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現状認識と誠実さ [世間]

アロマテラピーに使用するハーブのショップを経営しておられるjgnhm075さんの理論武装と云うエントリを読んで、ちょっと感動した。いや、この方にとっては当たり前のこと、なのかもしれないけれど(だからこう云う取り上げ方は、少し失礼なのかもしれないけど)。

誤解されそうなことをあえて書くと、例えばぼくは代替医療や民間療法と云うようなものを頭から否定はしない。医療に求められるものは現在の自然科学の文脈上にあるものだけではないし、経験的に積み上げられて来た知恵には価値のあるものがたくさん含まれている、と思う。osakaecoさんmedtoolzさんのエントリからも、その辺りは学ばせていただいた。

ただ、現実として医療は合理的(≒科学的)に行われる必要がある。そうでないと、結果に対して責任を負うことが(あるいは免責されることが)できないからで。多くの代替医療はその部分を曖昧にしたままで、おそらく曖昧にすることによって消極的に免責を主張しているように見える。
責任を持って代替医療行為を行うためには、おそらくは自然科学的アプローチの側面を無視する訳にはいかないのだ。現実として。

人間の五感に働きかけることが、その人間になんらかの効果を及ぼすのは当然で。病は気から、と云うのも嘘ではないし、嗅覚に働きかけるアロマテラピーがいろいろな生理的効果を実現するのも少しも不思議ではない。それは経験的な知恵に基づくものだ。でも、そこにのみ棹さすことには、ニセ科学やホメオパシーが陥っているものと同じ陥穽が待ち構えている。

私は、アロマテラピーや薬草の世界は、そうではないと思っているし、信じたいと思っている。でも、この世界を知らないほとんどの化学者や医師の目から見れば、それは「エセ科学」の一つと見られることの方が、圧倒的に普通なのかもしれないとも思う。

現実は、このように冷ややかである。
だからこそ、事故のないように、私たちは理知的に動く必要がある。
その為に、学ばなければならない事は多い。人に影響のあるものだからこそ、正しく知らなければ使えない。

この方のエントリを読んで、その姿勢の厳しさに少し驚いた。で、少し調べてみて、アロマテラピーがその化学的メカニズムを非常に重んじ、探求を続けていることを知った。けして療養されるものが「信じ、受け入れることで作用する」ようなテーゼのもとに運用されているものではないことを。

そこにはもちろん、現在の自然科学で証明されていない「知恵」が内包されているだろう。でもそれは自然科学の欠陥ではないのだ。自然科学にも伝統的な知恵にも、未だ到達できていない領域はある。そのことを認め、互いにそれぞれの価値を理解し、目的に向けて常にそこを補うべくアプローチを続けること。

私たちは、この世界が、治療の一つの選択の形として取り入れられる日が来る事をあきらめたわけではないけれど、でも、時間はかかるだろう、と身にしみて感じている。
私たちの時間だけでは、もしかしたら足りないほど長くかかることを、覚悟しなければいけないのかもしれない。

でもその試みは、そしてその背景にある誠実さは、とても価値のあるものだと思う。
現在の自然科学も、多くのひとたちの積み重ねて来たもののうえに成立しているのだから。


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ちがやまる

「現実として医療は合理的(≒科学的)に行われる必要がある。」
という表現はむつかしそうですが、大切なことは、現在ある他の介入方法と比べて効果があって害が少ない、そういう方法を採用すべきだ、ということですよね。
ただ、その答えが明確でないこともあるでしょうし、「いい」ことがわかっていないものを排除してしまうと将来の発展の芽をつんでしまう可能性もある、というあたりが問題でしょうか。
by ちがやまる (2007-05-01 07:56) 

pooh

> ちがやまるさん

いらっしゃいませ。こちらでははじめまして、ですよね。

ええとですねぇ、このあたり、医療の現場の現実、みたいな感じでリンクしたmedtoolzさんのところでの議論が絡んでくるんですよ。
医療行為は手法の合理性・非合理性を問わず結果責任が発生するわけで。逆に言うと「望ましくない結果を生みうる可能性を残しつつも特定の手法による医療行為を選択する妥当性」をなんらかの基準で準備する必要があって(そうしないと、仮に思わしくない結果に至った場合にすべての医療行為は「誤った判断によるもの」と云うことが可能なわけで)。それは現状、自然科学的基準を適用する以外に客観性が準備できないのかな、と云うことなんです。

