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仕事と矜持 [よしなしごと]

久しぶりに理系白書ブログを眺めていて、ヤスさんの肉体労働と云うエントリが眼にとまった。

いや、エントリそのものはなんだか感情論の垂れ流しっぽい書きぶりで、なんだかこれが本業のジャーナリストの文章なのかよ、みたいに思わせる部分があるのだけれど、でも書かれているテーマそのものはなんだかここ数年感じている違和感と重なるものがあった。

いつからぼくたちは、働くひとたちに敬意を払わなくなったんだろう。いろんなひとたちがぼくたちの生活を支えてくれることに、感謝をしなくなったんだろう。

先日、株で「信じられないほどカネをもうけた」という人に有罪判決が出ていたが、この発言を聞いて、「そうか、こうすればもうかる」と思った人もいるだろうが、私は腹が立った。世の中にはきつい肉体労働しても収入が少ない人がたくさんいるのだ。
私の両親は「親と同じ仕事はするな。苦労する」と口酸っぱく言っていて、だったら「なぜ苦労しているんだ」とバカにしたこともあった。だが、こういう人々が荷物を運んでくれるからこそ、私たちの生活も成り立つことを、年とともに知るようになった。

でも、いまこの国では、そう云う人々に支払う報酬を最低限にして、可能な限り敬意を払わないことが求められているのだ。そうしてできるだけそこからたくさんのあがりを掠めとる仕組みを作った人間が称揚されるのだ。

例えば介護は大事な仕事だ。でも、その仕事に充分な報酬を支払えば、制度そのものが立ち行かない。だから、報いない。

安全な電車の運行は大事だけれど、それは経済的な付加価値を生まない。だとすれば、その安全に振り向けられる努力は、その努力を支える職業上の矜持は、なんの評価の対象にもできない。安全を確保することは、余計なお金を一円も生まないから。

敬意を払うと、損をする。
どうせ代わりの人間はいくらでもいるのだし。最低限の賃金でも、よろこんでその仕事をする人間が。

ぼくたちは働きながら、同時に一面ではお金を払う消費者でもある。でも、あまりにも「お金を払うことによる敬意」を求めるのでは、結果的には自分たちの社会を支えるモラルを底なしに凋落させていくだけなのではないか。
ぼくたちはいま、その過程にいるのではないかなぁ。


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ちがやまる

安全を確保することは、事故がおきた場合の莫大な損失を予防することで経済的な付加価値になるのではないでしょうか。事故のランダム性を勘定し損ねたり、システムの理解が足りないため無駄を省くつもりで構造壁まで省くような事がまずいのですよね。
また、矜持や敬意は価値を認める人・文化があるので、場合により売り物になる。だからといって、これらをお金に代えられる場面でのみ発揮して、実際の人生で使わないようになるのではまずい、というような事でしょうか。
by ちがやまる (2007-08-07 03:33) 

pooh

> ちがやまるさん

> 安全を確保することは、事故がおきた場合の莫大な損失を予防することで経済的な付加価値になるのではないでしょうか。

その部分は付加価値ではなく、本源的な価値の部分に属するのだと思います。コモディティなので、「稼ぎ」は生み出せても「儲け」にはならない。原発で倍の安全性を確保できても電気料金が倍額もらえるわけじゃないし、スキルが高くて意識の高い運転手をそろえても高い運賃には繋がらない。それでも長期的なリスク回避になる、と考えてその部分に地道に投資を続けていると、どっかのファンドが乗り込んできて「そんな余裕があったら来期末に株主に還元しろ」と迫るわけです。
要するにその部分は、コストダウンの対象になる。金は払わないけれど品質は上げろ、いやなら代わりの人間はいくらでもいるから、って話です。
最近の経団連会長の談話なんかを読んでいると、どうもこの国の財界はこの風潮に最適化していこうとする雰囲気が仄見える。

典型的にいまの中国がこういう発想で国を挙げて突っ走ってますよね。まぁあの国は「自国民の犠牲」を単なるリスクファクターとして計算できる(自国民の餓死程度なら必要な犠牲として計算できる)体制が整っている、と云うのもありますけど、基本的にはこの国も同じ方向に向けて走り出しているのかな、と云う気がちょっとしています。
by pooh (2007-08-07 07:56) 

ちがやまる

どこを基準点(ゼロ)にして測るかが違うだけで、poohさんと私は同じものをとらえようとしているらしいと思いました。株式市場等は社会全体のリスクを反映するとは限らない。そのリスクをどのように経済活動に織り込んでいけるか、フィードバックをかけられるか、という問題なんですね。人ひとりの値段を算出して標準化する、みたいなことが電気料金を設定するような場合にも冗談でなく必要になるかもしれないと思います。とりあえずの合意だけで進んでいくと、合意に参加できない子孫達に「砂漠化」「核のごみ」「地域社会の崩壊」が残されるというような事態になる恐れもありますし。では電気料金の設定に何を追加して考慮すべきかリストアップしろ、といわれても私には無理なわけですが。
by ちがやまる (2007-08-07 10:20) 

pooh

> ちがやまるさん

おそらくテクニカルにはおっしゃるようなことなんだろうな、と思います。
ただ(いつも経済学っぽい視点を持ち出すのはぼくのほうなのでなんだか逆ですが)「働く」と云うことを本当にそういうふうに捉えていいのか、と云うところが疑問なわけです。

例えば介護事業なんて、おそらく低賃金で人間を使い捨てにしないと「儲からない」。介護に従事する人間が頑張ってスキルを上げて結果賃金が上がるくらいなら、賃金の低い低スキルの人間に入れ替えたほうが「儲かる」訳です。で、ついでにありとあらゆる法の隙間やピンはね技術を利用して出費は極力抑える、と云うのが、事業者が資本市場に求められるビジネススタイルだったりするわけです。
で、これは介護事業だけの話ではない。資本主義社会の「基本」です。

なんか漠然とした言い方で申し訳ないですが、絶対にどこかでしっぺ返しがあるような気がします。
by pooh (2007-08-07 12:21) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。私の得意分野なのでね(笑)。

