力不足(1) [世間]
実はあらきけいすけさんの「ニセ科学批判」批判のための覚書と云うエントリを読んでからしばらく経っているのだけど、言及する勇気がなかった。でも、重要な示唆があると思うので、触れてみる。
いわゆる「ニセ科学」への対抗活動の基本は、いわゆる「ニセ科学」が「科学的にまちがっていること」が問題なのではなく、「科学のふりをして人を(精神的、肉体的、経済的に)傷つけること」が問題とされているはずである。これは「他者を傷つけてはならない」という「他者危害原則」に則った、きわめて高い倫理的規範に基づいた行動になっている。
ところが菊池さん天羽さんの日頃の言論、活動では、この倫理的規範がその根底にあることが明示的にあまりなっていないように思われるし、賛同者にせよ批判者にせよ、この規範について反省的に考察を加えているものが少ないように思われる(…のはボクが寡聞だからですか、そうですか)。
まぁ、少ないかもしれませんね。いくらかでもそのことに言及されている人文系の学者としては、朴斎先生くらいしかぱっと思いつかない。dlitさんの角度も、倫理的規範に向かうものではないし。
倫理的規範、と云うのは非専門家が簡単に言及できるものではない。菊池さんも天羽さんも自然科学者で、社会科学の専門家ではないので、責任を持って言及できる範囲は限られる。
非専門家が倫理的規範に言及しようとすれば、それは「常識」に立脚せざるを得なくて。いや、常識は倫理的規範の実体だとは思うのだけれど、そこに単純に棹さしても言説としての強さは生まれない。でも、ニセ科学問題については人文系の学者のプレゼンスはちょっと不思議なくらいに小さい。
以前にも書いたかもしれないけれど、例えば水伝授業の問題とか、七田式教育法の問題なんかに関して、教育学者のプレゼンスは異常に低い。正直言って、この国には教育学を研究して禄を食んでいる学者はひとりもいないのではないか、と思うくらいで。いや、世の中には教育大学とか教育学部とかどっさりあるはずなんだけれど、そこには研究者が「ひとりも」いないのかもしれない。だとすれば納得するけれど。
ぼくは文系を標榜しているし、ここでニセ科学を扱うときのメソッドも文系的な角度からの論理構築と著述を旨としている。でもそれは単にそれがぼくにとって慣れた(実行しうるおそらく唯一の)方法だからで、ぼくも学者ではないわけなのだ。正直、ぼくなんぞでは泥縄式に勉強して自分の論理を強化するのがせいいっぱいで、お話にならないくらいに力不足なのだ。
倫理的規範が背後に強く働いているにもかかわらず、そのことについて反省的な考察がなされず、倫理的な判断の基準が「常識的な線」という曖昧なものに留まったままであること、そして議論の文脈を見ていってもその方向への議論の発展が期待できないこと。これが現在の「ニセ科学批判」の活動の「文系の視点から見た」問題点ではないか。
「人を傷つけるな」:それは当たり前のことである。「傷つけないために何を為す/為さぬべきか(その根拠は何か、何と対比的に考えられるか)」についての考察が足りないのである。
これは、概ねの批判者は理解している(理解せざるを得ない。あらきさんがどのように認識されているかは分からないけれど、ぼくのような在野の匿名の批判者に対してさえ、「批判批判」の風当たりの強さはけして楽なものではないのだ)。では、そこを考察していくのは誰のお仕事だとお考えなのだろう。
稲葉振一郎さんがここにコラムで触れて下さって、ぼくの書いたことを「ニセ科学問題についての文系アカデミズムに対する挑発」として取り上げて下さってからおそらくもう半年以上経過している。でも、ほとんど状況は変わっていないのだ。
以前も書いたけれど、ぼくはニセ科学問題をすぐれて社会科学的な問題だと思っている。「ニセ科学批判」の活動の「文系の視点から見た」問題点
でさえ自然科学者たちに自力で解決させようとするなら、この国の文系アカデミズムはなんのためにあるんだろう、なんて思ったりする。
言ってるんだけど、分量的に追いつかないんだよ。「他者危害原則」なんて言葉は知らないけどね。
「水からの伝言は科学的にナンセンスである」「血液型性格判断は否定されている」「マイナスイオンは科学の体をなしていない」というステートメントを僕自身はほとんど自明だと思っていて、それを前提に話をしたいのですね。