医療を実施する側としては、「直らなかったのは西洋医学を重視してホメオパシーを使わなかったからだ」とか云われて訴えられたらたまらない。でも実際には、自然科学的な基準に照らし合わせて合理的な手法の選択を行うことが妥当であるという認識があって、それが責任の範囲を規定しているわけです(とはいえ最近はその辺りが怪しくて、そのことが医療崩壊だのなんだのと云う問題と関連してくる)。

ある代替医療行為についてその自然科学的合理性を追求しようと云う発想は、可能な限り現在の医療が背負っているものと同質の責任を自らも負うことで貢献しよう、と云う考え方です。多くのニセ科学や問題のある代替医療はこれらの責任から漠然と自らを免責することで成立していることが多くて、この点もひとつの問題点だと考えているので、jgnhm075さんのスタンスはすばらしいなぁ、と思ったわけです(どうもアロマテラピー的には結構主流の発想のようですが)。
by pooh (2007-05-01 08:21) 

ちがやまる

私はpoohさんの「自然科学的合理性」に話をつなげていく部分がうまくフォローできていなくて、逆にそこまで話を広げる必要はあるのかなあ、と素朴な疑問を持ったのでした。

jgnhm075さんの記事は、精油の濃度を考えないで皮膚につければ紅斑や湿疹がおきてもおかしくないのだから、ふだんどのように使っているかをじょうずに他の人(文脈では医師)に伝えていこうよ、という主張であると読めました。(「理論で武装」ということばは、別な思考の流れから出た思いつきをそのまま表明しただけの可能性があるように思えます。)
「medtoolzさんのところでの議論」はどの箇所をさすかわかりませんでした。

「西洋医学(欧米で標準と考えられている医学教育によって伝えられる技術・方法)」の方で、治療法などを人に適用しした場合の効果をきっちり比べてそれで勝負しようぜ、という考えと方法が前世紀終盤に急速に広まって、2000年ころからは「西洋医学」以外で行なわれる治療法も同じ土俵で比べられるようになりました(歴史をきっちり押さえていないので時間軸は多分に主観的ですが)。2000年当時の私は、これで漢方なんかのとらえ方もすっきりするなあ、なんて思ったものでしたが。
ただ、注意しなくてはならないのはこれには異文化のぶつかりあい(抗争)の側面もあることです。「代替 "alternative"」ということばもすでに「西洋医学」の価値基準による判断のこもったことばですし(私はそれでいいと思っていますけれども)。漢方医やはり・灸などの療法の歴史をもつ国で医師がそれらの側面をじゅうぶんにすくい取って来なかったこともアヤシイものの跋扈と関連があるかもしれません。
by ちがやまる (2007-05-01 10:35) 

pooh

> ちがやまるさん

ごめんなさい。分かりづらかったです。と云うか、別のエントリからの流れも混在していたりするので、見通しづらい部分がありました(すいません。単一の問題意識と特定の立脚点を設定したブログではないので、こういうことはまま生じます)。

> 「medtoolzさんのところでの議論」はどの箇所をさすかわかりませんでした。

これもある特定のエントリ、または一連の同一テーマのエントリを指すわけではないのです(ので、個別のパーマリンクへのリンクは設定していません)。medtoolzさんは昨今の医療の現場に存在する問題点をまさにその現場から論じておられることが多く、この種の問題を考える際に参考になるエントリを多数お書きになっていらっしゃいます。漠然とそれらを総合的に示したつもりでした。
またjgnhm075さんについても、エントリ単体の評価ではなく、いくつかご本人の関連エントリやお知り合いの方のコメント欄でのご発言なんかも拝見したうえでの評価が加味されています。言及したエントリだけでは、もちろんお読みの方にそこまでは伝わりませんよね。

このあたり、書き方をどういうふうに工夫したものか。「医療は純粋な自然科学ではない」と云う見解も、osakaecoさんとのやり取りから得た理解だしなぁ。このあたり、説明していると重複が多くて冗長になるし。ちょっと課題とさせてください。

