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自覚的、であればいいのだけれど [世間]

サイエンスライター鹿野司さんのオカルトは大人の心の平安のためにあると云うエントリを読んだ。

 なんの根拠も示さず、とにかくダメというのも良いんだけど、そのやり方は、たぶん現代の大人の側に、よりどころのない心細さを感じさせてしまう。

 だから「これこれ」だからウソはダメ。「これこれ」だからきれいな言葉遣いをしようと、何らかの理由付けをしたくなっちゃう。その「これこれ」が閻魔様や水伝ってことだ。

それは理解できるんだけど、でも水伝授業をしちゃう教師ってのはそれを「方便だ」と認識してるんだろうか。
方便ってのは薬みたいなもので、と云うことは「薄めた毒」で。効くからと云って手放しに使っていいもんじゃない。その認識を持って使うかどうか。

 授業の場面で、「いやでも、ことばをかけたって結晶はきれいになったりしないけどね」と教師が言えば、子供たちは「なんだー、じゃあきれいな言葉使っても意味ないじゃん」とか、絶対にツッコミを入れるはず。教室が健全に運営されていれば、そうならないほうが不思議だ。

 そしたら教師は、それに応じて色々なことが言える。こういうときに、子供たちにどう対応していくかが、教師のアート(技)であって、それを通じて「きれいな言葉を使った方が良いよ」ということと「まあオカルトを信じるとしてもほどほどにね」みたいなことは伝えられるはず。

それだけの技能と職業倫理を持った教師ばかりならいいのだけど。でもあちこちで見る「うちの子が授業で『水からの伝言』の話を聞いて来ました。感動しました!」みたいなブログを読むと、どうもそうとも思えないんだよなぁ。


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No.4560

おはようございます&お久しぶりです。

鹿野さんのエントリのタイトルである「オカルトは大人の心の平安のためにある」という自覚は、まずしておいてほしいですね。

これは先生に限らず保護者さんや…オカルト好きの方の大多数にはそういう自覚がほしいです。
例えば水伝レベルのものなら、勘違いしている人がいたら近くの人が指摘できる社会、というのが個人的な理想です。(実現できるとは思っていないけど、歯止めはかけないと。)

だから、現時点での道徳授業での使用は、どんなに先生がきちんとしていても、ちょっとまずいと思います。
子供たちほぼ全員の理解の把握を先生に求めるのは酷ですし、先生がフォローしきれなかった子供さんを周囲の大人がフォローできるかというと、これもちょっと現状では疑問ですし。


>なんの根拠も示さず、とにかくダメというのも良いんだけど、そのやり方は、たぶん現代の大人の側に、よりどころのない心細さを感じさせてしまう。

これは同意見なんですけど、これもまず「よりどころのない心細さ」を自覚してほしいし、できれば「よりどころのない心細さ」に耐えるだけの強さを持ってほしいなというのが僕の理想です。(僕個人の理想でもあるかな。)

一部のオカルト等にハマることで、自分の「よりどころのない心細さ」がなくなったのではなくて、そういうものから目を逸らしているだけなんだ、ということを自覚してもらうのが第一段階かな、とも思っています。


>教育、それも年の若い子供への教育には、ある程度のオカルトというか、非理性的なものの混入は避けられないところがあると思う。

個人的には"ある程度の"という部分が重要かなぁ。でも、現時点では許せるオカルトを思いつかないですけど。

あ、学校の七不思議とかならありかな?少なくともメールはしないです(^^;
by No.4560 (2007-05-09 05:04) 

pooh

> No.4560さん

> これは同意見なんですけど、これもまず「よりどころのない心細さ」を自覚してほしいし、できれば「よりどころのない心細さ」に耐えるだけの強さを持ってほしいなというのが僕の理想です。(僕個人の理想でもあるかな。)

結局、こう云うことなんですよね、軸は。
以前のosakaecoさんとのやり取りで、オカルトの有用な側面についてそうとう突っ込んだ話題になったことがありました。で、この種の強さは実際にはいつでも誰にでも求められるもんじゃないし、まぁぼく自身だってあやしいのだけれど、でもやはり持っているべきものだ、と云うことなんだと思うんです。
ここのところ、実際はもう少し突っ込める議論になりますね。