なんていうか、経済がマクロ化することで、いろんな規範が断片的に一人歩きしているのが現代のような気がするわけです。

たとえば、10人くらいの町工場だと社員は自分の工場が儲かっているか苦しいのかすぐわかるでしょ。社長だって社員の状況を良く知っている。

「社長~、今度3人目が生まれるんですよ。今の給料じゃやってられません。なんとかしてください」
「うーん。わかっていると思うけど、今原料の高騰でぜんぜん儲けが無いんだよ」
「それはわかっているんですけどね。でもこっちだって生きれないです。私がんばって働いてますでしょ」
「うん、お前ががんばっているのは良くわかるよ。じゃあ今度、お客さんと価格交渉してその結果がよければ、必ずなんとかするよ」
「一円でもいいから価格上げてもらってくださいね」

なんてのは架空の会話だけどね。そういう部分が会社が大きくなると消えていくわけです。さらに社会がそういう大きな会社の論理で動きはじめると、こういう互いに分かり合う関係の会社でも

「だめだった、価格は据え置きだった」
「社長~、それはないですよ。なんとかしてください。」
「そう言われても」
「てやんでぃ、へぼ社長め」

なんてね。こうやって人間的な部分がつぶされていくわけです。
by 技術開発者 (2007-08-08 04:55) 

pooh

> 技術開発者さん

規範の断片化、ですか。なるほど。
で、多分その断片化の過程で部分最適化が起きて、「何のための規範なのか」と云うのが見失われる(少なくとも、それを「問う」ことが行われなくなる)と云うことが生じるんでしょうね。

なんかもやもやしてるんですよ。部分最適化に向かう規範は社会のなかである程度恒常化した非対称性を背景にしている気がします。でも、その非対称性を維持しようとする営為はそもそもの生産の源泉である社会の活力を逓減させる方向に向かっているような気がします。そうすると、何と云うか社会がシステマティックにゆっくりと自殺に向かっている、みたいな動きがあるようにも見えて。
って、なにを書いているのか分かりませんね(^^;。ちゃんと言語化できません。
by pooh (2007-08-08 07:55) 

技術開発者

こんにちは、pooh さん。

>でも、その非対称性を維持しようとする営為はそもそもの生産の源泉である社会の活力を逓減させる方向に向かっているような気がします。そうすると、何と云うか社会がシステマティックにゆっくりと自殺に向かっている、みたいな動きがあるようにも見えて。

そのとおりなんです。私がこさえた「キンベン村物語」というたとえ話があるのですが、1000人がキンベンに働いて喰っていける村に、突然2倍の収穫ができるタネがもたらされる訳ですね。でもって、今まで通り働くと食い物が余ってしまう訳です。「食い物が余るのはもったいない」という規範で「作り手が多すぎる減らそう」となり、「働かざる者喰うべからず」で半分の村人を村から追い出すなんて話です。でもって次の年もなぜだか食べ物が半分余る。なんてね(笑)。私がこの話を労働組合の機関誌に書いたのは1980年代のバブルがはじける直前だったと思います。まさか、その後に現実のデフレスパイラルがあれほど形通りに起こるとは思っていなかったのですけどね。

社会のシステムというのは目に見える上のシステムを、個々の人間が持つ規範性というなかなか目に見えないものの上に乗っている様な気がします。そしてその規範性というのはその一つ前の世代の時に醸成されている訳です。高度成長のシステムを支えた個人の規範性は戦後の焼け野原の中で「喰うためにがんばらなくちゃ」の規範性であり、高度成長が終わった後の多様化の時代を支えた個人の規範性は、高度成長期の「頑張ればその分だけ報われる」であったわけです。では、今の時代、システムも混沌としているけど、個人の規範性は何時の時代のどんな風潮から得られているのかを考えてみると良いかも知れません。
by 技術開発者 (2007-08-08 08:25) 

pooh

> 技術開発者さん

この議論、じつは以前このブログのコメント欄にあった議論に繋がってくるような気がして。で、探してみました。
このエントリですね。

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-01-16-1
(もう半年以上前だ)

どうなんでしょう。そこにあるのは「社会および社会規範の経済に対する過適応」の問題なのか、それともそもそももっとクラシックに「資本主義による疎外」の一変奏なのか。どちらにせよあまり地べたから遠い地点での一般論的な議論にしてはいけない気がしますが。
by pooh (2007-08-08 12:04) 

かも ひろやす

働くひとたちに敬意を払わなくなったんじゃなくて、敬意を払っていないことが見えやすくなったんじゃないでしょうか。働くひとたちに敬意を払っていないことは、昔も今も替わらないような気がします。

だって、女性従業員に結婚を理由に退職を強いていたのも、水で薄めた牛乳を牛乳と称して売っていたのも、高度経済成長期のことですよ。
by かも ひろやす (2007-08-08 22:37) 

pooh

> かも ひろやすさん

あぁ、そうかも知れない。自分自身のバイアスはあんまり見えてないかもです。

うむむ、難しいなぁ。可視化されるべきものが見えて来ている、と云う意味ではいいことなのかもですが、ただそれを基準に新たな規範が出来上がるようではなんか進歩がないしなぁ。
by pooh (2007-08-08 22:56) 

FREE

こんばんは

少し乱暴に言うと敬意や尊敬って経済的なものを伴わなくてもよい訳で、人や社会が対象とされる個人にきわめて低コスト(もしくはコスト0)で褒章を与えるものですよね。つまり経済的な価値と非経済的な認識上の価値(何をよいと思うか)が両立されている、もしくは両者が違う層のもので比較されるべきものでない了解がある中でしか成り立ちえません。

で、労働が経済的側面というか金銭的側面でしか見られなくなった時点では成り立たないのではないでしょうか。金銭を得る効率が高いほど労働は高いと評価されます。
 労働に対して金銭以外に測る尺度が他にあるのかという問いがあるわけです。そしてその尺度が社会に了解されるのか、了解する基盤は何なのか、金銭と違う層に分離できるのか。清貧という言葉が建前としてさえの価値を維持しているのか。
 
