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そもそもの問題定義 [世間]

論点をシンプルに整理して、それをシンプルに展開して、明瞭に相手に伝えることのできる書き手は羨ましいなぁ、みたいな話を別のエントリのコメント欄で書いていたんだけど、NOVTANさんのどうにもニセ科学批判批判みたいなのには納得できませんがと云うエントリを読んで、同じような感想を持った。

そんなに科学って言いたいんであれば、科学であれば良いのに。

ニセ科学批判を批判する人って、今の科学が絶対ではないみたいな言い方をすることが多いですよね。すごい矛盾なんだけど、今の科学でわからないことは科学ではないわけですから。

どうもここではニセ科学の社会的側面や倫理的側面について言及することが多いけれど、それ以前に問題の根源は「そもそも間違っている」ことにあるわけで。間違っている、と云うのはひととしてどうかとか詐欺がどうのとか云う水準のことを云ってるんじゃなくて、「そもそも林檎の皮を剥くのに斧とかチェーンソーとか使わないでしょ? そりゃ刃物には違いないし、斧やチェーンソーの技術がフルーツナイフの性能向上にフィードバックされることもあるかもしれないけど」とか云うレベルの話。
まぁこのことは以前に琴子さんがもっと適切なアナロジーでお書きになっていたような。

間違っていると思われていることを「いや、これが正しいんだ」と主張するんだったら、なぜ正しいのか理解させる説明をする責任があって。「間違ってるなんて云うなんて頭が固い」とか「フルーツナイフ万能主義だ」とか「チェーンソーでけがするのもそのひとの自由だ。けがしてもいいからチェーンソーの可能性を信じてみたい。にんげんだもの」とか反論するのはそもそもすでにはぐらかしで。

前にも書いたけど、仮説そのものじゃなくて、そういう思考方法を科学と言ってしまうことが批判されている、ってことにどうしても気付けないかわいそうなニセ科学論者がいっぱい居るわけです。

これ、ニセ科学に基づくなんらかの言説を主唱している側の人間からすると、けっこう自覚的に「気付いたら負け」的な部分があるんじゃないか、と思ったり。だから、問題はむしろそれに賛同するひとたちに生じているのかなぁ、みたいな。
あぁ、全文引用してしまいそうになる。いいなぁ明解な文章が書けるひとって。

つまり、ニセ科学であり続けることは、アイディアにとっても不幸だし、非生産的なものなのですよね。方法論を革めれば無限の可能性を秘めているものもあるというのにね。

「ニセ科学」と云う批判に対して、じゃあそちらの云う科学の土俵で正々堂々と闘ってみようじゃないの、と云う姿勢を示すひとがまるきり見受けられないって事実が、とりあえずすべてを説明していると思ったりします。


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コメント 12

apj

とりあえず、向こうにまた1匹ゴキブリが出てたのでメッセージを残してきました。
本筋に関係ない連絡ですみません^^;)。
by apj (2007-10-27 12:46) 

tank

フルーツナイフとチェーンソーの比喩ににやけてしまった。
by tank (2007-10-27 16:23) 

TAKA

こんばんは。チェーンソーの話に反応しました。
キックバックは怖いですね。
皮膚を掻きむしるので、傷の直りが遅いです。
作業中、山の中で負傷すると周りの人に気を使わせてしまうので、
「自由に怪我する」わけにはいかないです。

さすがにチェーンソーではありませんが、ナタを使って皮むきしたことはあります。(慣れると簡単です。)
by TAKA (2007-10-27 23:22) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。子供の頃から「木こり鎌」といわれるナタの一種で工作をしていたので、切り出しナイフなどでは竹とんぼがうまく作れない技術開発者です(笑)。

ニセ科学の信奉者が、ニセ科学批判に対してニセ科学批判批判に走るのはありえることだし、まあ、あまり気にする気もないのです。もっと気になっているのは、ニセ科学そのものは「怪しい話だよね」と思っている人までニセ科学批判批判に触れたときに「これも一理あるな」なんて思われてしまうことが問題と思うわけです。

この話をなんとか説明しようとしてこさえたのが「不当起訴の裁判傍聴人」というたとえ話なんですね。きちんとした証拠でもないのに検事がそれを証拠に刑事事件を起訴し、弁護人が「それは証拠にならない」と主張して無罪を勝ち取ったときに、傍聴人にはフラストレーションが残るわけです。なぜなら弁護人が「被告は犯人ではない」という証明をしたわけではなくて、「検事の挙げた証拠は証拠にならない」と証明しただけだからです。でも、本来なら、そのフラストレーションは「検事よ、もっときちんと証拠を詰めてから起訴しろ」に向かなくてはならないはずなんです。それが「弁護人よ、検事の証拠にいちゃもんつけるだけではなくて、きちんと無実の立証をしろ」に向いてしまう面があるわけですね。

なんていうか、最近、「モラルの多層性」みたいなことを考えています。一つのモラルが成り立つためには、その前提にもっと大事なモラルが成り立っていないとならないことがあって、そのつながりが忘れられると、本来成り立たないモラルが一人歩きするという感覚です。悪徳商法批判の掲示板で「送りつけられたメール」を公開した人がいて、そのメールに送り手の個人情報が書かれていたので「個人情報をこういう掲示板にさらすのは迷惑だ」なんて話が出たりするわけですが、「入手した個人情報の取り扱いは慎重に」なんてモラルの元に「自分の個人情報を良く知らない人に気楽に送りつけたりしない」というモラルがないと「慎重に」もまた成り立たなくなるわけです。そういうモラルの多層性というか階層性というのが途切れた感じをうけるわけですね。
by 技術開発者 (2007-10-28 03:54) 

pooh

> apjさん

NOVTANさんは平気ですよ。
そもそも論客としての力がある方なので。
by pooh (2007-10-28 22:45) 

pooh

> tankさん

これ、多分似たような比喩を琴子さんのところかどこかで見かけたんですよ。
by pooh (2007-10-28 22:46) 

pooh

> TAKAさん

> さすがにチェーンソーではありませんが、ナタを使って皮むきしたことはあります。(慣れると簡単です。)

