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こころと命 [よしなしごと]

もうあちこちで触れられているけれど、NATROMさんの信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産と云うエントリを読んだ。

医療について、特にその責任について、科学や代替医療の問題を含めていくつか書いて来た。でもここに見られるのは、個人のこころと社会の倫理、医療の科学面と精神面の、あるぎりぎりの切片のような気がする。

我が子の犠牲を目の当たりにし、選択の過ちを悔い自然分娩はときに危険なものであることに気が付いたというのなら、まだ理解できる。しかし、コラムの筆者は我が子が亡くなってもなお、吉村先生に感謝している。我が子の命よりも、「本当の幸せ」とやらのほうが大事であるらしい。

避けうる危険を避けないこと。そのことで生じる悲劇を、悲劇と認識できないこと。このことを、ぼくらは何らかの問題として認識すべきなのか、あるいは個人の「こころ」の問題として認めるべきなのか。

わからない。ぼくはここで結論は出せない。結論を出せない自分の曖昧さにも、少し恐怖するけれど。


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LINUS

おばんです、poohさん

医療の現場って本当にフクザツですよね。
私はその著作を読んでいないのでどういう内容なのか分かりません。しかし、現在の医療の現場は間違っている気がする。

私はゲイでHIV陽性です。

HIVの薬は随分と開発されてきてはいますが、心のケアがまだまだ不十分です。HIV陽性のMSM(Men who has Sex with Men)のQOL(Quality Of Life)の研究のお手伝いなどをさせていただいています。

現在、性欲がまったくありません。
そのことで特に困る事はないのですが、やはり精神的なもので、現在も精神科に通っています。

拠点病院には厚生労働省からのスタッフも来ますが、随分とお役所仕事な気がします。

また、抗HIV薬の処方を受けていますが、厚生医療を受けなければ毎月10万円以上の医療費がかかります。

製薬会社は儲け過ぎだと思います。

場違いな意見で申し訳ありません。
ちょっと何処に怒りをぶつけて良いのか分からなくて
変なコメントしてしまいました。

マイケル・ムーア監督の『シッコ』が楽しみです。
by LINUS (2007-07-10 16:55) 

pooh

> LINUSさん

これは誰かの著書にある話ではなくて、ウェブ上に公開されていたコンテンツの話です。元エントリは削除されてしまったようですが、魚拓はこちらになります。

http://megalodon.jp/?url=http://www.komeday.com/osan11.html&date=20070706124013

要するに、自然分娩では生まれない状態の赤ちゃんを自然分娩することにこだわったあげくに、母体と赤ちゃんの命を危険に晒し、最終的に帝王切開をしたあげく赤ちゃんを3日で死なせてしまい、それでも「あぁ、自然分娩でよかった」と云っている夫の話です。
この方は自分の思いを貫徹することで、子供の命を縮めた可能性が高いのです。

このブログはニセ科学についての問題をよく扱っていますが、原則として何を信じるかについては(その結果責任を負うことを含めて)それぞれのひとの勝手だ、と思っています。でも、このケースにまでその原則を当て嵌めていいとは思えない。それで、ちょっと悩ましかったりもするんです。

> 私はゲイでHIV陽性です。

LINUSさんのジェンダーについて、推測しかねているところがあったんですが、ちょっと納得しました。ゲイのひと特有の感受性と知性のあり方が、なんとなく感じられていたので。

HIV関係の薬は多分まだどれも新しくて、特許が切れていないんだろうな、と思います(新薬は特許が切れるまで高い薬価が設定されています。そうしないと製薬会社は高いコストとリスクを払って薬品の開発をしなくなってしまう)。特許が切れるとゾロ(ジェネリック)が出てくるので、急激に価格が下がります。まぁこの裏に、果たして厚生労働省の薬価設定が妥当なのか、と云う問題もあるようですけど(ぼくらが買う時点での薬の値段を決めてるのは製薬会社じゃなくて、厚生労働省ですから)。
ぼくにはLINUSさんの「身になって」考えるような不遜なことはでき
ません。ただ、いまの医療に欠けているものを、医療機関みずからの努力で補える社会状況にはないのも事実だと思います。現在のお仕事を通じて、その部分を補っていくことに貢献されていらっしゃるのだとすれば、それはとても大事な、意義のあることだと思います。
by pooh (2007-07-10 22:56) 

