言葉からこころが奪われる [世間]
sennin893さんの臭い物には、「ありがとう」と云うエントリを読んで、ちょっとした感銘を受けた。
この方のおばあちゃんが臭いらしい。で、「水からの伝言」を応用して対策を実施されたようだ。
試しにおばあちゃんの部屋4方に「ありがとう」と書いた紙を貼ったんです。
すると、臭いがしなくなりました。
すでに感謝すらしていない。
本当に不思議なんですが
それから、両親の加齢臭のする部屋にも貼りました。
やはり、臭いが消えたんです。
便利だ。
この方にお会いすることがあって、もしこの方から「ありがとう」って云われることがあっても、多分少しも嬉しくないだろうな。「おれって臭いのか?」とか気を回してしまうかも。
もはや愛でも感謝でもないって云うか、現世利益を期待した瞬間に「よい言葉」ってのが素敵でもなんでもなくなってしまう、これはひどく分かりやすい例だと思う。
今晩は。
リンク先を読んで、何だか切なくなってしまいました。
いや、もっと他にも、感想は浮かんだのですが、ここにはとても、書けません…。
by TAKESAN (2007-05-16 23:08)
> TAKESANさん
実際のところはひどく悲しい話だと思います。でもまぁ正直言って、嗤う以外の書き方はぼくにはできません(そうじゃないと耐え難い)。
by pooh (2007-05-16 23:21)
おはようございます。
言葉は字義的な意味しか紐付けされないわけではない事の
悲しい例ですよね。
水伝を信じている人に考えてほしいですよね。
この例で「ありがとう」がどんなに美しい姿で使われているかを。
by FREE (2007-05-17 09:16)
こんにちは、皆さん。批判とかじゃなくて、自分の生育史みたいなことを書いてみますね。
子供が小さかった頃、動物園の2キロ程度のところに住んでいて、毎週の様に「ちょっとした時間」に自転車に子供乗せて通って居たわけです。でもって、「動物園のあの臭いが」とかいう人が居るのに気が付いて、ふと思ったんですね、「自分にはあの動物園の臭いが悪臭とか感じないんだ」ってね。別に「良いにおい」とかは思わないけど、自然に慣れてしまうわけです。でもって、よく考えたら、私の育った農家は、山羊もいれば牛も居たわけで、私にとってありふれた臭いなんですね。なにせ、幼児の頃には、山羊小屋に潜り込んで子山羊と遊びながら、親山羊に「子守り」されていたそうなのでね(子ヤギと一緒に乳に吸い付きはしなかったハズだが、実のところ自信は無い。なにせ山羊の乳母殿は自分の子と分け隔て無く可愛がってくれていたらしいのでね:笑)。
なんていうか、私の生育史なんて、いろんな臭いに「愛されて」育ったようなものなんですね。爺さんのところに甘えかかれば爺さんの臭いがあり、それなりに絵を描いてくれたりするし、婆さんの懐に潜り込めば婆さんの臭いがあり、それなりに昔話を聞かせてくれ、父にも母にもその臭いと共に愛され、その延長に山羊までいる(笑)。
なんていうか、そういう「愛」というのにあふれて育ったというのが、私にとって「とても幸福である」という事だと思うのね。そして、いろんな臭いも「愛」ともにあったのね。
by 柘植 (2007-05-17 16:17)
> FREEさん
なんかもう、ですね、いろいろと如実で。もうどう云ったらいいものか、って感じです。
最近キーワードはやっぱり「現世利益」なのではないかと云う気がしています。得ができればなんでもいいのか、と。
by pooh (2007-05-17 22:12)
> 柘植さん
人間なんざぁそもそもそんなに清潔なものでもなくて、生きてるんだから臭いもあって当たり前で。でも、そう云う部分はもう「愛」に値しない、みたいな発想もここんとこ普通にあるのかもしれません。臭い奴には感謝しない、とか。
でもぼくはどちらかと云うと都会っこなので、犬の毛皮の臭いは分かってもさすがに山羊は分かりません(^^;
でも単車乗りなので、直管から漏れる生ガスの臭いを悪臭と感じなかったりはします。
by pooh (2007-05-17 22:17)