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「分からない」こと [余談]

少し前に書かれたエントリになってしまうけれど、osakaecoさんの似非科学と経済学(玉虫色になってゆく私)を読んで、ずっと考えていた。

ぼくがここで書いている文章の多くには、学術的な裏づけがない。少なくとも、それによって権威付けられるような特定の学識に基づいてはいない。それはもちろん、持ち合わせているなけなしの知識に頼ってはいるけれど、そもそもぼくは学者ではないし学者を志したこともない(と云うことはつまり、厳密に方法を学んだことがない)。

で、このことそのものはネガティブなことだけれど(たいして学のないやつが言説を垂れ流しているということだから)、でもこれはこれで立ち位置として意味がないわけでもないと思っている。ひとつには、前も書いた気がするけど、要するに「poohがわかるくらいのことは、普通の生活人なら分かるはずだ」と云うこと。で、もうひとつあると思っているのは、「特定の角度を設定しないことで、ある意味全的な記述になること」だったりする。

全的って云うか、この場合「poohの知る全部」ってだけではあるのだけど。でもぼくたちは普通思っている以上にたくさんのことを感じて、たくさんのことに対し自分なりの重み付けを行って、言語化されていないもやもやっとした基準で判断を行っている。いちおうそれを言葉にする仮定で論理を通す作業をするけれど(そうしないと読んでくれた方になんだか分からないものになるし)、言語化以前の段階での思考と判断はおそらくフリーだ。どうも何かについて考え、判断を行うことについてのエントリが多いので、要するにどっさりある要素と基準のなかで、エントリ単位で各論的に論理を通していく作業を演習している感じになる。
で、ブログ全体で総論的に何か論理が通ればラッキー、みたいな。

実際のところ、洗練されたメソッドを持っていない以上、ぼくは「方法を得たが故の取りこぼしの発生」をむしろ恐れている。

このアプローチは、ぼくがここでやる分にはそれなりの意義を(ぼくひとりにとってだけでも)持ちうると思っている。でも、それはここが寝ぼけ頭のpoohのブログだからできることで。学問としてはさらに、再現性のある原則を搾り出して、現状を説明し、また現状に対して有効な対策を策定できるところまで到達しなければいけないわけで(いけない、と云うと言葉が強いけれど、向かうべき方向はそちらだ、みたいなね)。

私に限らず、科学に関心をもつ動機の根本は自分の住む世界について本当のことを知りたいということだろう。もちろん、科学の対象となる、再現性のある状況について確実な知識がえられることもそれ自身として意味があることだ。しかし、私は再現性のない、一回きりの状況に対して現実的に対応したいし、そのためにその一回きりの状況についての確実な知識が必要と感じる。

しかし、多分、この願いはかなえられない。しかし、漠然と感じるのは、科学の対象となるような再現性のある状況についての確実な知識は我々が個人的に直面する一回限りの状況の認識を行なう上でのてこの支点のような役割をはたしてくれはしないかということである。

自分をこのosakaecoさんの意識になぞらえるのはひどく僭越なのは分かっているけれど、例えばここでぼくがニセ科学関連の言説を行うことが、多少なりとも他のもっと力を持った言説に力を添える一助になればいいなぁ、とかは思っている。poohがあの時考えていたあんなことが、こんな場合のアイディアに結びつくんだなぁ、みたいに(もちろんこれは第一義的には自分のためなんだけれど)。

世界はひどくたくさんの要素を抱えた複雑なもので、そのなかから小さなルールを見つけ出すのにも結構な手間と能力が要求されて、そうやって見つけ出されたルールを評価するのも難しくて(なにより評価基準を設定するのが難しくて)、それが世界の見通しをいくらかよくすることができる力を持つものになるまでに鍛え上げるのもそれだけで結構大変で。

ぼくの考えることは、世界中の人たちが考えることのサブセットにしかならない(それも専門性の低い、洗練されていないサブセットだ)。だからといって、それがいつの日にか意味を持たない、とも限らない。