ところが、多くの場合、その「前提部分」を説明したり納得してもらったりするのに、ほとんどの労力をさくことになってしまう。そうすると、判っている人からは上のように言われてしまうわけです。
僕は以前「水伝」の議論で、「菊池は科学の議論しかしない」という趣旨のことを言われたのを今も忘れていません。実際には、僕は初めから、「水伝」の問題は科学に留まらないということを言っていたのだけど(おそらく、その点を最も早く指摘したのは僕です。それは強く指摘しておきたい)、そんなことは誰もおぼえてもいないし、気にもしないわけですよ。
「水伝」の科学の部分なんて、自明ですよ。あれを自明と思わない人たちがいることのほうがおかしい。だから、本当は「科学」の部分なんかひとつも話したくない。ひとこと「自明」でたくさんのはずなのね。
poohが「文系の議論」と称するものは、僕には普通の議論なんですよ。僕は最初からその話をしているし、本当はそういう話に終始したい。しかし、こちらは科学の専門家でもあるので、科学の部分での疑問にも答えなくてはならない。で、それをすると、「見えない」とか言われるわけです。
僕の講演を聴いたかたなら、全体は三部構成で、「イントロと動機」「ケーススタディ」「整理」になっているのがわかると思うんですよ。で、上で提起されているような問題は第1部と第3部で議論しているのね。でも、たぶんそこはあまり記憶に残らない。
たぶん、本当に科学の議論をやめたほうがいいのでしょう。それができるのなら、ですが。
by きくち (2007-09-11 00:36)
ちょっと語弊がある書き方だったので追記すると、もちろん僕は哲学やら社会学やらの専門的な話は知らないわけで、「文系の議論」をきちんと文系の専門家にしていただいたほうがいいに決まっています。単に、問題意識としては普通だということ。
by きくち (2007-09-11 01:04)
水伝については、道徳的にまずいことを最初に主張したのはきくちさんですよ。
私は、文学としてまずいということしか思いつかなかった。一応高校では文芸部やら新聞部やらでがさがさやってたんで。
最初に水伝見たときに思ったのは、なんちゅう薄っぺらな……ってことに尽きる。次に思い出したのが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」で、ラピュタの滅びの言葉を教えるときに、確か、良い言葉に力を持たせるには悪い言葉も知ってないと云々、みたいなせりふがあって(今度DVDできちんと確認しておこう)、やっぱり言葉ってそういうもんだよな、と。だから、ラベル貼って水に分類させるくらいなら、おまいらラピュタ見ろと。その方がよっぽどためになる。
あと、倫理的規範にしたがってる人が居るようだけど、あくまでも「利害」が根底にあるんで、倫理はメタな方でやっててほしいです。ってか文系の人におまかせしたい。
倫理以前の問題として、私なんかは裁判所でどう斬り合うか、つばぜり合いやっても最終的に勝てるのかってことの方がずっと大事だし、最終的には法廷で決着ということになると、倫理学の出番じゃなく法学の出番、それも不法行為法の研究成果を引っ張り出せということにしかならないので。そうすると解決はあくまでも通常人の常識の範囲ってことになる。倫理だけじゃ訴状も準備書面も書けないんですよね。
by apj (2007-09-11 01:06)
Priorityの問題ではなくて、単に「言われんでもわかってる」ってことなんですけどね。
僕はやはり「水伝」に「オウム」を重ねてしまうので(といっても、もちろん「水伝」信者がテロに及ぶとは思っていませんが)、利害とはまた別の観点です。
マイナスイオンはやっぱり企業倫理かなあ、僕にとっては。
問題ごとに興味や動機は違いますね。
by きくち (2007-09-11 01:14)
こんにちは、poohさん、そして皆さん。
私は、というか別な名前でやっていた人は、比較的、倫理とか道徳とかに言及することが多かったと思っています。なんていいますか、我々は反倫理的な物事に対して批判をするときに、「良くないことだから批判して当然だ」という部分を自明としてあまり説明しないことが多いわけです。「批判して当然ですよね」「当然だ」みたいなところから話をはじめて「どういう良くないことが社会に流行っているか」みたいなことを説明し始める訳です。ところが、「良くないこと」の説明をして言葉のやりとりをしているうちに、最初は「自明」として合意していたはずの部分がズレてくるのを感じたりするわけです。