フーコーが「精神疾患と心理学」の中で精神病が病気として社会が認知し、隔離を行い、やがて犯罪者と同列に扱われ、矯正すべき対象として位置づけられたのは、産業革命・近代の成立があったと論じています。生産に携わらない人は、生産をおこなうという社会の要請から見たら悪である。だからこそ町の変わり者から病人へ。働かざるもの、怠け者、犯罪者と同列になり刑務所に収監されたわけです。治療・矯正し生産する人への変化を必要とする過程を土壌として心理学が生み出されたと語っています。

共通するものを感じます。もしかしたら近代成立から変わっていないのではないでしょうか。
by FREE (2007-08-09 00:18) 

技術開発者

こんにちは、poohさん。

>そこにあるのは「社会および社会規範の経済に対する過適応」の問題なのか、それともそもそももっとクラシックに「資本主義による疎外」の一変奏なのか。

人間の基本仕様で言うと、人間というのは目の前の規範の元になる大前提に思いをいたさずに目の前の規範に盲従しやすいものであるとなるのだろうと思います。そして、そのような人間の持つ文化には、大前提に立ち戻るための部分も含まれていて社会が大前提を忘れた行動に走り始めると、poohさんが感じているような不安感・不安定感が現れるのだろうと思うわけです。

あまり三段論法などは得意ではないけど、「人は豊かに幸福に生きるべきである」「豊かになるには生産を高めなくてはならない」「生産を高めることは良いことだ」という形で生産性の向上に寄与することを善とする規範が生じるとしますね。ところが「生産を高める」のみが一人歩きすると「労働者を不幸にしても生産を高めればよい」となってしまうわけです。そのとき、労働者が社会の構成員であるということを思い出すなら、大前提に反していることがわかるわけですね。

実のところ日本の社会はこの「大前提に立ち戻る」ための装置を壊してしまっている面があるので、文化としての「大前提への立ち戻り」が行き場を失っているわけです。イギリスで産業革命が起こり、多くの熟練工が職人ではなくただの工員として過重労働を強いられたときに起こったのは「機械打ちこわし運動」であったわけですね。そういう暴動型の「大前提への立ち戻り」は社会へのダメージが大きすぎるので、やがてチャーチスト運動となり労働者の参政権を生み、政治を通じて大前提に立ち戻るという装置を生み出してきたわけです。そして、今、日本ではその装置が壊れているので、おそらくは機械うちこわし運動に類似したものが発生するまで大前提への立ち戻りは起こらないのかもしれないと危惧しているわけです。
by 技術開発者 (2007-08-09 04:49) 

pooh

> FREEさん

> 労働が経済的側面というか金銭的側面でしか見られなくなった時点では成り立たないのではないでしょうか。金銭を得る効率が高いほど労働は高いと評価されます。

この辺りぼくの問題把握も錯綜しているんですが、まぁ現実問題そうなっていますよね。ただ、社会規範の基盤として捉える場合には、なんと云うか別の慣性のようなものが働く部分もある気がして、そこが状況をややこしくしている(少なくともpoohの問題把握をもつれさせるくらいには)のかなぁ、と。

> 共通するものを感じます。もしかしたら近代成立から変わっていないのではないでしょうか。

メカニズムそのものは変わっていないかもしれません。ただ、いまここに問題があると考える(poohはそう考えてます)以上、相手が常在するメカニズムであっても「だからしょうがない」話にはならない気がします。まぁ、市場経済というものはそういうものなんだろうな、と云うふうには思いますが、だからそのままでいい、と云う結論しか導けないわけでもないのじゃないかな、とか思います。
by pooh (2007-08-09 07:57) 

pooh

> 技術開発者さん

社会規範と云うのは複数の相反する利害関係のはざまにあるものなので、特定の立場のステークホルダーの間に非対称性があれば何もしなければそちらに傾くし、それが社会全体の運営に支障をきたす水準になればカウンターが生じる、と云うのが本来のメカニズムですよね。

カウンターが発生しづらくなっているのかな。それとも表面化しづらい、あまり実効性のないかたちでしか発生していないんだろうか。
こういう状況だといざ発生したときにはそこそこ破滅的なものになりそうですが、いま社会規範を自分たちにひきつけている側のひとたちはその種の危機感はないのかな。コントロールできる自信がある、と云うことなんだろうか。
by pooh (2007-08-09 07:59) 

ちがやまる

「暴動型の「大前提への立ち戻り」は社会へのダメージが大きすぎるので、やがてチャーチスト運動となり労働者の参政権を生み、政治を通じて大前提に立ち戻るという装置を生み出してきたわけです。」(技術開発者さん)
装置には、「労働組合」や「生存権の保証を根拠とする国の介入」などがあるわけですよね。それらが機能しなくなったとすればそれは何故か、を考えてみればいいのなら、、、やっぱり「グローバル化」で企業も国も決定力を失ってきている点があるのではないでしょうか。
by ちがやまる (2007-08-09 14:27) 

かも ひろやす

「水で薄めた牛乳」は「植物油で水増しした牛乳」の誤りでした。訂正します。

高度経済成長期のデタラメを反省して厳しい規範を新しく作ったのに、それに適応できていない人々がいると、私は認識しています。

たとえば、ミートホープ社が最近行ったこと(牛豚あいびき肉を牛100%と偽称して売る)は、高度経済成長期にほとんどの飲用乳メーカーが行っていたこと(脱脂粉乳とヤシ油を水で溶いた飲料を牛乳と偽称して売る)と、本質的な違いはありません。でも、ミートホープ社はつぶれて、飲用乳メーカーは今も存続しています(雪印乳業を除く)。食品の表示に関する規範が厳しくなっているということですよね。