FREE

こんばんは
 
「無自覚で無知である事」は問題認識がないので、最後まで無知ならば本人は幸せだと思います。また気付いていないのか、思い込もうとしているのかが微妙です。公言しなければ自分を騙せないとしたら、それは自覚してしまっているので不幸でしょう。書かれたものだけでは判断が付きません。

出産がリスクを伴う事はもはや周知の事実と言えない位、安全なものとされてしまっている現状があります。
 
そして一番問題で考えなければいけないのが「自然」と言うのものに無条件で安心と善と価値を見出す認識そのものです。
自然はそんなに甘くないし、自然なら安全なわけではないと言う事をもっと考えなければならないと思います。少なくとも現在では「自然」に対して付加価値を認める社会が存在し、食品や医療などで自然を前面に押し出し付加価値を付けて見せる商売をしています。自然農法や有機農法は安全であるとか、漢方薬は自然由来だから副作用がないとかがまかり通っています。自然は安全で人工は有害とする事二分法のの危険性を強調しなければいけないと考えます。
by FREE (2007-07-11 01:16) 

TAKESAN

今晩は。

文章に、「せめぎ合っている」感が、私には見えなかったので、自身の正しさを確信しているのかなあ、という印象です<ネタ元
もちろん、色々な葛藤があり、そこからあの文章を書くに至ったとか、ハナから完全に信じ切っていたとか、そもそも、文章に真意が表れていないかも知れないとか、色々な可能性は、ある訳ですが。

「自然」を重視するのは、きくちさんや他の方々も再三指摘なさっている様に、ある種の贅沢なのですよね。基本的に、科学や技術によって生活の基盤が作られているからこそ、そういった贅沢が出来る。あまりに身近過ぎて、科学の恩恵を意識する事が、無いのかも知れません。そこに、反科学的言説を吹聴されると、一気に自然志向に向かうのでしょうね。私もそうだったので、よく解ります。添加物=悪、とか、そんな認識でしたから。ある特定の食べ物を絶対口にしない、というのも決めていたのですが、その理由は、「何となく身体に悪そうだから」、でした。こんなものなのですよね。
無知とは恐ろしいものです。更に、無知による確信というのは、手に負えない程の事もありますね。非常に強固な意思(意志)を、持っているので。
by TAKESAN (2007-07-11 03:15) 

pooh

> FREEさん

悩ましく感じているのは、「本人が幸せならいいじゃん」の範囲はどこまで敷衍できるのか、と云うところだったりします。例えば宗教的制限で「自分の」輸血を拒んで死ぬのは、これは構わないと思うんです。でも、自分の妻は? 子供は? と考えると、ぼくには明快な答えが出ない。

本来自然はとても荒々しい、人間を簡単には受け入れないようなものだと思います。そう云う中でぼくらがぼんやりと生きていられるのはなぜか、と云うことを意識する機会が現在ほとんどないことが、多分逆説的に「自然志向」の根源にあるのだと思います。
by pooh (2007-07-11 06:08) 

pooh

> TAKESANさん

何度か書いていますが、ぼくは基本的に「無知による免責」を認めません。無知によって引き起こされることについての責任は、無知である当人に帰結すべきだと思っています。ただ、このお話はその範疇に綺麗に納まりきれるように思えないのが辛い。

自然志向そのものは、ひょっとすると昔柘植さんのおっしゃっていた「健全な保守性」の範囲に本来入るものかもしれない、と思うことはあります。ただ、どうしてそれが往々にしてドグマティックになってしまうのか、ですよね。
by pooh (2007-07-11 06:13) 

技術開発者

こんにちは、 poohさん。

>自然志向そのものは、ひょっとすると昔柘植さんのおっしゃっていた「健全な保守性」の範囲に本来入るものかもしれない、と思うことはあります。

う~ん。保守的ではあるけど健常とは言い難いですね。なんて言いますか、「健常な保守性」というのは「合理性がはっきりするまでは拒否する」といった一種のバリヤーなんですね。このバリヤーがしっかりしていると、バリヤーを乗り越えて社会に普及したものに関しては、或る程度信頼がおけて、そうそう悩まずに生活できるわけです。でもって逆に、このバリヤーが崩れて、合理的なものも非合理なものも混在するようになると、「何もかも不安」といった感じになりやすくて、その反動として「新しい形を拒否した太古への復帰」みたいな意識も起こりやすいのかなと思います。