なんていうか、多くの人の持つ倫理観というのが薄くなっていて奥行きを失っている感じを受けることがあるわけですね。そのために、ちょっと倫理的にややこしくなると「本当に悪いことなのだろうか」みたいになってしまうので、話をもともとに戻して「なぜこれが悪いかというと」と倫理の話なんかをしなくてはならなくなることも多い気がするわけです。
私は悪徳商法批判の世界をさまよってから、ニセ科学批判を始めました。倫理的な自明さが比較的はっきりしているはずの悪徳商法批判の世界ですら、そうやって倫理の説明に立ち戻る必要性も大きかったのです。
TAKESANのところで「他者危害原則」と「愚行権」なんて事を少し書きました。書きながら思い出したのは悪徳商法批判の世界で「ゴキブリの養殖」なんて話を作ったことです。泣き寝入りしたくてしょうがない被害者に「泣き寝入りするのもまたあなたの権利ですから私にはとめることはできません。でも、アパートの自分の部屋で食べかすを散らかしてゴキブリを増やせば、そのゴキブリは隣の部屋にも出ることだけは理解してください」なんてたとえ話をしてしまいましてね。私が去った後の悪徳商法批判の掲示板でも時々「ゴキブリを養殖する」みたいに使われているわけです。理解して欲しいことではあるのだけど、あまり気の弱い被害者を責めるのに使って欲しいたとえ話ではないのですけどね。
by 技術開発者 (2007-09-11 04:07)
> きくちさん
ベタな批判って言うのは実際の事象に即して行うので、どうしても対象にする要素が多くて、議論のレイヤーも多岐にわたることになって。で、一度の発言で云えることは限られているので、どうしてもその要素のいくつかに絞り込んだ発言になってしまって。凝縮すると「まん延するニセ科学」の内容みたいになるんだと思うけど、ああなると「どの発言も聞き逃せない」ようなものになってしまう。
「批判」と「批判批判」は同じレイヤーにあるように見えるけど、後者のほうがメタレベルが高い分捨象がしやすくて、議論を純化させやすい。云いたいことが云えるわけで、そこに取り上げた事柄だけを対象に「この部分が手薄だろう」といいやすいわけですよね。あらきさんみたいに割合とフェアな立ち位置で言説を行う場合でも、例えばきくちさんがマスコミの取材に答えるたびに「道徳を水に教わるな」と繰り返し強調していることについて、「寡聞にして」捨象することもできてしまう。
これは「批判批判者」の意識によっても変わってくる部分で、論宅さんみたいに実効性のない議論を楽しく続けるための材料としてニセ科学を扱う、みたいなスタンスも登場するわけです。
きくちさんが求められるのがあくまで「科学者としての見解」であるのは仕方のないことで、なのでぼくとか何人の「在野の批判者」にはわりとそのこぼれ落ちてしまう部分(きくちさんが「言い切れない」部分)を拾おう、少なくとも問題提起しよう、と云う意識はあるんだと思うんです。でもその言説がなかなか届かない、と云うあたりで力不足を感じたわけですね。
力のある、リーチのある言説をなしうる、ベタな議論のできる「文系の批判者」が現れないものかなぁ。
by pooh (2007-09-11 07:57)
> apjさん
ぼくは、ニセ科学の倫理的側面についての議論は本来メタレベルに属するものとは思っていないです。まぁ当然自然科学の立ち位置からすれば別のレイヤーに属するものではあるでしょうけど、もっとそのあたり専門家によるベタな議論が生まれてほしい。
少なくとも社会科学者にとっては「ベタな議論」のはずなので。
by pooh (2007-09-11 08:00)
> 技術開発者さん
そのあたりの議論は、ずいぶんおつきあいいただいてここでもしてきたつもりなんですけど、なんて云うのかな、やっぱりリーチは知れたものなのですねぇ。ブログと云うシステム上、しかたないのかな。
by pooh (2007-09-11 08:02)
論宅さんは無駄だったね。
なんのことはない、暖簾に腕押しというかさ。結局、メタな議論を弄ぶというところから一歩も抜けられなかったみたいですよ。最大の問題は彼が「社会学」を標榜していることで、「社会学なんて、あんなものか」と思われたくなかったら、社会学の人たちがなんとかしたほうがいいんじゃないかなあ。
