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つくりもの [近所・仙台]

はじめて仙台文学館に行った。
特別展として「澁澤龍彦 幻想文学館」と云う催しをやっていたので。

以前、ぼくは今よりももっとこの施設の近くに住んでいた。結構長い間、だいたい4年くらいか。でも、一度もその敷地内に足を踏み入れたことがない。なんと云うか、「文学館」と云う施設がいったいなにをするものなのかどうもぴんと来なかった、と云うのもある。図書館なら分かるけど、みたいな。

行ってみると、この施設が裏側で台原森林公園につながっているのが分かった。裏手にせせこましい庭園のようなものがあって、いろんな木々が作為的に植えられていて、いかにもつくりものの(ってえか実際つくりものなのだけど)小川が流れている。背景の森林公園とのコントラストがなんとも云えない。

こう云う表面的な「つくりもの性」と云ったようなものは、仙台と云う街のある意味ひとつの本質につながってくる、気がする。ことさらに表面的に美しく、整っているけれど深みがない。ひょっとするとそれはこの街に暮らして来たひとたちの気質に発端するものかもしれないけれど。

さて、澁澤は今年が没後20周年と云うことだ。と云うことは、あの頃から20年の歳月が経ったことになる。

澁澤はぼくの同時代人ではない。でも、十代の後半から数年間、彼の著作はある種自分の美意識の道程票のようなものだった。同じような経験を持つひとはそこそこいるのではないだろうか(一種の中二病と云う気もしないではない)。ぼくが好きな画家にクラナッハだのデルヴォーだのの名前を挙げるのも、気恥ずかしいくらい直接的な影響の発現だ。だから、彼の名前を口にするのはいまでも酷く照れくさい。

晩年の彼の美意識が向けられていた「かろみ」のようなものが、20歳前後の子供だったぼくにはよく理解できなかった。いまでも理解できているかと云うとよく分からないが、当時の拒否に近い感覚はもうない。これが年齢のせいなのかはよく分からない。

澁澤龍彦、と云う名前にはいろんな記憶や想いや若い頃の気負いや気取りのようなものが幾重にも絡み付いていて、それはもういまのぼくからは多分引き剥がせない。角砂糖を放り込んだカンパリのような甘さと苦さが、その名前からは感じられる。でもまぁ、そのことをこうやって文章にすることができるくらいには、ぼくも図々しくなった、と云うことでもあって。

ともかくもまぁ、滞在時間の半分くらいは展示室に置かれていた「血と薔薇」を読みふけることに費やしたのだった。


タグ:近所 仙台 表現
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