> 個人的には"ある程度の"という部分が重要かなぁ。でも、現時点では許せるオカルトを思いつかないですけど。

程度問題はオカルトの側にあるんじゃなくて、そこに寄りかかる個人の側にあるのでは。と云うか、その部分のほうがより本質的な議論なのではないですかね。まぁ、そのオカルトがどれくらい巧妙に「依らしむべきもの」としてつくられているか、と云うのはあるのかもしれないですけど。
by pooh (2007-05-09 06:26) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

少し真面目に宗教の話を書いてみます。私は「あらゆる宗教が最初は聖俗分離の無い現世利益側面も持つ形で始まったが、長く続き広く布教に成功した宗教は聖俗分離をなしとげている(あるいは成し遂げつつある)」という言い方をします。言い方を変えるなら、きちんと「宗教」として成り立っている場合には、その信仰上の「賞罰」は「原則として死後にやってくるもの」となっているという事です。

これは別な所でも書きましたが、「人を人たらしめている能力」というのは、「まだ目の前に起こらない事を思う力」だということです。そして、生きていくという事におけるほとんど全ての事に関しては、合理的思考の産物がそれに対して「回答」を与えます。「まだ飢えていないけど、やがて飢えることを心配するなら、蓄えれば良い」と言った思考の流れです。ところが、そういう合理的思考では出ない回答の一つが「死んだら自分(の意識)はどうなるの」です。まあ、合理的に考えるなら「消える」訳ですが、その回答がいかに合理的であっても、人の「まだ起こっていない事を思う」から発生する「思い煩い」への癒しとはならない訳です。

それゆえ宗教は、最後の審判とか、あるいは輪廻転生などの「あなたはそれなりに永続しますよ」という「癒しの回答」を与える部分に特化して行くわけです。折角、「永続」という概念を出すなら、そこに「賞罰」の概念を盛り込むことで、現世の倫理をサポートするという形も起こるわけです。その様に宗教が「癒しの回答」に特化する過程で「現世利益」の側面は、現世に既にある回答とぶつかって消えていく訳ですね。現世で飢えたくなければ、食べ物を手に入れるという合理的活動をしなくてはならず、「神(仏)にすがる」は食べ物をもたらさない訳です。

そういう意味では、きちんと聖俗分離を成し遂げた宗教の衰退もまた、日本における水伝やスピチュアルなどのオカルトの蔓延をもたらしている気もします。
by 柘植 (2007-05-09 09:55) 

pooh

> 柘植さん

なんとなく難癖をつけるようで恐縮なんですが、おっしゃる内容はキリスト教や仏教をスコープにしてらっしゃいますよね? 近代資本主義文化圏、と云うか。現在もっとも拡大傾向にある宗教であるイスラム教は聖俗が分離していませんよね。賞罰が死後にやってくる、と云う点では同じですが。
ちょっと話が横道めきますけど、イスラム教は後発だけあって多分最初からいちばん明解で合理的な体系を持っていたがゆえに世俗の変化に応じて軋轢を起こす部分が少なく、結果として大きな変化をする必要がないまま現在に至っているので、それがそのまま目下の近代資本主義社会との一部衝突に繋がっているのではないか、と思います。

とは云えイスラム教がそもそもアブラハムの宗教の系列の中で「聖俗分離をしなくても矛盾がない仕組みを実現したもの」と捉えることもできると思うので、これはおっしゃることに矛盾がある、と云う話ではないです。イスラム教には最初から(教義それだけを取り出せば)現世利益の発想はないし。その代わりに「食べ物をもたらす」系の知恵もいくらか教義の中に入ってる、って感じかも。
> そういう意味では、きちんと聖俗分離を成し遂げた宗教の衰退もまた、日本における水伝やスピチュアルなどのオカルトの蔓延をもたらしている気もします。

現世利益を約束しない宗教が力を持っていれば(そしてそれが道徳律として機能していれば)、現世利益を約束するものにとびつく、と云う現象もそうそう顕在化しないはず、と云う話ですね。それはそうですよね。考えてみると水伝もスピリチュアルもカルトも、究極的には「現世利益を約束する」から信じるひとがいるわけですから。
by pooh (2007-05-09 22:12) 

FREE

こんばんは

現世利益であろうが死後利益であろうが来世利益であろうが、利益で誘導していること自体が問題であると思います。原理主義・根本主義は信仰の逸脱ではなく、世俗に対する防衛の結果必然として生まれてくるものだと思います。信仰からの過激な行動をみてみると、利益がある時点で約束されるから「今」を引き換えに行動を起こすわけで、「利益をもって信仰を広める」という時点ですでになにか歪みがあるのではないでしょうか?
 