poohも無駄な議論を拾ってくるの、やめようよ(^^;
by きくち (2007-09-11 09:47)
>凝縮すると「まん延するニセ科学」の内容みたいになるんだと思うけど、ああなると「どの発言も聞き逃せない」ようなものになってしまう。
長くても読まれないし、凝縮しても読まれないので、しょうがないね
読んだあとに「理解度テスト」がないのがいけないのか(^^
by きくち (2007-09-11 18:46)
>poohさん
>>力のある、リーチのある言説をなしうる、ベタな議論のできる「文系の批判者」が現れないものかなぁ。
私個人として、土屋賢二さんや飯田泰之さんとかがニセ科学批判をしてくれたらと考えているんですが。
この2人や論座でもゲーム脳批判をしていた山形浩生さんなどは、きくちさん達とはまた違うスタイルの批判が出来る人達だと思います。
例えば、飯田さんには経済学の観点からのニセ科学批判とか。
マクロ経済学からのニセ科学批判は、正直kikulogでも見たことが無いので、一度専門家の意見を聞いてみたい気持ちが強くあるんですが。
by 内海 (2007-09-11 19:58)
「誠実であること」は、人間同士の関係にとっても必要ですけど、ひとりの中で考えを紡いでいく事にとっても必要なんですよね、たぶん。「水伝」に込められている不誠実が許容される社会では、技術力や創造力というようなものが育たなくなる恐れがあることが、技術系でじぶんや弟子を育てている人には実感のようなものとして感じられるんじゃないでしょうか。(と考える思いこみが私にはあります。)
技術系(高校や大学で理科・文科を勉強したという区別でなく)の人以外ではどういうふうに感じられているのか、聞いてみたい気がします。たとえば児童文学の方の人なんか、どうでしょうか。生み出す人は自分の感性にたずねるだけかもしれませんが、選ぶ人与える人(ライブラリアンとか読み聞かせの人とか)は、やはり感性だけに基づいているのでしょうか。そのあたりは理論なんかないのでしょうか。「水伝」は選択の基準にはひっかからないのでしょうか。(そんなことがわかるといいなあ、という程度の話ですが。)
いろいろな立場・考えの人が地域にいるとして、公立の学校には地域の人の考えは入らない方向に変化して、多彩な価値観は父母と教師との関係で取り込まれるしかないようになってはいないでしょうか(根拠は持ちません)。そこで期待される教師個人の能力・想像力は、技術開発者さんが指摘されたように、(他の誰しもと同じように)薄く奥行きがなくなってきているのでしょうね。(いっぱい思いこみを混ぜました。)
by ちがやまる (2007-09-11 20:26)
> きくちさん
うぅ、ごめんよぅ(><)。
いや、きくちさんが論宅さんのところまで出掛けていくとは思っても見なくって。弾さんのときに煽ったのは確かにぼくだけど。
で。正直最初に取り上げたときはこんなふうにしょうもない議論をするひとだとは思わなくて(自分のバックボーンを明示しているひとは、ふつうそのバックボーンを侮辱しないためだけにでも議論に当たっては誠実にあろうとするもんでしょ)。
でもって、こう云う言説に対してもぼくには対抗言論を準備する動機があるのです。現にもとになった論宅さんのエントリに対してさえ、ソーシャルブックマークを見ると「共感した」的な反応があったりするので。もちろん誰かのブログのエントリに言及するときにはそのひとの公開しているプロフィールも当該エントリ以外のエントリも読んで判断してるけど、それでも分からないことはあるのです。
ただ、彼が社会学の看板を担いでいるのはまずいと思う。社会学はなによりまず実学のはずなので、彼のようなアプローチは学問分野としてそもそもカテゴリエラーに近い。
> 読んだあとに「理解度テスト」がないのがいけないのか(^^
それじゃほんとに講義になっちゃうって。
ってえか、凝縮された総論が響くひとと、具体的な各論じゃないと届かないひとがいると思う。だから、両方必要なんだな。
かならずしもまこっちゃんが全部やる必要はないのよ。
by pooh (2007-09-11 21:24)
疑似科学問題について人文系からのすごく上手なまとめは,伊勢田哲治さんが『疑似科学と科学』です.線引き問題が中心なんですが,「「科学」じゃない」がまず定義されないと疑似科学云々という話はできませんから.