私は、自然志向そのものは否定しないのだけど、その自然志向に自分なりの合理性をきちんと確立して欲しいのです。例えば、私はソローの「森の生活」なんかを愛読します。機械文明を拒否して、森の中で生活しながら、思索をまとめた本ですけどね。なんていうか、「車を持たない」なら持たないで、きちんと著者の心の収支決算があるわけですよ。「車がないと不便だと言われる。確かに車があれば私が一日かかるところを1時間でいけるかもしれない。しかし、車を得るための費用や燃料代を稼ぐために私はどれだけの時間を使い、心を束縛されなくてはならないのだろう」なんてね。こういう深い思索の元での自然志向と、「人に踊らされる」自然志向の違いをきちんと理解して欲しいのですね。どこかで読んだ笑い話に不耕起栽培を志した人が「とにかく耕さない」事に専念する話がありました。不耕起栽培というのは「耕さなくても良い」という程度の栽培法で「耕してはいけない」という栽培法では無いわけです。第一、掘り返さないと芋は収穫できないからね(笑)。
by 技術開発者 (2007-07-11 08:16) 

pooh

> 技術開発者さん

あ、そういうことでしたら、ぼくの理解が足りなかったのかも。なんと云うかもっと非合理的な抵抗感と云うか、「なんか信用できない」と云う皮膚感覚に近いもののような気がしていました。当然個々人によって閾値が違うけれどマクロで見るとその社会において水準が共有されていて、一定の水準を突破すると今度は社会全体としてその有用性が共有されて、みたいな。

あれ、技術開発者さんと同じことを言っているような。

分かりました。ぼくは、「社会によって共有された閾値水準」と「特定の個人の閾値」の相違があって、でも質的には同じ力学に基づいた「保守性」が例えばこれら「自然志向」の方たちをドライヴしているのではないか、と云うことを考えていたようです。閾値の違いが抵抗感の強さの違いとなって、一部のひとの行動としてはバックラッシュ的に先鋭化して顕現しているのでは、みたいな。
ちょっと安直な発想でしたね。でも、これって原理はそれほど病的なものではないのかな、とちょっと思いついただけでした。もちろん、原理はどうあれ一定水準を越えてしまったものを「健全」と呼ぶことはできませんよね。
by pooh (2007-07-11 12:01) 

技術開発者

こんにちは、 poohさん。

>ぼくは、「社会によって共有された閾値水準」と「特定の個人の閾値」の相違があって、でも質的には同じ力学に基づいた「保守性」が例えばこれら「自然志向」の方たちをドライヴしているのではないか、と云うことを考えていたようです。閾値の違いが抵抗感の強さの違いとなって、一部のひとの行動としてはバックラッシュ的に先鋭化して顕現しているのでは、みたいな。

これは、それなりに正しい理解だと思います。ただ、「社会によって共有された閾値水準」と「個人の閾値」との間に「影響を与え合う関係」があるということなんです。個人の判断基準が寄り集まって社会的に「これは大丈夫、これは危ない」みたいな判断基準が形成されることは比較的簡単に理解できると思うんだけど、社会の判断基準が個人に与える影響について人は比較的「軽く」みてしまうものなんです。私は社会心理学の成果なども時々紹介するけど、人間の基本仕様の一つに「強い集団追随性」があるのね。心理学実験を簡単に説明すると、1人の被験者を5人くらいのニセ被験者の中において、「間違えそうも無い問題」を与えて順番に回答させるのね。そしてニセ被験者が間違いの回答を続けて答えた後に真の被験者に回答させると、1/3くらいはニセ被験者の回答に引きずられて間違いの回答をするわけです。つまり、たとえば「家で出産するより病院で適当な施療の元で生むほうが安全」とかいう判断基準なんかも「個人の閾値」でありながら、それが集まってできた、「社会によって共有された閾値水準」の影響を強く受けてできている閾値であるわけです。

人間の文化には、もともとの「人間の基本仕様」を良く消化していた面があって、個人が集団の影響を強く受けるのは仕方が無いのだから、集団の判断基準をできるだけ安全側に倒しておくという感じの運用をしてきたわけです。それが、崩れ始めていることを私は危惧しているわけですね。
by 技術開発者 (2007-07-12 04:02) 

pooh

> 技術開発者さん

なるほど。個人に内在するものと社会で共有されるものの相互作用に基づいて運用されていく、と云う部分まで含めての「保守性」と云う言い回しなんですね。ちょっと分かった。

