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消極的肯定 [世間]

amnesiac7さんの水、結晶、ニセ科学、そして否定と云うエントリを読んだ。

この方、最初に窪塚洋介の登場した「結晶」実験に触れたうえで、

汚い言葉ばかりを使うのは、精神衛生上、あまりカラダ良いとは思えないし、普段、美しい(感謝の)言葉などを吐くのに抵抗がある人間には、ちょっとしたおまじないの効果があると考えたからだ
なんでもメリハリだが、言葉が荒廃しつつある日本の現状を鑑みると、ウソでも信じたい(ボクは本来、「信じる」という言葉が大キライなので、一般に「信じさせたい」が本音か)とも思った

何でもかんでも否定したがる人間というのは、どこにでもいる
しかし、否定の先にはいったいどんな光り輝く未来があるというのだろうか?

前段と後段がどう繋がっているのかぼくにはよく分からないけれど、要するに「よい言葉を使わせるためには嘘も問題ない」「なんとかよい言葉を使わせて、光り輝く未来を」と云うことなんだろうか。ついでに云うと何でもかんでも否定したがる人間ってのは誰のことなんだろう。

別にこの(たとえ空想・捏造にしても)説は、宗教的ではあるが、宗教そのものではない
そして、悪い考え方でもない、とボクは思っている
教義、教祖が絶対だから、みんなで目をつぶって無茶苦茶なことばっかりやっているような宗教よりかは、こっちの方が、よっぽど気が利いているとさえ思うわけで

「よい言葉」がつねに「よい意味」を持つわけではない、それは文脈次第だ、と云うことについてはすでに数多くの指摘があるのだけど。言葉に「よい意味」を持たせるのは、その言葉を使うひとの心だ。

専門職(科学者など)が否定するのは別に構わないけど、これをなんの知識もないのに、ただバカにする人間の精神もどうしたものか、と

「水からの伝言」のおかしさを認識するためには専門的な科学知識は必要じゃない。これは中国文学者である朴斎先生も、言語学の研究者であるdlitさんも、アーティストであるcorvoさんも指摘しているとおりで。

なんれにせよ、日本語にはたしかに「美しい」というか、良い語感の言葉が多く存在する
そういうのを、まじないでも何でもいいから、できるだけみんなが使っていければ、まったく美しくない人間が標榜する「美しい国」にも、すこしは近づけるのではないのかな、とも
美しく振舞えなければならないのは、「体制」なんかじゃなくて「精神」のはずだからね

でもその「精神」は、けして言葉の表層だけの「美しさ」なんかには宿らないと思うのだけれど。


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TAKESAN

お早うございます。

これは、恐らく本質的な問題で、水伝を知った初めのうちに、感じた事なのですが。

水伝を信じている人が、「ばかやろう」等の、”「自分が汚いと思い込んでいる言葉」をよく使う人”に向ける心っていうのは、多分、あんまり美しく無いんですよね。そういった、どうしようも無い矛盾を考えると、もっと、言葉を丁寧に扱える様になるんじゃないかなあ、と。
by TAKESAN (2007-06-21 08:52) 

Blatanda

こんにちは

廃刊直前に「朝日ジャーナル」の読者となった世代としては(古くてゴメンナサイ!)、安易に『美しく振舞えなければならないのは、「体制」なんかじゃなくて「精神」のはず』との言い切りには、強い抵抗を感じます。
ひょっとしてこういう人達って、社会の様々な問題の根本を、全て個人の、しかも「精神」という定義困難なものに求めたいのでしょうかね?

ま、「それが大人の余裕ってやつだ」って、いい大人がそういうのに浸りたいっていうのを押しとどめようとは思いませんが、教育の場に持ち込めば、それは全力で阻止しますよ、「おとなげ」なくね!
by Blatanda (2007-06-21 12:57) 

dlit

こんばんは。

 水伝を否定するには科学といっても特に高度に専門的な知識が必要なわけではなくて、教科書、入門書レベルで十分、ということだったような気がしますが…ちなみに私が書いた反論も(文章としてまとめたりするかどうかはともかく)、その問題に気づいたり、ある程度の議論として構成するには言語学の教科書や入門書を頑張って読めば大丈夫なレベルだと思います。色々気づいたり言及していた方々はたくさんいらっしゃいましたしね。私はほとんどそれらを関連付けてまとめただけのようなもので。