それ以上の倫理的問題についてはなかなか難しい.僕は倫理は世界の外にあると考えているので,ある行動が倫理的か否かを論理的に決定することは出来ないと思います(宗教による救済は徹底して非科学的だし金も取るけど「論理的に」悪いと結論は出来ない).
疑似科学への規制の問題は
・普遍性のないものを社会的に教育することの問題
・いろいろな(リーズナブルだがパレートよりはきつい)社会厚生関数において厚生低下要因になるという視点からの批判
あたりが軸になるんじゃないかと思います.
by 飯田泰之 (2007-09-11 21:25)
> 内海さん
あぁ、それは読みたい。飯田さんのも読みたいし、別の意味も含めて土屋さんのも読みたいです。ただ、マクロ経済学の角度から有効な批判が可能かどうかはちょっと分からないですけれどね(そう云えば、osakaecoさんはミクロ経済学者です。ミクロからの角度の方がイメージしやすい)。
by pooh (2007-09-11 21:28)
> ちがやまるさん
「自分に対する誠実さ」と云うのは、ひとつのキーワードかもしれません。それはもちろんそうそう甘いもんじゃなくて、でも「他者に対する誠実さ」の基盤になるもののような。
でもたぶんそれも、社会的な規範に基づくものになるんだろうな、と云う気もします。それを規定するのはなんなんだろうか、みたいな。
by pooh (2007-09-11 21:47)
> 飯田泰之さん
いらっしゃいませ(あぁ驚いた)。
伊勢田さんの著書は、実は読んだかどうか自分で記憶が判然としないんです。もう一度読んでみなきゃなぁ、とは思っているんですが。
倫理を論理で語ること、については、(直感的には)難しいかもしれません。ただ、特定の社会状況を背景に準備してでも、その時点で「妥当な」ものと思えるものを合理的に探すことはできないものですかね。
> ・普遍性のないものを社会的に教育することの問題
> ・いろいろな(リーズナブルだがパレートよりはきつい)社会厚生関数において厚生低下要因になるという視点からの批判
前者については、論じるだけの考察がまだできていません。この部分については、専門家の議論を待ちわびているんですが。
後者のほうが実感としてぼくには理解しやすい。こちらは、「水商売」批判で著名なapjさん(天羽優子)さんの視点に近いものがあるのではないか、と思います。疑似科学にリソースが割かれるのは不合理だ、って部分で。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=5513
これにはぼくも同感しています。
by pooh (2007-09-11 22:04)
伊勢田さんの「科学と擬似科学の哲学」は一度読んでおくといいです。ベイズ主義という言葉は知らなかったのですが、僕自身、科学的推論過程は「ベイジアン」だと思っていたので(ベイズ推定は知っている)、納得しやすい。
推論がベイジアンである以上、科学とニセ科学のグレーゾーンについて議論するのは必然で、だからこそ僕たちはずっとグレーゾーンを語っているわけです。
その意味で、伊勢田さんの本の内容が僕にとってものすごく新しかったかというと、そういうわけではなくて、むしろ僕がずっと感じていたことに非常に近いことをきちんとまとめてくれたというのが感想。
もちろん、考え方の違う部分もあるし、問題意識も違うのだと思いますが、非常に「現場感覚に近い」科学論だと思います。
「反証可能性の有無」だけで科学と非科学を二分してしまうような議論は「現場感覚」として受け入れがたい。
by きくち (2007-09-11 22:54)
あ、僕も倫理的かどうかを論理的に決定できるとは思いません。
というか、それは「道徳を自然科学で基礎づけようとしてはならない」に非常に近い話ですね。
倫理は「社会構築的」ですよ(^^
by きくち (2007-09-11 22:58)
今晩は。
自分のブログのコメント欄で、あらきけいすけさんに質問をしたのですが、エントリーを立てて、答えて下さっています。そこでは、あらきけいすけさんのお考えが、より具体的に説明されています。
一応。私のコメントは、こちらです⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_7168.html#comment-20607841
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伊勢田さんの、『疑似科学と科学の哲学』は、必読ですよね。その内に、再読しようと思っています。
