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芸術の力(だとぼくが思うもの) [余談]

漠然と前のエントリに繋がる話なんだけど、亀@渋研Xさんちの【種?】投影性同一視と云うエントリのコメント欄でお話ししていてちょっと思った。

美術がぼくにはよく分かっていない、と書いたけれど、ほかのジャンルの芸術についてもまぁ怪しいものだ、と自分でも思う。それでも、文学と音楽については相対的にそこそこの時間となけなしの財力をつぎ込んで来たこともあって、まぁまぁ普通の愛好家程度には分かっている気がする。

で、そのなかには明らかにその後のぼくの人生をいくらかの割合で支配しているものもあって。多分厳密に云えば、何を読もうと、何を聴こうとそれ以降の人生はわずかでも変わっていくのだろうけれど、でもほとんど人生のノード、と云うくらいにぼくの心に深い爪痕をつけ、その外形を変えてしまったようなものがいくつもある。

それが芸術の力だと思うのだ。
それらが残した爪痕が、ぼくの人生をいい方に変えているかどうかは分からない。これは比喩ではなくて、本当に分からないのだ。それは、例えば善悪だとか損得だとか、そう云う理性的に理解できるレイヤーよりもさらに奥底に直接作用している。ある曲のある楽器のある音色にしばらくの間五感を歪められたような感覚を味わったり、ある小説の登場人物のある台詞で半日やそこら立ち直れなかったり、みたいな経験は実際にある。
そしてそれは、意識的な理解と云うものとはまったく違ったものだ。

この「爪痕」の体験は、個人的にはとても大事なものだ。それを探してぼくは本を読んだり、音楽を聴いたり、(時々は)美術館に行ったりしているんだと思う。そうして、そう云う体験をもたらすもの、と云う意味で、昨今「クオリア」と云う言葉が語られているのではないか、とも少し思う(こういう云い方は矮小化かもしれないけど)。

それでも、この体験はそれがどれだけ大きな影響を持つ重いものであっても、ぼく個人のものだ。そこを超えることはない。だからそれが、少なくともふたり以上の存在がないと生じない「社会」や「倫理」に優越するものだ、なんてことは云えない。比較するフィールドが違うからだ。そしてその体験がどれほど重要で、ある意味致命的なものであっても、それを「自分自身」を超えてデフォルトで価値のあるものとする、と云うのは少し違うと思う。

多分人間の脳の仕様と云うものはどれもこれも似通ったものなので、爪痕をつけられる条件も似通っていて、だから芸術の価値を共有することが可能になるのだと思う。でも、ひとつひとつの作用はあくまでもひとりひとりにしか訪れないものだ。そこに宇宙意識もなければ、万物に共通する波動もない。

芸術に感動したとき、そしてその感動を共有できたときに、ぼくたちにはこのことについての錯誤が訪れがちになるんだと思う。その力があまりにも大きいがゆえに。でもそこから直截に「普遍性」のようなものを連想するのは、時としてむしろ危険なこともあるんだろうな、と考える。


タグ:表現
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コメント 2

LINUS

芸術の残す「爪痕」、何だか分かります。人間の脳みそが多種多様であるように、個々人の感動も人の数だけあっても良いですよね。poohさんがおっしゃる通り、芸術は共有とか共感があってこそ成り立つものと考えます。親しい友人や恋人と、演奏会や美術館に足を運び、そこで感じた事を語らうのも楽しいものです。本物のアートはアーティストの手を離れた時点で固有のものとなる筈で、それをどう感じるかは、受け手の問題である気がします。一方で、ボクは音楽が大好きで和洋のポピュラーミュージックのコード進行をコピーしたりしますが、特定のコード進行には特定のクオリアが存在する事も分かります。でもそれをひも解いて何になるのか、と言う気もします。心脳問題とは別の次元で、芸術は「立ち入り禁止区域」にしても良い気がします。それくらいは曖昧に放っておいて良い、と。
by LINUS (2007-07-21 08:21) 

pooh

> LINUSさん

「感動」と云うのは、あくまで個人に(その個人の脳のなかに)訪れるもので。だから、本質的には閉じたものなんだと思います。感動を共有するためには少なくとも2人以上の人間が必要で、だから感動の共有、と云うのは芸術の作用としては二次的なものなんじゃないかと。
だから、社会のなかでは「芸術の与える感動」と云うのはよく語られるよりももっと曖昧なもので。ぼくらはそれを共有できる可能性に夢中になるけれど、でも本質的にはそれは個人の体験を超えることはなくて。共有の可能性は、感動のメカニズムにおける彼我の類似と云うものを前提にしなきゃいけない。

もちろんそれを前提にするのは別段無茶なことだとは思わないんですけど(人間の認知の仕組みは似通ったものなので)、でもこのことを忘れると、感動とか美とか云った本質的に個人的なものと、倫理のような社会的なものの混同が発生するんです。まるでそれらが直結するもののような気がしてしまう。

いま、そう云う言説が増えている気がします。モーツァルトの天才は宇宙の心理に通じる、とか。こういう言い回しを馬鹿げている、と直感できないひとが増えている現状はまずいよなぁ、なんて思うわけです。
by pooh (2007-07-21 08:58) 

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