私は常々、「知ると信じるは違うこと」と言いますが、「信じると報われる」もやはり違うことだと思います。もし信じると報われるが結べるなら信じることはすでに「消費」の世界のものになっているのではいるのではないですか?
むしろ信仰が消費行動の一部になっているからこそ発生する問題では無いでしょうか?もしくは信仰を消費行動と結び付けてでしか拡大できない宗教の有り方での問題かもしれません。
by FREE (2007-05-09 23:20) 

FREE

連投すいません。
  
つまり「信じると報われる」ばかりが中心にある宗教や信仰形態が問題であると言うことです。多かれ少なかれ宗教に報われることが無いものは存在しません。拙速でした。
ですが善きにつけ悪しきにつけ報いを前面に押し出すと単なる行為=報酬の行動に成り下がると考えるわけです。
 
ただ単に利益誘導や死後の地獄行きなどで脅かす宗教が、私自身が好きでないだけかもしれませんが。
by FREE (2007-05-09 23:40) 

pooh

> FREEさん

新興宗教もニセ科学も、背景に消費のロジックが色濃くある、と云うのはあるような気がします。報われる、と云うより、得をする、みたいな。破壊的カルトになってくるとまたちょっと違ってくるでしょうけど。

じゃあ望ましい穏当な宗教のあり方は、みたいな話になるんでしょうけど。うむむ、そろそろぼくに可能な議論の範疇を超えそうな気が(^^;。
by pooh (2007-05-10 06:26) 

柘植

こんにちは、pooh さん、FREEさん。

>現在もっとも拡大傾向にある宗教であるイスラム教は聖俗が分離していませんよね。

実は、そこで困ってしまって「(あるいは成し遂げつつある)」なんて付けておいたのね。この前シリアからきた人と話をしていて「コーランを呼んだことのある日本人に始めて出会った」なんて言われたんだけどね(「翻訳を読んでもコーランを読んだことには成りませんよ」と答えておいたのだけどね:笑)。なんていうか、そうきちんと調べた訳では無いけど、コーランという教典は、ユダヤ教が世俗戒律でガチガチになりかけた時代に、それに対する反発を含めて成立している感じを受けるわけです。我々が「わー、イスラム教って戒律厳しいな」なんて思うよりももっとガチガチの戒律が流行っていた時代に「神はこの程度しか縛っていない」って言っているのがコーランのように見えるのね。だから食べ物の戒律でも「こうした食べ物は、食べて良い」と書いてある訳ね。ところが、その教えがガチガチどころか「何でもOK」の世界に飛び出たら、「わぁー、厳しい」に成っちゃうわけ(笑)。そういう、ガチガチの「俗な戒律」に対する反発で書かれているために、日常生活に関する記述がとても多くて、そのために聖俗分離がしにくいのだろうという気はします。

>現世利益であろうが死後利益であろうが来世利益であろうが、利益で誘導していること自体が問題であると思います。

う~ん。なんて言うか「利益(りやくと読んでね)」というものを、どう捉えるかによるんだけど、人類の作り上げる文化というのは、必ず人類にとって何らかの利得をもたらすから、或る程度の規模に成長するのでね。その利得があることを否定したら、文化の意味の否定になりかねないのね。