この本についての伊勢田さんのインタビューも、ありました⇒http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/021/
by TAKESAN (2007-09-12 01:48)
> きくちさん
うむむ、多分ぼくは「科学と擬似科学の哲学」は未読のようです。
ベイズ推定については、昔携帯電話屋だった頃に提供サービスとの絡みでほんのちょっとだけ勉強した記憶があるけど、あんまり覚えてないし。週末の宿題かな。
> 倫理は「社会構築的」ですよ(^^
そうすると、そちらのほうのアプローチから考えるためのメソッドを理解する必要が(ぼくには)出てきますね。
by pooh (2007-09-12 07:53)
> TAKESANさん
あらきさんのエントリを読みました。とてもポジティブな経過を辿っていて、得るものが多くありそうな議論になっていますね。ありがたい。
感情的には、あらきさんの現状認識にはなんとなく不当な評価が含まれているように思えてしまいます。でもそれはそれとして、あらきさんが「なにが不足している」と認識していて、「なにを補えばより有効な批判が可能か」と云う示唆をくださるのなら、ほんとうにありがたいことだと思います。
by pooh (2007-09-12 08:00)
などと書いたけれど、あらきけいすけさんのエントリの追記を読んで、さすがに意気消沈。「教えてくん」かぁ。
by pooh (2007-09-12 12:24)
今日は。
「教えてクン」かあ…。そこまで素朴に思われているのですねえ。
何か、よく解らないです。津村さんのブログ、”悲惨な「炎上」”なんですかね? で、その原因は、あらきけいすけさんが指摘されてる通りなのかなあ。議論の層が違ってるんじゃないか、と思うんですけどね。
って、poohさんの所に書いても仕方無いですね。ごめんなさい。
by TAKESAN (2007-09-12 14:18)
> TAKESANさん
まぁどう読まれようが書いたことがすべてなので仕方ないです。ただ、少なくともぼくは一度も「専門家ではない」と云うことをエクスキューズに使ったことはないと思うんですけどねぇ。あと、考えるうえでの示唆を貰えるとうれしい、みたいなことは書きますけど、それが「答えを教えてほしい」と云っているのと同義に見えると云うことでしょう(実際のところぼくはコメンテーターのみなさんからご意見をいただいてもなかなか自分の意見を進めないので、むしろいらいらされているぐらいなんじゃないか、とか危惧していたんですが)。
津村さんのところでの議論を「炎上」と形容するのなら、それはぼくの知っている炎上の定義とは違いますね。
by pooh (2007-09-12 21:58)
なぜニセ科学批判が必要か、という、ちょっとメタな議論をするときには「他者を傷つけるかどうか」という判断基準が入ってくるかもしれないけど、個別のニセ科学について判断するときは、そんな基準は不要だろうというのが私の考えていることです。あらきけいすけさんは、まだこの2つの区別が不十分ではないかと思ったので、私の方で新たに別のエントリを書きました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=6414
by apj (2007-09-13 01:15)
「他者危害原則」はあくまで「考慮すべきポイント」(原則)なのであって、ただちに判断基準にはなりませんよね(どこで線をひいて0/1に分けるの?)。Millの"On Liberty"はインターネットで読めるんだぜ(←こんな書き方したらカッコいいだろうなあ、と思っただけで私は読んでません。でも、ことばの意味を考えるなら、Millはこう指摘した、から出発するのが本当でしょう。そうすれば、なぜ判断基準を入れなければならないか、基準は何を定めるか(何を測るか)、など途中の議論がごっそり脱落していることに気付くでしょう。まともにとりあう意味があるかどうか注意すべき相手かもしれませんね。)
by ちがやまる (2007-09-13 05:52)
> apjさん
実際のところ、「(自然科学以外の角度から見た)ニセ科学とはなんなのか」「そこにどんな問題が含まれるのか」と云う総論的な部分については、なにか結論があるわけではなくて(現時点ではきくちさんの資料がもっとも合意点に近いですけど、結論ではない)。でも、だから問題が存在するわけではなくて、個別に(共通点もあれば相違点もある)ニセ科学問題は現にあって。
