをするなら、消費者として不利益を受けるだけのことなので、生産者として手抜きをしないという規範が生まれるだけのことであるわけです。そのあたりが忘れられ、規範のみが一人歩きして、手抜きはそのまま放置されているのが現代社会のようにも見えます。
by 技術開発者 (2007-11-05 08:18)
> 技術開発者さん
うぅむ。これって結構、議論の隠れた焦点だった気がします。
学問、ってのはある抽象化の作業で。世間知から、原則を導き出すような。もちろん理学と実学では違ってて、それぞれの役割はあるんですけど。
でもそこから、ある原則みたいなものを希求する志向みたいなものがあるのは確かなんですよね。それは結局その方がすっきりするとか、なんかそんな感覚的なものから生まれてくるのかもしれないんですけど。
そのことが人間を現実の本質にも近づけ、また遊離させもする、と云う気がします。これってどこが岐路なのかなぁ。
by pooh (2007-11-05 22:37)
こんにちは、 poohさん。少し大きな話をしますね。
>うぅむ。これって結構、議論の隠れた焦点だった気がします。
社会にある様々な規範の元には「社会の秩序の維持と永続性」という基本があります。そして、その社会の秩序とかをさらに掘り下げると「人は群れの中で生きたいと思う」という「群れの本能」とか「人は生きたいと思う」という生存本能などの「人間の基本仕様」に行き当たる訳です。
学問という事を掘り下げていっても、実利的に「役に立つ」を取り去っていくと「人は知りたいと思う生き物」という「知識欲」などの「人間の基本仕様」にあたるわけです。
そして、この「人間の基本仕様」には、もともと合理的説明などないのでは無いかと思います。その様にできあがってしまっているから、その様なのであって、その様にできあがった目的を問うと「存在理由」という「不可知」「不能知」の世界に入り込む訳です。
もともと人間はこの「自らの仕様がこのようであること」に対する問いかけを繰り返す中で宗教を生んできたように見えるわけです。ある宗教は人が欲を持つことに対する苦しみを「諦める」ことで軽減して、生きることの充足を勧めましたし、別な宗教は「創造主が人間をそう作られたのだ」と仕様も含めた存在理由を肯定する形をとっていた様に見えます。
私には、このもともと「不可知」「不能知」の部分に対処していた宗教の衰退と、現代社会の混乱が無関係とは思えないのですよ。
by 技術開発者 (2007-11-07 08:11)
> 技術開発者さん
どうしようもなく存在する根源的な不合理に対峙するにあたって、それを知りうることのフロンティアを広げることで立ち向かうアプローチと、それを(なんと云うか)受け入れて寄り添うアプローチがある、と云うようなことでしょうか。
これを「逆のアプローチ」と捉えると対立概念のように感じますが、要するに(並立しうる)「別のアプローチ」だ、と云うことなのかも。
by pooh (2007-11-07 23:34)