> ただ、注意しなくてはならないのはこれには異文化のぶつかりあい(抗争)の側面もあることです。

これはあるでしょうね。
なんかフェアじゃない気もしますけど、やはりこれは「一旦相手の価値基準の土俵に乗って勝負する」しかないんでしょうね。
by pooh (2007-05-01 12:18) 

TAKESAN

今晩は。

以前、とある医師の講義を受けた事があるのですが、その方が強調しておられたのが、「医学と医療は違う」、という事でした。
つまり、「医学」とは、人体の構造機能に関する自然科学的知識で、「(自然)科学」である、そして「医療」は、そこに、様々な社会的要因が絡み合った現象―告知の問題や治療方針の決定に関する問題、又、災害や戦争時の治療の優先順位といった、科学では容易に答えを出す事が出来ない問題を含んでいる、というお話でした。それを聴いて、成る程な、と思った記憶があります。

ところで、こちらのエントリーに直接関係するものでは無いのですが、apjさんの所で、興味深いサイトが紹介されていました⇒http://cancer.squares.net/?page=%BA%BE%B5%BD%BB%D5%A4%CE%B8%C0%A4%A4%CC%F5
by TAKESAN (2007-05-01 18:58) 

ちがやまる

poohさんの「考える」活動には敬意をいだいておりますので、その活動を急かせるつもりはありません。ただ、poohさんの(大きくとらえた)テーマからみると「自然科学」ということばは広すぎる、というか意図する以外の階層で理解されてしまわれることを警戒する必要があるように思いました。

概念的には、人間に関する生物学は「自然科学」といってもいいのでしょう。たとえば遺伝情報はどうやって分裂したあとの細胞に伝えられるんだろう、とかいう知識を獲得するために行なわれた活動。医学を看板にかかげて活動していた人たちは、必ずしもそれを知ろうという目的で活動していたわけではないと思われますが、病原菌の発見、細菌の病原菌(ファージ)の発見、あるいは、腫瘍遺伝子の発見、がんウイルスの機序解明、、、などは結果的に「自然科学」としての生物学に寄与することになりました。「自然科学」の成果も、たとえばインフルエンザの診断、治療薬、ワクチン、、、などのようなもののために役だっている。
でも、「医学」は純粋な学問を想定しても、自然のしくみを知ることのみが目的ではないので、「自然科学」と呼ぶのは適当ではないと思います。動物学や植物学の活動は、担っている人の活動すべては「自然科学」とは呼べないかもしれませんが、目的とするところは「自然科学」といえると思います。
バイアスがかかっているかもしれない言葉遣いを強要してはいけないので、あくまでも参考にしていただければ。あと、「アロマ」については、全く知らない人ですが下のリンクの内容は信頼できると思います。
http://park12.wakwak.com/~alchemist/aroma.html
by ちがやまる (2007-05-01 19:55) 

pooh

> TAKESANさん

医療にまつわる問題はいまそこにある、とってもホットな話題なのですが、それだけに難しいです。医療行為、と云うものの目的上とてもたくさんの要素を内包していて、それだけに複数の評価軸が存在するので。

ぼくはこれを、数十年と云う比較的短いスコープでの「職業と云うものに対する敬意と矜持の変化」と云う軸から考えたいなぁ、とずっと思っていて。でもなかなかそこには思考が到達してくれない(^^;。

ご紹介のサイト、興味深いです。でも、こう云う詐欺って、例えばこの辺りでヒューマン・マネジメントなんてかっこよさげな言葉で紹介されている技術と、根は同じなのかな、と思わなくもなくて。

http://itpro.nikkeibp.co.jp/watcher/ashiya/index.html

だから、「カモになる側」としてのスタンスから論じたいな、と思うのです。ぼくらは普通に仕事していても詐欺に囲まれて暮らしているようなものなんじゃないかな。
by pooh (2007-05-01 22:03) 