> 人間の文化には、もともとの「人間の基本仕様」を良く消化していた面があって、個人が集団の影響を強く受けるのは仕方が無いのだから、集団の判断基準をできるだけ安全側に倒しておくという感じの運用をしてきたわけです。それが、崩れ始めていることを私は危惧しているわけですね。

これが「今、ここ」の特定の状況を背景とした特別ルールでの運用なのか、それともある条件下で発生する一般性を持つ現象なのか、でちょっと話は変わってくるのかも(後者なら歴史に学びうるかもしれない)。
by pooh (2007-07-12 07:54) 

田部勝也

このような件に対する私のスタンスは、航空・鉄道事故調査委員会に少し似ているかも知れません。
背負いきれない責任・償いきれない罪を犯してしまった人自身に対しては、私が述べる事は何もありませんし、そもそも何も述べる事ができません。述べられる(と思う)人が論じれば良いけど、私にとっては(誤解を恐れずに言えば)関心の外なんです。
私の関心は、「こういう(避けうる)悲劇が繰り返されている」という事、「そもそもこれは(避けうる)悲劇である」と捉える価値観があるという事を少しでも広く周知されるように、微力を尽くす事だけにあるんですね。

これは決して低すぎる志というわけではないと、私は思っています。
http://www.jwic.com/home_j.htm
↑エホバの証人に関するこのサイトによると、エホバの証人は、かつて厳しく禁止されていた予防接種および臓器移植に関して、今では公式に容認・推奨しているそうです(『エホバの証人の公式ウェブサイト(http://www.watchtower.org/languages/japanese/)』によれば、「(前略)組織の移植に関する決定は,証人たち各人が行なわなければなりません」との事です)。
つまり、まだその「悲劇」の当事者になっていない信者ならば、予防接種や臓器移植によって避けうる病や死に襲われる事を、教義に殉じられずに心の安寧を得られない事よりも、大きな「悲劇」かも知れない──と真剣に想像するようになったという事なんだと思います。
確かに、彼らが、実際に予防接種を拒否して病に倒れたとしたら、「教義に殉じ永遠の生・本当の幸せを得る事ができる」と自分を納得させるしか、自分を保つ事ができないだろう──とは思います。
でも、おそらく、今では、エホバの証人のかなり熱心な信者でさえ、他の信者(自分の子どもかも知れません)が、たとえば予防接種を拒否する事で死亡する事を想像したとき、それを、「教義に殉じ永遠の生・本当の幸せを得た」と共感し神に感謝するよりも、「避けえた悲劇」だと感じる気持ちのほうが大きいのではないでしょうか。

同じように、このエントリの元となった話を聞いたときに、この夫婦に共感するのではなく、(子どもだけでなく夫婦にとっても)「悲劇」であると思うような感性や価値観が普通であるような社会になればいいなぁ……と、私は考えているわけです。
こういう「悲劇」や、「悲劇」の当事者が自分を美化して語る事は、人間が人間である以上、これからも決してなくならないでしょうが、それに惑わされない社会を築く事に主眼を置けば、ニセ科学問題に取り組む自分に無力感や徒労感を覚える事は少ないんじゃないかなぁ……と。きくちさんも、「完全を目指すと何もできなくなる」みたいな事を言ってましたよね。
by 田部勝也 (2007-07-13 21:16) 

田部勝也

長文の連投、失礼します。

poohさんのエントリ記事に即して言えば、
>避けうる危険を避けないこと。そのことで生じる悲劇を、悲劇と認識できないこと。
私はこの2つをかなり厳格に区別していて、前者については、大いに論じられるべきだと思っています。でも、後者については(それが受難者当人だけにとどまる限り)私はあまり問題視していないんですね。

事前に、避けうる危険を避けた場合と避けなかった場合とを秤にかけて、どちらがより望ましいかを想像・判断する事は、純粋に個人や社会の価値観の問題でしょう。建設的な議論の対象だと思います。
たとえば、私が絶対に望ましいとは思えない国粋主義を美しいと感じる人がいるように、もしかしたら、私の価値観とは相容れない価値観が、多くの人によって支持されるかも知れない。そういった事は議論の対象になりうるし、互いにより望ましい価値観を模索したり、自分の望ましいと思う価値観が社会通念になるよう努力していったりする余地があると思えるわけです。