いろいろ勉強させてくださっているosakaecoさんにしても、fuku33さんにしても、それぞれがお持ちの角度から「世界全部」に通じるそれぞれの分野のルールのサブセットをつくる作業に従事されている。それはぼくなんかが考えることよりよほど強靭で汎用性の高いもので、所詮は野次馬のぼくはそこから学ぶだけだけれども、こうやって考えると「学問」(≒科学。とか云うとちがやまるさんに突っ込まれそうだけど)の現場の作業の意味がちょっと理解できる気がする。

とか、例えばこの程度のことを理解するのにもこれだけうろうろする必要があるのだ。poohと同程度の頭しか持っていないんじゃないか、みたいにちょっとでも思う方は、まずやっぱり「分かりやすさ」を疑ってほしいなぁ、なんて思ったりするわけだった。


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コメント 4

ちがやまる

おはようございます。突っ込みませんよ。こないだのは、「科学」というのは広く使われている(手あかにまみれている、ともいえるかもしれない)言葉なのでなるべく使わない方がいいのでは、という事だったと思っています。私もひそかにpoohさんと同じ作業をしているつもりでいますが、それはフィロソポスと自分だけで呼んでいます。既にできている枠組みや職業にもとづいてやるのを「学問」ということで。
by ちがやまる (2007-05-15 08:48) 

柘植

こんにちは、皆さん。

なんていうか、「合理的思考」に軸足をおくものは全て学問(もともとの意味で人文学も自然科学も含んだ「科学」)なんですよ。そしてそれは、体系による必要もないわけです。原始人が「太陽があの山から昇る時期には雨が降らないな」と気が付いて、その時期には水場の確保をきちんとやり始めたら、それも「学問的」であったわけです。人類の歴史は短いと言ってもそれなりに長くて、その間に身につけた合理的思考の結果の知識はかなり大きい訳ですね。知識だけじゃなくて「考え方」なんてのも身につけてきた訳だからね。

学問の分類とか体系化というのは、そういう膨大な合理的思考から生じた知識とか探索方法というものを次の世代に伝えたり、仲間内で「お前はこの部分が得意だからこの部分の知識を増やせ、俺はこっちをやる」なんてやろうとする時に便利なようにその知識とか考え方を分類しただけの話なんですね。

なんていうか、最も大事なことは、「こう考えたら理屈が通るな」とする「合理性」を持つかどうかが、学問の大元だと言うことなんです。
by 柘植 (2007-05-15 10:21) 

pooh

> ちがやまるさん

あ、すみません。からかったつもりではなかったんですが、そう思われたのなら失礼しました。

これもなんと云うか見苦しい自分語り系エントリなんですが、時折ちまちまとやっておかないと、読んでくださる方にpoohって奴の立ち位置が示せないなぁ、って部分もあって。

結局のところ、ぼくの使う言葉は酷く文脈に依存しています。その分精度に欠ける。でもまぁ仕方ない気もしている訳で。
by pooh (2007-05-15 22:22) 

pooh

> 柘植さん

ひとつ感じるのは、その「合理的思考」と云うのが必ずしも全方位的に同水準の合理性を獲得して来た訳ではない(現時点で)と云うことなんですよ。学問の中でも高い精度で合理性を担保できる方法が確立している部分もあれば、まだ相当部分について模索中の部分もある。
これは「どれだけの背の高さの巨人の肩に乗れるか」みたいな話で。

社会科学は歴史が浅くて、たいして背の高い巨人がまずいない。自然科学みたいに、巨人同士がきっちり肩車を組んでくれない部分もたくさんある。そのなかでも比較的背の高い巨人を探してその肩に乗れば、比較的見通しがよくなるけれど、みんなして同じ巨人の肩に乗って同じ方向を向いていても仕方ない訳で。
これは想像で云う部分も大きいのでひょっとすると失礼に当たる云い方なのかも知れないんですが、fuku33さんやosakaecoさんがみたい方向を向いている巨人はそれほど背が高くないんだと思うんです。それは背の高い巨人に乗るほうが楽でしょうけど、それでは見たい方向が見えない。そう云う、ちょっと難しい方角を見ようとしている、と云うのがある気がするんです。

でも、肩に乗るその乗り方そのものはメソッドがある訳で、だから背の低い巨人を選ぶのは、新しい方向を見るための営為としてとても価値のあることだと思っています。
by pooh (2007-05-15 22:32) 

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