TAKESAN

なかなか難しいですね。

「科学」だと、自然現象としての人間のメカニズム、という所がぼやけてしまうし、「自然科学」だと、確かに、ちがやまるさんの仰る様な解釈も、出来ますね。
論証の方法に目を向けて、「実証科学」とするのが良い気もします。
by TAKESAN (2007-05-01 22:07) 

pooh

> ちがやまるさん

要はぼくは寝ぼけ頭なだけなんですけどね。
でも、特定のバックボーンを持たずに、個人の立場で、狭い視野なりにそれなりにホリスティックに考えていく、と云うことにはそれなりの意味はあるかと思っています。poohみたいな馬鹿にも分かるんだから、みたいな部分を担保する、と云うか。前のエントリでの思考を踏まえて次のエントリを書く、みたいになっちゃって、エントリが単体で分かり辛くなる嫌いはどうしてもあるんですけどね。

自然科学、と云う用語は、「科学」と云う用語から人文科学・社会科学をとりのぞいたものとして使っています。で、医学に関して云うと、普通は自然科学の一分野として捉えられがちです。でも、ぼくは医学にとっての自然科学は、その合理性を担保するもの、として考えています。医学にとって(と云うか現場の医療にとって)必要なのは、自然科学的な根拠の他に、倫理学や上に挙げたような(ちょっとevilな)ヒューマンマネジメントなんかもあると思っています。

ご紹介のサイト、興味深いです。
なんと云うか、人間の五感に訴えるものは、それが根拠づけられているかどうかはともかく、ちゃんと探求していけばどれも意義あるもの足りうるはずなんですよね。
by pooh (2007-05-01 22:14) 

pooh

> TAKESANさん

> 論証の方法に目を向けて、「実証科学」とするのが良い気もします。

それはぼくのロジックからいくと概念として扱いづらい(^^;。
by pooh (2007-05-01 22:15) 

ちがやまる

医学も医療も、「合理性を担保」する必要は感じていないと思います。結果は事実として目の前に突きつけられますから。でもそれへ対応する手続きを「合理性を担保」すると呼ぶということにする、ということでしょうか。

> ちゃんと探求していけばどれも意義あるもの足りうるはずなんですよね。

直感を信じて進むプロセスはどんな領域にもあると私も思います。では、poohさんの考察がみのりあるものに発展しますように。
by ちがやまる (2007-05-02 08:01) 

pooh

> ちがやまるさん

ありがとうございます。

いま、医療行為は大きなリスク(典型的には訴訟リスク)を伴うものになっています。なにか事故が生じたときに、その医療行為が全体として「妥当であった」ことを証明する必要がある。これってオペレーション全体にわたる問題(搬送体制とか対応体制とかも含む)なのですが、その中にその医療行為のなかで生じる複数の判断の(すいません、適切な用語が思いつきませんが)「自然科学的妥当性」というものもある、と云う話をしたかったんですね。
用語にぶれがありましたが、この「自然科学的妥当性」を「合理性」と呼んでしまいました。確かに分かりづらい。

で、「信じれば効く」系の代替医療の多くは、その高みにはまったくなくて。そういうことで、引用元のエントリをお書きの方の、責任を負えるだけの高みを目指そうという姿勢にちょいと感じるものがあった、と云うことだったわけです。
by pooh (2007-05-02 08:16) 

柘植

こんにちは、皆さん。

 科学(理論科学)と技術(実証科学)の違いというか、そのあたりがなんか混沌としている気がしますね。私は「理屈の分からない誤差」の理屈の解明に10年かかったなんて話をしますが、その間というのは、「こういう操作をすると、こういう誤差が出る、だからそういう操作はするな」と言っていた訳です。こういう「誤差がでるからやるな」という警告のようなものは、その誤差が出るという事さえ確認されればするべきなんですね、どういう理屈でその誤差が出るかが分からなくても、誤差が出ないことににはならないからね。現実に「理屈は分からないが、こうすると正しい結果にならないので、こうしてはならない」という注意書きが書かれたJISの分析法なんてのは他にもあって、人から「なんで?」と聞かれると、「まだ分からない、とにかくやるな」で誤魔化しているものもある。

 医療というのも、「効果がある」と実証されたなら、効果の理屈なんて後回しでも使って良いし、「良くない」と実証されたら、「なぜ悪いか」の解明は後回しでも「やるな」とか「気をつけろ」になる訳です。