あぁ、それでは比喩としてあんまり適切ではなかったと云うことになるのか。
by pooh (2007-10-28 22:48) 

pooh

> 技術開発者さん

モラル、と云うものが原則から始まって系統樹状に体系を持つものだとすれば、ルートを考えないで枝葉の主張をするのは字義どおり本末転倒ってことになるんですよね。
by pooh (2007-10-28 22:50) 

技術開発者

こんにちは、 poohさん。

>ルートを考えないで枝葉の主張をするのは字義どおり本末転倒ってことになるんですよね。

 悪徳商法批判なんかしていると、ひたすら、ルートを考えてルーツとなるモラルに言及する事になるわけです。例えば「約束は守らなければならない」なんてモラルの元に「約束は誤解が無いように結ばれなければならない」があるのに、そのことをお留守にしておいて、「契約したんだから守らなくては成らないのだろうか?」となったりとかね。酷いのは、未成年者の社会観の無さにつけ込んだ契約に対して、親が「約束を守ることの大事さを教えるために、支払いをさせた」とかですね。そんなのは、社会のモラルの大事さをないがしろにすることを教えているだけなんですけどね。

 ニセ科学批判批判に関しても、「科学至上主義で切り捨てている」みたいに見える前のルートのところで、「定かで無い事柄を定かである様に喧伝してはならない」という社会の信義誠実モラルのルーツに近い部分でのモラル違反があるわけですね。それに対して「それは定かなことでは無いので、定かであるように喧伝してはならない」という叱責が起こっているだけに見えます。ところが、そういう叱責が起きる元になる「喧伝」というルートをさかのぼりもせず、「信義誠実なものは定かで無い事柄をさだかであるように喧伝しない」というルーツに近いモラルにはなんら配慮が無いまま、「問答無用と切り捨てるのはいかがなものか」みたいな、かなり末端のモラルにしがみついて批判している感じをうけるわけですね。
by 技術開発者 (2007-10-29 08:08) 

pooh

> 技術開発者さん

ちょっと些末な議論になるんですが。
人間の倫理は結果としてひとつの体系を(その体系と云うのにも何種類もあるんでしょうが、それでも全体として)かたちづくっていますけど、少し思うのは、幹から枝葉が生えてるのか、枝葉が幹をつくっているのか、と云うところだったりします。この辺り、どうなんでしょうね。

とは云えもちろん幹が枯れれば枝葉も枯れるので、プライオリティと云うものはおのずと存在するわけですが。幹を蔑ろにしたまま枝葉の議論を持ち出す手合いはなにかそこで勘違いがあるんだろうな、と思います。
by pooh (2007-10-29 23:16) 

技術開発者

こんにちは、 poohさん。

 私は幹があってその上に枝葉があるように思ってます。その幹というのは「相互利害」であって、単純に言うと「自分が嫌なこと困ることは人に対してするな、自分が好ましいこと嬉しいことは人に対してしろ」というだけのことのような気がします。これは、人間のように「知性ある生き物」が「群れ(社会)を維持する」ためには最低限必要なことだろうと思います。
 ただ、それをするために必要なテクニックというのが「立場の置き換え」という想像力なんですね。でもって、様々なシーンで様々な「立場の置き換え」を全てするには人間の想像力は間に合わないので、法令・倫理・道徳・マナーといった「類型規範」が文化として整備されてきたのだろうと思うわけです。類型はあくまで類型ですから相互間には階層性も生じますし、矛盾も生じてしまうわけです。類型規範を使うためにも「立場の置き換え」という想像力が必要なのだろうと思います。

 少し変な話をすると、前に「防衛戦争」みたいな事を書いたのですが、おそらく科学者のニセ科学批判が防衛戦争と思ってもらえない理由は、ニセ科学批判が自然科学という中にとどまらずに社会風潮という自然科学の外に対して意見表明しているためだろうと思うわけです。なんとなく労働組合のことなんかを思い出してしまうわけです。
 前にapjさんとも議論したのですが、労働組合は「労使間の紛争引き受け機関」みたいに思われている面があって、その活動が政治性を帯びると結構組合員から嫌われるのですよね、「そんな大きな話に首を突っ込まずに、組合員の身の回りの問題だけやれ」なんてね。 でも、結局のところ、そうやって労働組合が政治的な活動に背を向けている間に、どんどんと労働法が改悪されたりしていったわけですね。
 自然科学の探求だって、社会の中にあるものだからね。社会風潮が自然科学に対するイメージを暴走させれば、自然科学という「社会の中の小さな一画の平和」もまた守れなくなるわけです。
by 技術開発者 (2007-10-30 03:13) 

pooh

> 技術開発者さん

> 私は幹があってその上に枝葉があるように思ってます。

あぁ、もちろんそうです。現に運用されているものについて云えば。なんと云うか、ちょっとその「なりたち」みたいなものがひっかかっただけで、この点においてなにかしら仮説なり自説なりがあるわけじゃないです。

いずれにせよ想像力と云うか、論を行うにあたってはなにか洞察力のようなものは必要になってくるわけで。ここで「知らない=イノセンス」は成立しない。それでは議論になりませんから。

> 自然科学の探求だって、社会の中にあるものだからね。

そうなんですよね。で、原則としては「社会の中にあるもののなかで、われわれに関係ない事柄はない」んだと思います。
by pooh (2007-10-30 07:47) 

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