問題なのは、適応できないのは規範のほうが悪いと公然と主張し、昔の規範に戻そうと動いている人々がいることですね。

蛇足ですが、脱脂粉乳とヤシ油を水で溶いた飲料を売ることは、今でも問題ありません。ただし、その場合は「乳飲料」と表示しなくてはなりません。「牛乳」と表示して売ることが、食品衛生法違反です。
by かも ひろやす (2007-08-09 15:55) 

pooh

> ちがやまるさん

なんかそれ、多分ひとつあるんでしょうね。国が「社会」のなかのいちプレイヤーでしかない、と云う状況と云うか。神聖グローバル経済帝国のいち諸候、みたいな。

でも安サラリーマンの実感からすると、国は神聖グローバル経済帝国のなかでの自分たちの利益代表者では現時点ではないような。
by pooh (2007-08-10 00:13) 

pooh

> かも ひろやすさん

> 問題なのは、適応できないのは規範のほうが悪いと公然と主張し、昔の規範に戻そうと動いている人々がいることですね。

政治的な理由で「規範を緩めるべき(=社会全体により高いリスクをとらせるべき)」と云う主張になるのでしょうか。でもそれは自分たちのコストの社会への転嫁ですよね。
by pooh (2007-08-10 00:17) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。

>やっぱり「グローバル化」で企業も国も決定力を失ってきている点があるのではないでしょうか。

まず、個々の国の中で「つながりを考察する力」が失われているわけです。たとえば、100人の村で1割ほどの「食えない人」を作り出したら、その生活をどこかで見ないわけには行きません。そして、その人たちの一部が畑の作物を盗んだときに日ごろから見ている生活と思い合わせることで、「追い込まれた人を作り出せば村の治安は悪化する」は直感的にわかります。しかし、1億人の国で百万人の貧困層を作り出したときに、貧富格差の増大と社会治安の悪化の関係は概念的になります。私は「貧富格差の増大を放置すれば、普通の年収の庶民の子供を誘拐して数百万円の身代金を得ても引き合うところまで、犯罪の価格は暴落する」という言い方をしたりしますが、現実にそうなっている国もあるわけですね。庶民にとっては貧富格差の拡大というのは「自分や家族が貧困層に落ちないでいたい」という意識しか今のところ生まれていなくて、「自分わずかなたくわえを狙って子供が誘拐されるようになる」なんて想像は働かないわけです。そのため「自分が貧困層に落ちないためには景気が少しでも良くなればよい」と貧富格差拡大の政策を支持する形の行動を起こすわけです。貧富格差の拡大は確かに競争意識を高めて景気を上昇させる効果はありますからね。でもその結果として自らを守るための家計支出はさらに増えるのですけどね(今に送迎つきの学校が当たり前になるでしょう。その費用はもちろん家計からです)。

私はテロリズムを憎みますが、同時にテロリズムを生み出す「貧困」をより強く憎みます。なぜアフガニスタンにタリバーンという狂信的なテロ組織が生まれたのかを考察すれば、そこには当然のよう「国際社会に忘れら去られたことによる厳しい貧困」の問題が見えてくるわけです。国際的にも「貧富格差の増大は犯罪やテロの価格を低下させる」というつながりは存在するわけです。
by 技術開発者 (2007-08-10 05:24) 

pooh

> 技術開発者さん

もうなんか印象論なんですが、どうにもこの国をドライヴすべき場所にいる選良たちが「既得権者」としての振る舞いを選んでいるような気がします。なんかこういう言い方は自分でもどうかなぁ、とか思うんですが、搾取側にいる人間と、新しい方法を生み出して搾取側に回ろうとする人間がいて、このひとたちにとっては非対称性を前提にした「市場経済」は便利なんだろうなぁ、みたいな気がしてしまう。

> 国際的にも「貧富格差の増大は犯罪やテロの価格を低下させる」というつながりは存在するわけです。

なんか「富の定義」と云うものをどこが握っているのか、と云う漠然としたことも考えたりします。現時点で富の定義をする権限はプロテスタンティズム文化が握っていて、その定義に従う限りプロテスタントは「富む」ために最適化された行動を取りやすいわけで。それは倫理にも信仰心にも適う。
で、それは別の文化にはそれほど親和性はないのかも(よく分かっていないまま書いてしまいますが、現在の金融市場は、倫理的にはプロテスタンティズムだけにしか容認されないようなあり方をしている気がします)。だから世界の相当部分を占めているイスラムは基本的に貧困の側に置かれざるを得ないし、豊かになるためには社会倫理そのものを完全に変えなければならない、みたいなことがあるような気がします。自らのありかたを守ろうとすれば、経済の代理戦争としてのテロはなくしようがないのかも(だからテロを受ける側も、武力による対抗しか「倫理的に」選べないのかも)。って、ここまで云ってしまえば妄想ですけどね。
by pooh (2007-08-10 08:00) 

かも ひろやす

短期的な利益のために長期的なコストを無視する構造は、高度経済成長期にすでにあったんですよ。それが極端な形で現れたものの一つが水俣病です。

水俣病は、チッソが水銀化合物を含む廃液を水俣湾垂れ流していたのが原因でした。だけど、水銀化合物を含む廃液を捨てていたということは、その分だけ水銀を新規購入していたということです。水銀は安価なものではありません。詳しい方に当時の水銀と回収設備の価格から計算してほしいのですが、廃液から水銀を回収して再利用したほうが、当時としても得だったはずです。ところが、彼らは目先の設備投資をけちって垂れ流しを選び、その結果があの惨事です。

言いたいことは、職業上の矜持なんてものは高度経済成長期からすでになかった。その結果、高度経済成長を通してたくさんの失敗をした。問題は、その失敗から現在のわれわれがどれだけ学ぶことができるかだということです。
by かも ひろやす (2007-08-10 13:49) 

ちがやまる

チッソは、工場内の医師による患者の発生やネコを使った原因に迫る実験についての報告を受けてからの対応がおかしかったですよね。「谷中村滅亡史」(岩波文庫)に現れているのと似た感じがします。これは世代論ではとらえきれないように思います。日本独特のものであるかは知りませんけれども、興味はひかれます。