でも、避けうる危険を避けずに、背負いきれない責任・償いきれない罪を実際に犯してしまった人間の認知的不協和について、私ができる事・述べられる事はたぶん何もない。
引用先のエントリ記事でNATROMさんが述べているように、この件ほどの責任・罪に正面から対峙できるほど強い人間はそういないだろうし、対峙すべしと断罪できるだけの正義感は私にはない。
くだんの夫婦など足元にも及ばないような、ありふれた、くだらない、ちっぽけな責任や罪に対する認知的不協和から、鬱やノイローゼになり自殺してしまったり、酒と女におぼれ借金まみれになってしまったりする人が決して少なくないなか、この夫婦の認知的不協和の表れ方は、健全とまでは言えなくても、まだマシなほうとさえ思ったりもするんですよね、いずれにせよ迷惑ですが(ちなみに、ここで出した例のうち、前者は私の母、後者は父の事です)。

この件に関して、私の興味は、このように背負いきれない責任・償いきれない罪を実際に犯してしまった人が自分を美化して語った話に、どれだけの人が共感を示すか──という点のみにあるような気がします。「そのことで生じる悲劇を、悲劇と認識できないこと」というのは、その意味においてのみ、私の関心の対象になるわけです。
by 田部勝也 (2007-07-13 21:42) 

pooh

> 田部勝也さん

浅い理解かも知れませんが、おっしゃることは分かる気がします。

正直、いくらかぼくは戸惑っています。このエントリを起こした最大の目的はNATROMさんのエントリにリンクを追加することだったんですが、さて自分はどう考えるか、と云うと、ちょっと曖昧になってしまう自分がいて。

誰かしら個人を非難するつもりはなくて、固有の価値観も許容するのが原則で。でも、それがネットに置かれるなりして社会的なものになることで、許容できる水準は変わってくるんです。もうそれは、確かに。

立ち位置は田部さんに近いかも知れません。
でもぼくには答えが出ない。悩ましい。
by pooh (2007-07-13 23:38) 

FREE

こんばんは
 
この夫婦にとってこの選択・行為は子供のための行為であり、それを外側から見ると夫婦の選択・行為は自らの信条により子供を所有物として扱っている構図になると思います。
 外から見ると選択権のない子供の安全性よりも優先したものがあるように見える。ただ夫婦から見れば正しく子供の為の選択であったはずです。

外部の社会からは選択権がいまだ行使できない子供の安全を最優先にする事と、夫婦の信条により子供の安全より優先されるなにか選ぶと言う他人にとっては愚行であると思われる事をするいわば愚行権の行使を認めるかどうかと言う事以外には言えないのではないでしょうか?個人が何を優先し、何を選択するかは個人の裁量のの範囲内で自由とリスク・権利と責任のなかで尊重するしかありません。ですが、生まれてくる子供がいまだ安全をうる権利を行使できない中で、その選択権が子供におよぶかどうか、社会として個人の裁量の範囲内かどうかを考えなければなりません。言い換えるとどこからどこからが人ですか?と言う問題を突きつけていると考えます。
考えているうちに、我ながら恐ろしく深い問いかけになってしまった・・・。
 内部にあたる夫婦については個人的には答えが出ないというより出せないと思います。自分が正しいと思う事が愚行である可能性は否定できないし、正しいと思っている事を愚行だと指摘されても間違っているとは思えないと思うし、愚行からの必然に意味を見出そうとする行為を逃げだと言う事は少なくとも私が言うべき事ではなく、本人が考える事であるし・・・。主観的な世界に踏み込んでいく事が許される関係がない限りは「自分にとっての答え」しかないと思います。
by FREE (2007-07-14 00:33) 

pooh

> FREEさん

あ、さすがです。綺麗に言語化してくれました。ぼくがちゃんとした判断を下せない理由も、多分お書きのことと同じです(愚行権、と云うキーワードは頭の中で廻ってましたけれど、この場合に使うのに適切な語彙かどうかが分からなかった)。

多分この夫婦の行為については倫理的な判例と云うか、依るべきはっきりした事例がないんです。おっしゃる「内部」については、それでも(愚か、とは云え)結果をもって断罪することは出来なくて。でも、生まれてくる赤ちゃんがその内部からどれだけ独立して論じられるべきなのか、が曖昧で。

ただこのほかに、論じられるべき問題として、吉村医院のような存在をどう扱うか、と云うのもあるんだろうなぁ、と思います。病院と云うより、やはりこれはカルトだと思うんですが。
by pooh (2007-07-14 05:25) 