純粋に考えたときに「知性」というものを持つ限り、「死んだらどうなるの」という思いが発生する事は避け得ない事だし、その疑問は必ず「自己の存在理由」というものに結びつく訳です。そして、合理的思考は、それに対する答えを持たないというか、むしろ「死んだら君の意識は消える」「君の存在理由など無い」に近い概念しかもたらさない。もちろん、それでも平気ならそれでかまわないのだけど、人類の基本仕様にある不合理性は、それでは「満足出来ない」訳です。そのために、人類は、「神により創造された宇宙の中で、神の気に入るように生きるべき君の存在理由」といった概念とか、「仏の慈悲により、君は必ず救われる」といつた宗教的概念を作り上げてきた訳です。
by 柘植 (2007-05-10 08:40) 

pooh

> 柘植さん

あぁ、いや、イスラム教を「イスラム教」として分別して考えるから多分いけないので。アブラハム系一神教の(メジャーどころとしては)「最新型」として考えれば、おっしゃるロジックは通るんですよ。もともと改良型で汎用性が高いので、政教分離がなされてなくてもあんまり矛盾が生じなくてそのまま運用できる。でも逆に云うと分離されざるを得ないような事態を経由してないから、そのあたりすれすれのデバッグを繰り返して来たキリスト教文化圏とぶつかる、と。
でもなんか、現在世界を制覇しようとしているプロテスタンティズム的資本主義とそれのもたらす「グローバリズム」が「向かうべき方向」なのかと云うと、そうとも言い切れない訳で(とりあえずおいら何となく嫌なものを感じるし)。

しかしコーランをお読みですか。
翻訳はだめ、と云う原則は、でも例えば世界最大のイスラム国家であるところのインドネシア辺りではどんなふうに運用されてるんだろう(おいらバリしか行ったことがなくて。あそこはバリ・ヒンドゥーって云うなんか融通無碍な宗教が中心なので、その辺りには接してません)。

利益をどう捉えるか、と云うのは多分論点としてあって。より善く生きることができる考え方を手に入れる、とか、心の平安を得る、と云うのでも充分な利益ではあるかも。それは特に不穏当なことでもないですよね。
by pooh (2007-05-10 22:00) 

柘植

こんにちは、 poohさん。あくまで雑学として読んで欲しいのだけどね。

>もともと改良型で汎用性が高いので、政教分離がなされてなくてもあんまり矛盾が生じなくてそのまま運用できる。

ユダヤ教なんかは、一神教の原型なので、日常生活の戒律なんかも曖昧で、その分、末端の聖職者が「これが戒律だ」みたいなことも起こったのだろうと思う訳ね。そういう事に対する反発からできているから、「末端の聖職者の恣意な解釈は許さないぞ」という風にできている気がする訳です。むしろ汎用性の悪用を避けようとして汎用性を減らした改良型の感じね。

ニュースなんかで「イスラム法学者」なんて言葉が出てくると思うけど、「イスラム法学とは言語学である」なんて言った人もいるのね、「コーランの言葉の言語学的解釈」というのがイスラム法学の基本にあるわけね。つまり、「勝手な解釈しては成らない」という部分をとても強化しているから、イスラム法学者がきちんと寄り集まって言語学を駆使して「こういう意味である、ここまでの適用である」と決めないと末端が動けないシステムになっているわけね。

この解釈について「もう、全ての解釈はできた」という考え方と「いや、まだ解釈は続けなくてはならない」という考え方の違いがスンニ派とシーア派の間にあって紛争の元になつたりもしているのだけどね。
by 柘植 (2007-05-11 08:42) 

pooh

> 柘植さん

その部分のシステムが(相対的に)明解で透明性が高い、と云うのが、イスラム教の拡大傾向の根底にある気がするんですけど、どうでしょう。もちろんあれだけの規模になると宗派ごとの相違や対立も出て当然でしょうけど。
by pooh (2007-05-11 12:43) 

柘植

こんにちは、poohさん。

>その部分のシステムが(相対的に)明解で透明性が高い、と云うのが、イスラム教の拡大傾向の根底にある気がするんですけど、どうでしょう。

そうなんです。そしてその「堕落のしにくさ」こそが政教分離・聖俗分離が進まない理由とも言える訳です。ヨーロッパのキリスト教などの歴史をみても、聖職者が世俗の権利を持つことで堕落し、そして宗教革命が起きる訳です。そしてそのたびに聖職者が世俗の権力から遠ざけられ、精神世界の指導者に限定されていくという流れなんですね。ところが、「コーランには全ての法が含まれている」という事で、聖職者がなすこと全てが「コーランにかなっているか」というチェックにさらされる面があるので、いわゆる「宗教的堕落」がとても起こりにくいわけです。調べれば調べるほど「政教分離・聖俗分離なんて簡単に起こる世界ではないぞ」という気がしてきます。日時用生活の安定のあらゆる事に宗教がからみついている感じです。
by 柘植 (2007-05-11 14:51) 