無機水銀の回収はしていただろうと思います。もちろんある程度の割合は捨てられていたでしょう。メチル水銀が出る可能性のあること、それを洩らしてはならないことが軽くみられていたわけです。フロンもオゾン層破壊の事が知られないうちは便利に使われ、私も軽い気持ちで捨てたことがあります。
http://www.nimd.go.jp/archives/tenji/a_corner.html
by ちがやまる (2007-08-10 19:41) 

pooh

> かも ひろやすさん

おっしゃることは分かる気がします。と云うか、こういう話ってどのくらいの時間的スコープで見るのが正しいのかなぁ(いや、曖昧にしてるのはぼくですが)。

昔はよかった系の話にする気はさっぱりないんですが、でもほんの何年か前まで「働くひとは偉い」ってのがあったような気がするんですよ。
by pooh (2007-08-10 22:16) 

pooh

> ちがやまるさん

お書きのURL見ました(しかしひどいつくりのサイトだ)。うむむ。

この種の力学は、今も昔もあるんだろうな、と思います。でも、例えばチッソの経営陣は水俣の地域住民の犠牲を「計算可能なリスク(訴訟リスクではなく、その人間の人生が損なわれるリスク)」として最初から扱っていたわけではないんじゃないでしょうか。だとすれば、ちょっと元エントリとは違った問題かもです。
by pooh (2007-08-10 22:27) 

ちがやまる

本来の主旨からはずれて、水銀の回収はしていたでしょう、という小さくテクニカルな修正意見を述べるだけのつもりでした。私の中では、「職業上の矜持」は、将来世界の経済格差が準安定状態に達した時に、各地の歴史や現在尊ばれる自由・人間性などの価値が生き延びるだろうか、という関心に変わっています。
でも、たしかにそちらの関心から「水俣」「谷中村」をながめることもできますね。「らい予防法」「年金問題」なんかもつけ加えてみましょうか。どれも人間の人生を勘定する問題です。そしてどれもProtestantismische Ethikとはほど遠いところの話です。これらは日本独自というのではなく、よその国にもあるだろうと思うのですが。
by ちがやまる (2007-08-11 00:06) 

pooh

> ちがやまるさん

ごめんなさい。かも ひろやすさんにいただいたコメントとワンセットみたいに読んでしまったので、お返事の仕方が入り交じってしまいました。

うむむ。なんと云うか、事象を見ている角度の相違をおふたりには感じます。もちろんそれが悪いことだったりはしなくて、でもぼく自身が論じようとしている立脚点をうまく説明できない(と云うか多分いくらかゆらいでいる)ので、ぼくがひとりで混乱しているのかも。

> そしてどれもProtestantismische Ethikとはほど遠いところの話です。

これはどうなのでしょう。
ぜんぜん整理できてなくて勘だけで書いてしまうようで申し訳ないのですが、なんとなく絡まり合ったふたつの事象が存在するような。「異文化の支配力を持った侵入による共同体の変質または解体」と、「その異文化がプロテスタンティズムを背景にしていることによる変質の方向性」が合わさったことをぼくは考えようとしているのかも。って、これってそうそう簡単に論じられることではないような。
稲葉先生の本でも読んでみようかな。
by pooh (2007-08-11 08:52) 

かも ひろやす

個人的な体験、といっても、同世代の3‰ぐらいは共有しているであろう体験についてです。

高度経済成長期は、色覚異常者に対する就職差別・就学差別が公然と行われていた時代です。募集要項に、「色盲・色弱でないこと」と堂々と書いていた大学や高専がたくさんありました。募集要項の記述の有無にかかわらず、ご丁寧に石原式検査表を使った色覚検査をして、色覚異常が検出されると不合格にしていた学校もたくさんありました。この種の差別はかなり最近まで続き、ほぼ撤廃されたのは、1990年代に入ってからです。

オイルショック期に小学生をしていた私にとって(わ、自ら年齢を暴露してしまった)、これは深刻な問題でした。私は中等度第一色覚異常をもち、そのころから理学系の進学を考えていたからです。

そういう体験があるので、高度経済成長期には職業上の矜持があったという類の言説には納得できません。乱暴に言えば、「私らに理不尽な差別をしておきながら、何が矜持だ。ばかやろう」という反発ですね。
by かも ひろやす (2007-08-11 10:12) 

ちがやまる

プログを運営されるpoohさんの方針が、コメント投稿者がpoohさんと対話をするのであって投稿者どうしが議論しはじめないほうがいい、という事だったと思いますので深入りはしないつもりですが、私は、かもさんがおっしゃる「高度経済成長期には職業上の矜持があったという類の言説には納得できません。」というお考えに同意します。
上に書いたつもりでいるように世代論でわかった気にならないよう自戒はしていますが、戦争のあとモラルを考慮するゆとりのない時代がたぶんあって(「蛍の墓」や原民喜のエッセイを思い出していますが、地方や立場、個人による違いも当然あるだろうと思います)、その時代に子供時代を過した人たちが労働者派遣法などによる現状を作ってくれているように感じています。今問題になっている労働者派遣は、当初はプログラマーなど専門性があって一時的なマンパワーが必要になるような職種だけで認められたものですし、その前は直傭以外の労働契約は禁止されていたのです(よね)。そんな感覚からすると、1960~70年代になってぽっかりモラルを考慮する時代が現れたなんてとても考えられません。
「高度経済成長期には職業上の矜持があったという類の言説」をするなら、「職業上の矜持」とは何か、他の時代にはどうであったか、を示してほしいように思います。
by ちがやまる (2007-08-11 22:15) 

pooh

> かも ひろやすさん、ちがやまるさん

レスポンスが遅くてすみません。と云うか、ぼくは自分になにが分かっていないのかまだよく分かっていないんだと思います。

ひとつにあるのは、ぼくが行動経済成長期を多分最後の辺りからしか知らない、だから実際にはぼくの書いたことがとても短い時代認識においてしか有効でない可能性がある、と云うことかもしれません(その意味で「『高度経済成長期には』職業上の矜持があったという類の言説」はさすがにぼくはしていないと思います。よくも悪くももっとぼけっとした認識に基づいている)。

