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科学的であろうとすること [世間]

osakaecoさんの濱口さんへのカメレスと云うエントリを読んでから、少し時間が経ってしまった。経ってしまったけれど、重要な示唆があるように感じたので言及させてもらう。とは云え完全な横レス(横槍?)なのでトラックバックなし。

要するにぼくたちは世界を知りたい。ぼくたちを囲む社会のことわりを知りたい。ぼくたちが囚われている身体と、ぼくたちを捕らえている心を知りたい。
でも、どんなことが分かれば、それを「知った」ことになるんだろう。

ひどく抽象的な云い方になるけれど、「知ること」は「分かち合うこと」だ、と云う気もしている。
あなたの脳とぼくの脳は、それぞれ独立している。それぞれがそのなかに抱いている知識も違うし、そこで生み出される心の働きも違う。それでも、努力を重ねれば、そのなかのほんの一部に過ぎないにしても「分かりあう」ことができる。
もちろんその、分かりあえた、と云う感覚は単なる錯誤かもしれない。ほとんどの場合はそうだ、とも思える。
分かりあうこと。同じ事柄に、おなじように心が動くこと。同じことを理解するのに、おなじ筋道を辿ることができること。このことはとても大事なことのようにぼくには感じられる。

だから、分かりあえた、と感じたときは、そのことを疑う必要があると思う。その感覚を誠実に疑い、何度も確かめ、そして鍛え上げる必要があると思う。「分かりあうこと」を大事にするために。
そして、学問と云うのは、その積み重ねなのではないか。

本当の現実というのは我々は接っするとが不可能です。社会科学や科学でいう事実というのは、結局は同一の対象についての複数の観察者がいる場面に関ることがらのように思います。複数の観察者がいるときに、同一の対象について違う見解があるときに、ひとびとは観察者から独立した、客観的な事実の存在を思いうかべ、複数の見解から、なんらかの形で客観的事実に近いと思われる見解をつくりだそうとするのだろうと思います。

そして、すべてはそこからたち現れてくるのではないか。社会も、倫理も。

だけども、我々が複数の観察者の異なる見解から、なんらかの見解を事実として受けいれる場合、そのプロセスについて、妥当なプロセスとそうでないプロセスを区別することはできます。そこ区別の根拠自体、評価する側のなんらかの価値観を前提するものではあるでしょうが、要するに我々は科学的方法についての規範をもつことができます。

そして、その科学的方法と云うのは、まさにひとの心から生み出されて来た、ひとが使うためのものだ。それはひとの心を、世界を、理解し尽くすまでにはもちろん至っていない。
それでも、そこに積み上げられて来たのは、ひとが同じことを「分かりあおう」とする努力なのだ、と思う。


タグ:人文科学
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技術開発者

こんにちは、poohさん。お考えを深めるのに役に立つかどうか分からないけど、私が悪徳商法批判者時代に良く書いていた「思想の自由と表現の自由の違い」という話なんかも書いてみますね。

思想の自由というのは、全く無制限な自由であり、人が「何をどう思おうとかまわない」ものです。しかし、「表現の自由」は制限を持ちます。この違いは何によるかというと、「思想は表現しないかぎり他者に影響を及ぼさないが、表現するという行為は基本的に他者に影響を及ぼす事を前提とする行為である」という事によります。

こういう話をどういう場面で行っていたかというと、マルチ商法などを巡って、「自分はこのシステムを素晴らしいと思う」などという書き込みに対して、何らかの問題指摘をした際に、「自分が思うから思うと書いただけだ、思想の自由の侵害だ」みたいな事を言う人に対して、「あなたが思っているだけなら、私や他の人はそれを知るところとはならない、不特定多数が閲覧可能な場に書くという表現を行うことにより、知るところとなりこうやって問題の指摘が起きている。つまり、あなたは思想を持っただけではなく、表現をおこなったのである」みたいなことを書いた訳です。

なんというか、この表現するという行為に必然的に「他者への影響を希求する」という事が含まれてしまうという事にも人が持つ「分かり合う事を求める」という基本の性質があるわけです。
by 技術開発者 (2007-10-16 08:28) 

pooh

> 技術開発者さん

あぁ、ひどく抽象的なエントリにコメントをくださってありがとうございます。

結局のところ、ひとが世界を分かろうとする、ひとを分かろうとするために経験的に選択された方法が科学だ、と云う気がするんです。その選択には、「じゃあ分かること、分かり合うこととはどう云うことなんだろう」と云うけっこう突き詰めた思考の模索があったんだろうな、なんて思うんです。それもだれかひとりがそう考えたわけじゃなくて、延々と世代を重ねながら考え続けて。

方法は方法で、と云うことは厳密に運用すればとくに考え込まなくても結果を得ることができて、そこがどこか人間を疎外しているような印象に繋がったりするのかな、とも思うんです。でも、それがそもそも分かること、分かり合うことを目的に生み出されたものだ、と云うことを忘れなければ大丈夫なんじゃないか、と思います。

表現はすべて、誰かに何かを伝えようとする行為ですよね。そのことを意識しない表現はだから未熟で、本質を見失っているものだと思います。この話は、少し前にcorvoさんとアール・ブリュットについて議論した内容と繋がってくるものだと思います。
by pooh (2007-10-16 22:04) 

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