pooh

> 柘植さん

なるほど、堕落のしにくさ、ですか。

穏当な運用が可能であれば、政教分離は社会にとって必須ではないのかも。プロテスタント的価値観に、ぼくは反発を感じるほうなので。

でも、聖俗の軋轢がないと硬直性が高まって変化し辛くなるから、社会的イノベーションと云う面では不利かもですね。イノベーションって発想がアングロサクソン的、とも云えるのかも知れないですが。
by pooh (2007-05-11 22:05) 

FREE

こんばんは。

イスラム教ですが、西洋的な啓蒙思想というか近代的な社会への接触の違いだと思います。イスラム教でもキリスト教でも教えに反する堕落は有ります。キリスト教では西洋的な合理主義・啓蒙主義・科学主義・多元主義が生まれたおかげで高等批評や文献分析としての聖書学が生まれたわけで、コーランの批評や文献としての分析はまだ始まったばかりです。イスラム内部での分析はこれからです。もっとも社会・経済としての近代的なものはすでにイスラム圏にも到達しています。キリスト圏では西洋的近代は内部から生まれましたが、イスラム圏では西洋より「汚染」されたものです。
 先にファンダメンタリズムについて書きましたが、宗教が穏健である事ができるのは、宗教内の思想や信仰が物語(神話)の作用で維持できる段階か、近代的に分解された状態を飲み込める(近代に適合するように変化)状態になる場合だと考えています。
 本来物語りは現実と同じでなくてはならない必要は無いと思います。
例えばキリスト教の聖書ですが、聖書に書かれている内容が現実である必要は無く、意味するものこそが経典として大切なはずです。聖書は史実書ではなく教えの源泉です。カトリックに抗議したプロテスタント、プロテスタントを先鋭化した福音派やセブンスデイ・アドヴェンテスト、モルモン教、エホバの証人などの前千年王国信仰の教団と聖書を信仰の思想や道徳律を導く物語の力から、聖書に書かれている内容が現実であるという直解的理解・史実化の傾向を強めました。近代的に解体された聖書や啓蒙的な多元主義的な価値観に対抗して、聖書の無謬性を重視するあまりにむしろ物語の力を削ぐ方向へ進んだのではないかと思います。逆説的ですが、近代的な合理主義に対抗するために物語から現実へ引きずり降ろしている気がします。ファンダメンタリズムは近代に対する宗教の防衛反応で、防衛反応が逆に宗教的な価値から史実・現実へと価値を逆転させている姿と捕らえています。
 聖書やコーラン(クルアーン)が何百年かかって成立しても、コーランが一人でかかれたものでなくても、世界が創造されていなくても、千年王国が現実に生まれなくても教えの価値は一向に減ずる事は無いと思うのですが。

まだうまく考えがまとまっていませんが、別のエントリーにあった水に証明を求める坊さんの話も物語・神話の力と史実・現実が逆転して無理やり合理的な説明をつけている一例ではないかと考えました。
うまくまとまったコメントでなくて申し訳ありません。
いつか考えがまとまったら再度書きたいと思います。

ところでpoohさんの考えるプロテスタント的価値観って具体的に何をさすのでしょうか?
by FREE (2007-05-15 00:48) 

pooh

> FREEさん

おっしゃることは感覚的にはよく分かるような気がします。そうやって考えるとファンダメンタリズムってのは「不合理なことをピュアに信じる」ようなことじゃなくて、教えの中から本質的なものを抽出する力が失われたがために教えそのものを現実に沿わせようとする、そう云う発想なのかも知れませんね。科学に(その本質を理解しようとしないまま)信頼を置くことがニセ科学を「信じる」ことに繋がって行くのにも似たメカニズムなのかもですね。結果、現実をねじ曲げて理解することになる、みたいな(あれ? これは結果ではなくて目的なのか。微妙だ)。

> ところでpoohさんの考えるプロテスタント的価値観って具体的に何をさすのでしょうか?

あ、これ、漠然とヴェーバー的なものを示して使ってます。ちゃんと原典を読んだことはないのですが。
by pooh (2007-05-15 22:17) 

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