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波動とクオリア [よしなしごと]

少し前に言及した銀鏡反応さんのブログで、疑うことvs信じること。と云うエントリがあがっていた。なんとなく陰口のようで嫌なんだけれど、ちょっと極論を書くことになりそうな気がするので、トラックバックを送らずに言及してみる。

正直、その流布のし方に関して、江本勝の「波動」と茂木健一郎の「クオリア」は似たところがあると思う。どちらも本来はちゃんとした科学用語である点。そして、世間ではその意味を超えて「なにかしら絶対的な価値の根源」として捉えるひとたちが多々見受けられる、と云う点において。

例えばこのエントリで、銀鏡反応さんはクオリアの呈示する(もしくは呈示しうる、と云うことになっている)絶対的な価値基準を認め、信じることの価値を説く。美による価値観を肯定する。
その同じエントリで、ひとつのドグマに捉えられることの危険性を説く。美、と云う、究極的には個人にしか帰着しないものになんらかの社会的な価値評価の基準を置くことがどれほどドグマティックか、と云うことについては特に考察もなく。

倫理観に価値を置くことに対するモラルハザードを説く。
これは単純に言語矛盾と云うか、言葉尻を追えば逆説なのだけれど、銀鏡反応さんはそのような逆説を述べることによって特になにかを語ろうとしているように見えない。

いずれにせよこのエントリに見られるのは、単純な思考の混乱だ。しかもおそらく、陶酔に基づく。

☆私が茂木を支持する理由…それは、タンに彼を人として(良識人と認めて)敬愛している、という理由だけではない。彼が啓蒙している「クオリア」という概念を突き詰めていくと、そこには必ず、生命哲理があり、そして、流転を繰り返す万物を動かし行く、大きな生命リズムの法則につながっていく、と直感的に思うからだ。

「すべての根源たる波動」を語る「水からの伝言」ビリーバーの言説に、なんと似ていることか。

茂木健一郎本人は、その研究において脳科学者らしい振る舞いをしているのかもしれない(ただし、代表作と云われる著作を1冊読んだ程度では、そんなことはかけらも見えなかった)。それでも、例えばその言動が銀鏡反応さんのような「ビリーバー」を生み出している、と云う現実については、彼はとても罪深い、と思う。

まぁ、江本勝同様、結局は商売なんだよ、と云ってしまえばそれまでなんだけど。
でも、それでいいんですか? 脳科学がそんな程度のものに留まるのは、ぼくは嫌だ。


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