ぼくみたいな泡沫の批判者は結局自分の言及しうる個別のニセ科学に対して考察することで、はじっこからでも何らかの部分で論理の強化に貢献できるかな、なんて考えて行動するのがせいぜいのところなんですよね。
by pooh (2007-09-13 07:44)
> ちがやまるさん
議論はしないです。
少なくとも「こう見える」と云われれば「そう見えた」ということですし、そこに反論しても仕方がない。「そう見えるんだ」と云うことを認識して、今後につなげるしかない。
「そう見える」というだけの話をすれば、あらきさんの一連のエントリは「ニセ科学批判批判者」ならぬ「アンチニセ科学批判者」によってマスターピースとして取り扱われ、ニセ科学批判者を誹謗する目的であちこちに貼られまくっています。現時点であらきさんはおそらく「ニセ科学批判を封殺することに論理的根拠を提供している」ように「見えている」んですが、どうお感じなんでしょうかね。まぁ特に知りたいわけではないですが。
by pooh (2007-09-13 07:54)
>「ニセ科学批判を封殺することに論理的根拠を提供している」ように「見えている」
しかたがないですね。
もしそれが嫌なら、ご自分でなんとかするしかない。
「どう見えようと自分の知ったことではない」と無視しておくほうがいいとは思いますが、それはご自分で決めていただければ。
by きくち (2007-09-13 09:28)
> きくちさん
いや、実はそれはあらきさんの本意かもしれないわけです。大量の引用やコピペ、そのもたらす影響が、あらきさんにとってはうれしいことかもしれない。
まぁたぶん「本意ではない」と云う「想像力」は働くわけで、だからそこについて何か云うことはないわけですが。ただ、「見える」と云う点にだけ棹差して批評することも可能だ、と云う話です。
by pooh (2007-09-13 09:40)
あらきさんのブログをときどき拝見していた感じでいうと、それは勘ぐりすぎ、という気がしますよ。
本意ではないでしょう
by きくち (2007-09-13 09:56)
> きくちさん
そう思いますよ。
ただ、「最近の議論を見ていると」と云う言い方をするなら、そう捉えることも可能だ、と云っているだけです。。
ぼくが「そこにあらきさんの本意がある」と思っている、と云う話ではないです。ってえかそんなはずないじゃないですか。
by pooh (2007-09-13 10:01)
はじめまして
文書を出したら一人歩きするというのは覚悟していたつもりですが、「ニセ科学批判封殺」とまで言われたら、正直めげます。ヘンなサイトのテンプレになったら「火消し」に行きますので、発見の際は拙ブログにご一報ください。
このエントリの本文でひとつだけ「批判」させてください。
>おそらくもう半年以上経過している。でも、ほとんど状況は変わっていないのだ。
私は天羽さんのページが菊池さんのところに避難していた時代からご意見を読んでいます。それから考えると今の広がりは「格段の進歩」という気がします(私自身はほとんどウォッチャーしかしていないけれど)。「半年」くらいで状況がコロコロと変わるとは思えません。鷹揚に構えねば。
by あらきけいすけ (2007-09-13 13:39)
> あらきけいすけさん
いらっしゃいませ。
ぼくは「ニセ科学批判をやるような暇人」(津村ゆかりさんによる評価を分かりやすく意訳しています)ですが、都度ご報告するような時間が持てるかどうかはわかりません。でもまぁ、例えば吉岡大介氏に論拠に使われるような極端な展開があれば、もちろんご連絡させていただきます。
と云うか、ニセ科学について継続的に言及していれば、曲解を目的にあちこちにコピペされるのが現在の通常の状況ですし。でも、例えば2ちゃんねるなんかからのトラフィックは問題にならないくらいごくわずかなので、どちらかと云うと一生懸命コピペしているひとのことを考えると哀れを催すくらいですけど。
> 今の広がりは「格段の進歩」という気がします
拡大はしているかも知れません。でも全体のスケールとしては、おっとり構えて楽しくメタな議論に興じているあいだに簡単に消費し尽くされてしまう程度のものでしかありません。リーチについては、別のエントリに書きました(ぼくが専門家の言説を希求しているのは、第一義的にはこのリーチの問題を懸念して、です。それだけではありませんが)。