ただ、「本源的なサービスを提供することは価値のあることだ」と云う規範が、少なくともぼくの認識できるひと世代前にはもう少し強かった、と云う認識と、「その時代にも悪いことをするプレイヤーがいた」と云う認識は矛盾するんでしょうか。
昔もいまもミートホープ的なプレイヤーはいたでしょう。でもそれは単なる「儲けたいがためのルール違反」です。それと「一般的に認識される職業上の矜持とそれに対する敬意」の話は直結しない気がします。
ミートホープ社もチッソも公に認められないことをしたでしょう。でもそれは、食肉業や化学工業と云う業種がそれをしなければ成立しないビジネスモデルに準拠しているから、経済的な規範がそれらにそのような振る舞いを強要したから、と云うことではないのではないでしょうかね。ぼくはもとのエントリを書いた立場なので固執せざるを得ませんが。
by pooh (2007-08-12 05:03) 

pooh

> ちがやまるさん

> プログを運営されるpoohさんの方針が、コメント投稿者がpoohさんと対話をするのであって投稿者どうしが議論しはじめないほうがいい、という事だった

いや、そう云う話ではないんですよ。ただ、エントリと関わらない議論が延々展開されると困ってしまうことがある、と云うだけで。

社会規範の変遷についての全般的な知識を踏まえて起こしたエントリではなかったことは認めます。なんと云うか、「はたらくおじさんって昔はえらいと思われてるもんじゃなかったのかな」程度の書き方ではあったでしょう。書き方を変えると、「社会に付加価値をつける仕事はその意義を認められていた」と云うか。その「昔」がいつのことだ、はっきりさせてないじゃないか、と云われるとまぁおっしゃるとおりかも知れませんが。
by pooh (2007-08-12 05:11) 

かも ひろやす

かつての「はたらくおじさんは偉い」は「はたらくおばさんは要らない」とセットだったことを思い出してください。最初の頃に書いたように、高度経済成長期の企業の多くは、女性の結婚退職制か出産退職制を公然と実施していたんですよ。

ちなみに、一部の右派は勘違いしていますが、「はたらくおばさんは要らない」は日本の伝統ではありません。江戸時代には、一部の特権階級を除いて、「嫁」は夫とともに田に出たり店頭に立ったりする労働力と認識されていました。

では、江戸時代には職業上の矜持が確立していたかというと、そんなことは全然ないですよね。一部に石田梅岩のような人物もいましたが、大勢としては、職業に貴賤があった時代です。商業を営むことそのものが卑しいこととされていて、商道徳などという概念は確立していませんでした。

牛乳を植物油で水増ししたものを牛乳と偽称して売ることは、当時、飲用乳業界全体で行われていました。チッソは極端な例なので、一プレーヤーのルール違反で説明できるかもしれませんが、「うそつき牛乳」は業界全体の行為です。「うそつき牛乳」の市場からの排除に力があったのは、生活協同組合という外部プレーヤーが作った産地直送というバイパスです。飲用乳業者の職業上の矜持は機能していません。
by かも ひろやす (2007-08-12 07:27) 

pooh

> かも ひろやすさん

いや、おっしゃることはごもっともで。自分の実感できるごく短い期間(たしかに「はたらくおばさんは要らない」は高度経済成長期に成立した規範かと思います)だけで安易に語ってしまったことは認めます。数百年のオーダーにおける労働に対する規範の変遷を踏まえたエントリでなかったことは反省すべきかもしれません。
(そこがエントリの意味について致命的な錯誤を生み出している、ということなのかどうかについて、正直まだ理解は及んでいませんが)

ただ、そうすると「労働によって生まれる本来価値の質を高めようとする努力まで踏まえてコモディティであり、そのことそのものは(懲罰的な意味合い以外では)価値評価の対象ではない」と云う現状支配的と思える規範は本来常態である、とお考えなのでしょうか。

昔はあった職業上の矜持がいまは失われてしまった、と云うことを嘆くエントリではないのはもちろんお分かりのことと思います。品質の高い労働を提供しようとする考え方を仕組み上評価できなくなっているのはどうよ、それは結局損失なんじゃないの、と云うことについてぼくは述べています。お書きの例で云うと、牛乳業界の行動を本質的に非難するための規範は、いまの状況では充分に機能しません(ばれたのが悪い、ルールの解釈を間違ったのが悪い、と云うことになります)。当時もそうだったのでしょうか?

いただいているはずの示唆をちゃんと理解できず、混乱しています。こんな放言のエントリは引っ込めて出直してこい、と云うことなんでしょうか?
by pooh (2007-08-12 09:00) 

pooh

> かも ひろやすさん

追加です。

> 商業を営むことそのものが卑しいこととされていて、商道徳などという概念は確立していませんでした。

これはどうかと思います。網羅的なものでなくとも、確立したものでなくとも、なんらかの規範に準じることがないと商行為は商行為として成り立たないのではないでしょうか。そこに矜持があるとか云った問題とはまた別に。
by pooh (2007-08-12 09:08) 

ちがやまる

「儲けたいがためのルール違反」「『経済的な規範がそれらにそのような振る舞いを強要したから』生じたルール違反」の対極にあるものとして私は「職業上の矜持」ということばをとらえていたのは確かのようです。そこを除いて何か言えることがあるかどうかについては、ゆっくり考えてみることにします。

かもさんがおっしゃることは「職業上の矜持」ということばをはっきりさせないでおいて高度経済成長期『には』そういうものがあった、などどいい加減をぬかすな、という事かと思いましたが、それ以外は何をおっしゃりたいかは伝わってきていません。「はたらくおじさん」とセットになっていたのは「はたらくおじさん予備軍としてのぼくたち」や「はたらかないおじさん」だったのではないかなあ、とかどうしても細部に目がいってしまいます。
by ちがやまる (2007-08-12 09:31) 

亀@渋研X

poohさんの〈ほんの何年か前まで「働くひとは偉い」ってのがあったような気がする〉は、共感できます。経験と印象でしかないんですが。

「お百姓さんやドカチンの人たち、電車などの運転手さんといった人たちは、ややもすると軽んじられているけれども、実際のところぼくらの生活は彼らに支えられているという部分が抜き難くある」「ありがたい」といった感覚かな。それを基礎教養とする人たち、あるいは社会倫理の根本に置いている人たち−−たとえば「ぼくの親やその兄弟たち」といった特定のグループ、教師たち−−がそれなりの数で存在していた、といったほうがいいかな。それが時代に根ざすようなものなのか、あるいはひょっとするとそのどれかの世代か階級に根ざすようなものなのかはわかりませんけれども(ちなみに、ぼくの両親やその兄弟は一方が印刷職人の子どもたちで一方が教員(大学教員)の子どもたちです。