OSATO

数日前から色々考えていたのですが、なぜお産という「方法」ばかりにこだわっているのか理解出来ないでいます。
どのような手段で生まれたとしても、要はその子をどう育てるのかという事が親として考えるべき事でしょう。
それとも、自然分娩以外で生まれた子には愛情は注げられないとでも言うんでしょうか。
生む方法が重要なのではなく、生まれてからが重要なんですよ。
こんな当たり前の事にすら考えが及ばなくなってしまうのかと、「信じる」という行為の危うさを感じています。


それにしても、NATROMさんのコメント欄、凄い事になってますね。
by OSATO (2007-07-16 00:56) 

pooh

> OSATOさん

お産、と云うものは人間の暮らしの中に登場する、なんと云うか剥き出しの自然に近いものじゃないですか。ごまかしようのない、人間が動物の一種であると云うことをはっきりと示す局面、と云うか。多分だから神秘に感じやすいし、受け止めるにも合理化がし辛い、みたいな。そう云うところに原因がある気がします。

元エントリ、凄い反響になってますね。まぁ本人が降臨したこともあるんでしょうけど。
by pooh (2007-07-16 05:07) 

匿名希望

またまた、「対ニセ科学批判」必勝法が持ち出されてしまいましたね
信者になり切って、ニセ科学批判者を呆れさせる
ギャラリーに「ニセ科学批判って無駄だね」という印象を植え付ける

「あえて頑なな信者を演じて、批判を封じる手法」に対する対抗策を
ここら辺りで打ち出す必要があります
by 匿名希望 (2007-07-17 16:39) 

pooh

> 匿名希望さん

いらっしゃいませ。

NATROMさんのエントリのコメント欄で続けられている議論については、あくまで特定の話題に対するものですので、直接「ニセ科学批判」全体に敷衍できるものではないでしょう。

また、あれだけあからさまな自作自演は普通の読解力と洞察力を持っていればROMにも見抜けます.
他のコメンテーターの方々も全部承知の上で「おもちゃが来たので遊んでやろう」くらいの感覚なんじゃないでしょうか。

そもそも勝ち負けに重点を置くようなコメンテーターは、ROMから見てもまともな論者じゃないことははっきりわかりますので、多少の工作をしたところで「必死だな乙」で終わりかと思います。
いろんなハンドルを駆使してニセ科学批判をしているひとがいますが、なりすましとかコピペくらいしか出来ないので、「ダメなやつだなぁ」みたいに思われていることはあっても、誰も脅威みたいには感じていないと思います。心配ご無用です。

ところで変わった経路でアクセスされていますね。
今後同様の経路で書込みされた場合は内容の如何を問わず削除しますので、ご留意くださいね。
by pooh (2007-07-17 21:10) 

FREE

カルトってどのように定義をするのかが難しいですね。
個人的に条件を挙げると
「あるロジックを否定する思考を停止させる事を、自ら選択したように誘導する」仕組みを持っている。
「問題解決する方法が明快で、ある方法がすべての問題解決に向け作用する」ようなアプローチ方法をしている。
などでしょうか?ほかにもいろいろ側面はあると思いますが。
 
吉村医院の場合は世間で抱えている子供の問題が「自然分娩」する事によって解決できるという幻想を植え付けているのではないかと考えてしまいます。目の輝きが違うとか笑顔がすばらしいとか、結局子供を育てる不安に対して「自然分娩」さえすればそのようなものが得られ、良い子供が生まれると。
 裏を返すと吉村医院がどのような意図を持っているかは別として、子度を持つ親の不安に付け込んでいる側面はあると思います。子供を育てる上での不安や子供の将来の行動に対しての一定の保証を与えるに近い言動だと思います。これが実際、子供のためにしているのか、子供を育てなければならない親の不安に対してなのか、吉村医院と親の立場で考える必要があると思います。
 
そう考えるとまさに悩ましく、答えの出ない問題ですね。
by FREE (2007-07-17 23:04) 

pooh

> FREEさん

そうやって考えると、まさにこれは「ニセ科学問題の社会的側面」と同質の問題なんですよねぇ。

ともかくも現状満たされないものをかりそめにも補うオルタナティブに対してどこまで効用を認めるか、その効用に比して社会的・倫理的負担の方が大きい場合、さてどこまで「満たされる」ことを重視するか、みたいな。
by pooh (2007-07-18 00:32) 

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