poohさんの
>言葉に「よい意味」を持たせるのは、その言葉を使うひとの心だ。
というところからもう少し踏み込んで考えてみます。
どんなに言葉を発した方が「良い意味」を乗せたとしても、受け手側の色んな事情で届かないということは結構ありうるわけです。そういったディスコミュニケーション(≒誤解)をその後のやりとりなんかでなんとか解消していこうとする、あるいはできることこそが結構重要なんじゃないかなーと思うのですよね。
誰かによって「良い/正しい言葉」が決められていて、ただそれさえ使っていれば大丈夫(しかも社会も良くなる!?)、なんて、なんという楽観(的無責任)主義なんだろうと…思考停止につながる考え方だと思います(言いすぎかな?)。

まあ言語の性質上、決してそんな楽は許されないわけですが(笑)
ちょっと論点がずれてしまったかもしれませんm(_ _)m
しかし水伝問題、色んな点で根が深いですね。
by dlit (2007-06-21 21:06) 

pooh

> TAKESANさん

云うまでもなくそもそもひとの心のなかには美しいものも醜いものもあるわけですよね。そのなかで折り合いをつけながら社会のなかでできるだけお互いに気分よく過ごそう、ってのが道徳な訳で。
それって、心のなかの醜いものを排斥する、と云うのとは多分違うんですよね。
by pooh (2007-06-21 21:54) 

pooh

> Blatandaさん

一般に「精神論」と云う言葉が「具体性に欠ける論議」と云う意味を持つのは、精神って言葉がこんなふうに便利かつ空疎に使えるものだから、なのかも知れませんね。
by pooh (2007-06-21 21:56) 

pooh

> dlitさん

いやまぁ、シンプルな原理に辿り着くことは出来ても、それを正確に伝えるためには専門知識が必要、と云う場合もありましょうし。

> どんなに言葉を発した方が「良い意味」を乗せたとしても、受け手側の
> 色んな事情で届かないということは結構ありうるわけです。そういった
> ディスコミュニケーション(≒誤解)をその後のやりとりなんかでなん> とか解消していこうとする、あるいはできることこそが結構重要なん> じゃないかなーと思うのですよね。

まさにおっしゃるとおりだと思います。「よい言葉」と「悪い言葉」が端的にそれだけの意味しか持ち得ないのなら、多分ぼくたちのコミュニケーションはひどく貧しいものになってしまうでしょう。
と云うか多分、そんな世界では誰かと一度ディスコミュニケーティブな関係になってしまったら、永遠に関係修復の機会はなくなってしまいそうな気がする(^^;;。
by pooh (2007-06-21 22:03) 

corvo

こんばんは。
リンク先のコメント欄にあった、
「ファンタジーをファンタジーとして捕らえる限り、良い話なんだけどね。」
という発言がとても気になります。良い話と捉えてしまえるのは、どういった構造なのか、とても不思議です。
by corvo (2007-06-22 02:23) 

pooh

> corvoさん

いや、「良い話」と云うのも幅のある言葉ですから。「一杯のかけそば」をいい話だと思うひともいれば、「マハーバーラタ」をいい話だと思うひともいるわけですので。「ファンタジーだからいい話だ」と思う方がいてもいい(寓話としていい話だ、とおっしゃっているわけではないので)。
こうなると、議論のフィールドは「ファンタジー観」になるわけですよね。
そこまで考えての発言なら、議論もできるわけです。例えばぼくはファンタジーとしても、落語としても非常に質の低いものだと思ってますので。
by pooh (2007-06-22 07:53) 

きくち

ファンタジーにしちゃあできもよくないし、いい話なんかじゃないじゃん、と思うわけですよね。
「ファンタジーと思えば、いい話」と言えてしまうのは問題だ。
by きくち (2007-06-22 22:31) 

pooh

> きくちさん

実際のところ、ファンタジーの領域で勝負しようとするほうが分が悪いと思うんだけど。つまらなくて出来の悪い(あまつさえ笑えさえしない)ファンタジーはゴミ以下。
by pooh (2007-06-22 22:56) 

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