一方で、同じ時代の同世代の人たちの中に「職人や日銭稼ぎの人は卑しく、月給取りの方がちゃんとしている」みたいな差別的な職業観はあったとも思います(学歴と教養を等価にしてしまっていて「教養の有無」といった文脈でとらえてしまうような偏見だったかもしれません)。
さらには、両方を同時に抱えているような矛盾を抱え込んでいる人も少なからずいたようにも思います。「職業に貴賤はないし経済的成功や名声を得る事だけが成功じゃないとは思う、しかし、できることなら我が子は安定した職業についてほしい」みたいなアチャコチャな思いに引き裂かれていた人たちが、確かに多かったように思っています。
また、彼らの多くは「与えられた役割を果たす事」を大変に重視していたとも思います。自分がどう思うかよりも周囲が求める事を重視するような圧力を、確かに十代から二十代初頭のぼくは強く感じて反発していた事を思い出します。

もちろん、身近にも例外はありました。医者以外は「ふつうの人」(つまり世の中は「医者とふつうの人」でできている)と言い放つような1970年頃の弘前大学医学部長夫人とか。拝金主義的なことを言う人もいました。が、それは大人社会でも例外とされ疎まれていました。あるいは「あけすけ過ぎる本音」であって、「それを言っちゃあおしまいよ」と困っているだけだったのかもしれませんが。

思えば、母やその友人知己の多くは「専業主婦でいられる幸せ」を感じつつ「職業婦人」と「八百屋のおばちゃん」がイコールなのかそうでないのかをめぐって、内心に煩悶を抱えてしまう女性たちだったようにも思います。ブルーカラーとホワイトカラーという図式に当てはめる世間知もなかったというわけでもないと思うのですが、『暮らしの手帖』(花森安治)や『婦人の友』(羽仁もと子・説子)が彼女らのオピニオンリーダーだったんじゃないかな。

どう分類すればいいんだろう。新興プチブル? リベラリスト? 良心派? なんか、どれでもしっくり来ないんですが。
ひょっとすると、poohさんの親御さんをはじめとする周囲の大人たちや出会った教師たちも、上記のような人たちと共通点をもっていて、それが「高度成長期には」という思いとつながっているのかもしれませんね。
by 亀@渋研X (2007-08-12 09:53) 

亀@渋研X

あああ、なんか、上のコメント、グチャグチャですね。
「だからなんなの」みたいな(汗

まあ、ふと思った、ってことでご寛恕ください。
by 亀@渋研X (2007-08-12 09:57) 

pooh

> ちがやまるさん

なんかまた話を拡散してしまうようですが。と云うか、ちがやまるさんとかもさんに応えられるだけのことを自分が果たして云えるのか、議論のステージに誠実に立ち続けられることができるのか、と云うところからそろそろ自信を失いつつありますが。

> 「儲けたいがためのルール違反」「『経済的な規範がそれらにそのような振る舞いを強要したから』生じたルール違反」の対極にあるものとして私は「職業上の矜持」ということばをとらえていたのは確かのようです。

なんと云うか、これが「ルール」の話だったら、現状でも「ルール」は有効に機能しています。ルール違反にならないためにルールを変える、あるいはルール違反をつくるために運用方法を恣意的に変更する、と云うことを含め。で、これはとても有効なので(「ルール」に抵触しない以上罰せられないし、ルールの適用範囲を変えれば自在に罰することができるわけですから)、それができる位置に昇ろうとすることが重要で、合目的で、云ってしまえば規範に準じた振る舞いになるわけです。で、それでいいの? と云うのがエントリの主旨でした。
だからと云ってルールにないことを「社会的規範」の名のもとに強要するのがいいことではないのも当然なのですが。

> 「職業上の矜持」ということばをはっきりさせないでおいて高度経済成長期『には』そういうものがあった、などどいい加減をぬかすな、という事かと思いましたが、それ以外は何をおっしゃりたいかは伝わってきていません。

ぼくもそのようなことをおっしゃっていると理解しました。高度経済成長期云々はもともと頭にあったわけではないのですが、漠然と言外にそう云う意識があったのかもしれませんし、ぼくが自分で気付いていないそう云う部分について(気付いていないと云うことを含め)ご指摘いただいているのかも知れないな、とは思います。
と云うかそもそもぼくのエントリの重点は「昔はあったのに」と云うことにはなかったように思います。そう云う書き方をしている部分はあるので、その点が言語道断に不注意である、と云うご指摘だとすれば、これは承らせていただくしかできませんが。

ただ、あぁ、やはりそこまで考えるべきだとすると、このテーマは少しぼくには荷が重いのかも。黙ってろ、と云うことなのかも知れませんが。
by pooh (2007-08-12 09:58) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

すみません。出掛けなければいけないので少しだけ。

ぼくは世代的に「高度成長期」と云うものになにかしら中身のある実感はないんですよ。「三丁目の夕日」とか云われても、なんだかよく分からないわけです。だから、「あの頃にはもっとまともな規範があったのに」と云うことが云いたいわけではなくて。

世代論になってしまうのかな。むしろぼくの意図は「金融論」とか「世界システム論」にあったんですけど。問題はひとえにぼくのエントリの書き方の拙さ、安直さにあったのか、それとももっと深いものなのか(そもそもpoohには論じ得ないような事柄についてエントリを起こしてしまったのか)。よく分からなくなっています。
by pooh (2007-08-12 10:05) 

技術開発者

こんにちは、皆さん。少し雑学を語りますとね。

商道徳を含めて社会道徳というのがそれなりに形をなして意識され始めるのは江戸時代の初期になります。平和な時代になり多くの武家が自らの家の武勲を整理して人に示せるようにするとともに、子孫に向けて「家訓」を整理し始めるわけです。でもって、その家訓というのは格調を高くするためもあって、武家が統治を行うということの社会的な意味合いを強調するものであったわけです。そして、そういう武家の家訓作りに刺激を受けた商家にも家訓のようなものができてくるわけです。