スケールの問題を議論から外して拡大速度の評価をしようとするのは、ぼくから見ると質の悪い経営コンサルタントがパーセンテージの話だけでお追従なレポートを作成して(これはひどく簡単なことです)間抜けなクライアントからフィーをちょろまかす手法とあまり変わらないように見えます。
by pooh (2007-09-13 21:42)
こんばんは
個人的にはメタな視点は好きですが、メタなレイヤーの話は個別の現実からボトムアップしていかないと空疎なものになりがちです。逆にメタな話から現実の問題にボトムダウンできなければ意味がないですし。
そして、ニセ科学が社会の中にあり、人と人との関係や人と自然科学の間に生まれた問題である以上、科学的にも哲学的にも社会学的にも経済学的にも取れるのは確かで、各個人個人がどの視点から検討するのかという問題ではないかと思います。結局視点と方法と優先順位の問題でしかないならば、各個人が持っている視点と知識と手段で行えばいい問題ではないでしょうか。足りないならば自分で問題提起をして巻き込む算段を付けていくしかない訳で、「教えてクン」としてみるのは何か違和感を感じます。情報の非対称がどのようなものにもあるわけで発信者も受信者もより大きな知識・今までにない視点を持った方が発信者になればよいと思います。だからといって知識がない事を正当化しているのではありません。知った段階で次のステップへ進める姿勢はなくてはいけないものだとは思います。少なくともその姿勢がなくては議論の相手にはならないでしょう。
by FREE (2007-09-14 01:46)
> FREEさん
おっしゃるとおりに感じています。
ただ、どうもこの話題は辛い。
どうしても自省より自己弁護につなげてしまいそうになる(^^;。
by pooh (2007-09-14 07:43)
つまらないことですが、2007-09-13 21:42のpoohさんのコメント
吉岡大介氏 は間違いですよね?
(吉岡さんがくだらない人といっているのではありません。念のため)
by Noe (2007-09-14 11:59)
> Noeさん
ああぁ、ご指摘ありがとうございます。「英介氏」でした。
吉岡大介氏ってだれだ(^^;。気を悪くした大介さんがいらっしゃったらごめんなさい。
by pooh (2007-09-14 12:09)
先日はapjさんのプログコメント欄で勝手にお名前を出し、申し訳ありませんでした。私としては結局、このエントリでは「水伝を道徳の授業に使う、ということがまさに道徳の(カリキュラムや教材にも関わる)問題である」ということを教わった感じです。問題である、までで、どうとらえるか、まではさっぱり届きませんが(ちょうど中央教育審議会が「道徳は教科にしないのが妥当」という答申を出したのとタイミングがあいましたけれど)。
同じように、「ニセ科学」ということばを聞いた時にそれをどうとらえてどう反応するか、ということについても興味ぶかい2例が得られたわけですが、それは「ニセ科学」問題というよりは、「インターネットにおける自我の発露」を考えるのに役立つ素材かもしれないと思っています。
by ちがやまる (2007-09-19 19:50)
> ちがやまるさん
あぁ、何を気にされてるんですか(^^;。
道徳の問題、倫理の問題としてのニセ科学についての考察は、ある意味ずっとテーマではあって。でもなにか確信を持った物言いをするところまでぼくの思考が届かない状態で、コメント欄でみなさんにコメントをいただきながら牛歩ながらも考え続けて来た部分ではあるんです。
ただここで、自分の身になっていないアイディアをどこかの本から借りて来て結論にするのは、なんと云うか、ここのスタイルではないので。なのでみなさんと議論しながら、もっと時間がかかっても実りのある結論に(当座のものでも)行き着けないかなぁ、とかやっていたわけです。
でもって、文系のアカデミズムのなかにいる方の意見もあればもっと進むのになぁ、なんて考えていて。やはり文系の知識をベースにした論客は少数派ですからね(FREEさんとかもこちらに来られるので、いない、と云うわけではないんですけど)。そこで「教えてくん」とか云われちゃった。
論宅さんのところの議論と津村さんのところの議論がほぼ同時に起こったのはおかしな偶然でしたが、期せずして「(インターネットと云う場所で)議論に向かい合うと云うのはどう云うことか」と云うケーススタディを得ることができたようにも思えます。
by pooh (2007-09-20 00:23)