なんていいますか、ここで交わされている「過去にも無いんだ」的議論こそが現代を示している気がするわけです。商家が家訓を作ったからといって、そうそう完全に従ったわけでもありませんし、家訓に反したことなども行われてきたわけですからね。

考え方としては「道徳的なこと」を形式的に示してきたそういう動きを「意味があり価値がある」とするか、「どうせ守られなかったのだから、意味も価値も無い、存在しなかったことにしよう」と、そういう形式として示す動きの価値や意味も含めて否定するかの違いなんです。

もともと「商人」とか「商売」という言葉も侮蔑的な意味の言葉です。およそ3千年ほど前ですけどね。太公望で有名な殷(商)周革命により商という国が政権を失い、土地という生産力を奪われた商の人が物の売買により生活し始めたときに「あいつは商の人である」「商の人が売り買いをする」と言うことでできた言葉が商人であり、商売であるわけです。今、商を政権を失った国の名前と意識して使う人はいないでしょうけどね。
by 技術開発者 (2007-08-13 05:20) 

ちがやまる

私はまた次の機会に議論が深まることを期待して一旦撤退しますね。私がかき乱した分くらいを、ちょっと片付けがてら話をもどしておきますが。
矜持って個人が抱く「ほこり」ですね。それが単なる想定ですまなかったのは現実(他者との関係)に影響したからで、それは金銭関係で量れる場合もある。製品の評価や取引などについて一定の慣習ができている社会で、ある職人がA+a円(a>0)で売り渡せる製品をA円で売る、という形で「ほこり」を表現することができる。aは脳内から持ってくるわけではなく、自分や家族の食べ物を減らしたり、共同体への出資を減らしたりして捻出します(「職人」が生きている共同体を再生産するための経費なんかも等価関係で量れているとします)。この職人が自分の意志として簡単にa円を出せなくなる状況は、収入が減少して生きていくのがやっと、というふうになった場合とかが考えられます。他には「製品の評価や取引などについて一定の慣習ができている」という仮定は海外から安い商品が入ってきた場合などにくずれますし、「共同体への出資」は制度が動く時にはきわめて難物でしょう(私有財産制と入会権なんかを思い出していただくといいかもしれません。というか郵便局や医療費はまさにこれではないでしょうか)。この場合には個人の意志を価格に表現しようとしても相手に伝わらないでしょうね。
by ちがやまる (2007-08-13 08:38) 

かも ひろやす

過去にはあった「働くことへの敬意」や「職業上の矜持」が近年薄れてきていて、それが一因で現在さまざまな問題が生じているというのが、poohさんの認識であると理解しました。そうではなく、過去に起きた不都合な出来事への反省から作られた新たな規範を守らないプレーヤーが、現在、問題を起こしているのだというのが、私の認識です。女性の結婚退職制や「うそつき牛乳」を例にあげたのは、そのためです。「結婚を理由に女性従業員に退職を強いてはならない」も「主要成分の一つが牛乳由来でない飲料を牛乳と称して売ってはならない」も、当時の「働くことへの敬意」や「職業上の矜持」にはありませんでしたよね。(チッソは、適切な例ではないかも)

われわれの規範は、一進一退しながら、総体的には進歩しているんです。ただ、いつの時代にもいる規範を守らないプレーヤーが現代もいて、トラブルを起こしています。また、規範の進歩が現実の変化に追いつかなくて起きているトラブルもあります。

安全な電車の運行についても、尼崎事故を起こしたJR西日本がいる一方で、近江鉄道や紀州鉄道という模範的な例も存在するのですから、
社会の規範意識のせいにするのはあたらないでしょう。近江鉄道や紀州鉄道が大赤字を出しながら安全運行のための投資ができるのは、株主や沿線住民の理解があってのことですから。社会全体の意識の問題にしてしまうと、かえって、尼崎事故の社会への責任転嫁を許してしまいます。
by かも ひろやす (2007-08-13 13:04) 

FREE

職業の誇りは自分が社会の一部でも支えているという認識と、その職業の内容が代替不可能なものであるという思いからだと思います。また職業への尊敬はその職業の恩恵を受けていることの認識と代替不可能なものであるという認識があるからだと思います。
そこには生産性だとか利益率だとか賃金だとかというレイヤーでなく、支えあう・必要不可欠であるという社会に対して担っていることへの認識が共通しているという前提が必要はないでしょうか。(それが実際無くてはならないものであるかどうかは別です)
職業に対しての尊敬が薄れていくのは代替可能だという認識が大きくなって、職業が人に着く属性ではなくロールというか役割というかポジションでしかない事へと変化した面があるのではないでしょうか。

あと、仕事に対する「かっこよさ」って考え方も薄れているのかも。
かっこよい仕事が儲かる仕事になっちゃったってこともないでしょうか。
by FREE (2007-08-15 22:39) 

ちがやまる

職業の誇りを価値観の中に含む価値体系は、どんな共通した性質があるか、とか、それを生む社会の基盤には何が必要か、という方向からのアプローチですね。「差さえあう」:自分が構成する社会や、他の構成員に対する信頼・愛が必要らしいというのは私にもそうらしいと思われます。「代替不可能であるという思い」は本当に必要であるとは実感できません。

私の住んでいるところの南方に漆器を作るところがあります。筆で漆をぬる塗師は何年もかけて養成し、急に倒れられたりしたら工場はその人の担当していた製品の生産をあきらめなければなりません(村に住む引退した人を探し出したりするんでしょうね)。吹付け塗装を担当する人は工場の中でも人数は多いし、代わりも見つけやすいだろうと思います。担当する製品のグレードも違いますし、「誇り」には希少性に由来する分もあるだろうとは思います。問題はその分を差し引いたら「誇り」は消失するのか、吹きつけ塗装担当者は誇りを持ちにくいのか、ですが、この文ではうまく実感を伝えられそうにないのですが、彼らの誇りは別のところにあるように感じました。
じゃ何なんだ、というところを捉えられないままに、とりあえずメモとして提出いたします。
by ちがやまる (2007-08-17 06:18) 

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