 でもね、私がなんで「これをやったら誤差が出る」という理屈の解明をやるかといったら、「気持ち悪い」訳ですよ、理屈が無いとね。この気持ち悪いというのは、気分というよりもとても現実的な意味なんです。なんていうか「これをやったら誤差が出る」という経験則が実証されないと、「これをやらなかったら正しい分析値が出る」も経験則に過ぎなくなって、本当のところ、そうやって得られた分析値が「正しい」とは言えなくなる面があるわけですね。「とりあえず、経験的に正しそうだから正しいと置こう」としているに過ぎなくなるわけです。誤差が生ずる理屈が解明される事で、その操作をしなかった時に正しい分析値が得られるという理屈に不透明な部分が無くなってきちんと成り立つ面がある訳です。

 現実的な意味で「効果がある」がきちんと実証されるなら使えば良い訳だけど、その効果がもたらされる理屈が分からないなら、実のところ、「どれほど危険性を含んでいるか」も経験的なものでしか無いわけです。そういう理論科学が伴わない実証科学の「気持ち悪さ」というのは理解して欲しい所なんですね。
by 柘植 (2007-05-02 12:58) 

ちがやまる

柘植さんとお話できるかと、また戻ってきました );;
「科学」ということばをできるだけ使わない(けちけち使う)方向って可能なのではないでしょうか。
どんな人為的な操作についても、それにつきまとう現象を解明するなら堂々と「現象の解明」として科学を名乗る。その操作を標準としましょうというのは「取り決め」であって、より大きな系で「科学」と呼べる営為にとって必要なものであっても「科学」とは言わないことにする、というようなことはできませんか。
(わたしは、「人文科学」の「科学」ってどういうものかなあ、と今考えているところでした。poohさんが「文系」「理系」の区別をたてるのは生産的でないと(表現はちがったかもしれませんが)おっしゃっていたことに同意するのですが、「人文科学」「社会科学」と呼べる領域を設定してそちらから「科学」の意味をさぐっていく、というのは、はたしてうまくいくのかなあ、、というようなことについて。)
by ちがやまる (2007-05-02 19:13) 

pooh

> 柘植さん

なんかお書きのことは感覚的にはすごく分かる気がします。
実証と理論、両方並んでの「科学」なんだろうな。互いが互いの背骨を支えてる、みたいに。

経験→実証→理論、みたいな流れなのかな。でもこれって自然科学の専売特許じゃない気もしてきた。
by pooh (2007-05-02 22:03) 

pooh

> ちがやまるさん

えと、ぼくが先にレスしていいですか?

どうにも科学、って言葉に座りの悪さを感じることがままあって。で、結構注意深く「科学」と「自然科学」を使い分けることになります。

科学的=自然科学的、と云う訳ではなくて。広義の科学は「科学的手法を用いるもの」すべてを指すんだろうな、と認識してます。で、ぼくの把握している科学的手法ってのは直前の柘植さんへのレスに書いたようなステップを踏む思考の方法のことで。

ぼくは多くの場合菊池誠の定義した「ニセ科学」と云う用語を用いて、その定義の中で批判をしています(有効な定義だと思っているので)。でも、ぼくは自然科学者ではないので、実はぼくの云う科学はもっと広く「合理性」みたいな意味なのかも知れないです。
by pooh (2007-05-02 22:12) 

TAKESAN

今晩は。

結構複雑な問題ですよね。
歴史的な経緯を見ると、「科学」というのは、そもそもは、専門分化した「個別諸科学」、にあてられた訳語ですから、私は、それを念頭において、「学問」とほぼ同義に用いています。そうすれば、人文・社会・自然科学を包括する概念として使う事も出来ますし、そこに通底する部分を示す語としても使えるので、良いのではないかと思います。

これは、poohさんが仰る
 >ぼくの云う科学はもっと広く「合理性」みたいな意味なのか
 >も知れないです。
この用法とも、重なると思います。本来の「science」の解釈としては、寧ろ、こちらが妥当ですよね。

それと共に、現在、社会一般的には、概ね、自然科学、もう少し広げて、実証科学を指す語になっているとも思います。一般的には、哲学者は「科学者」としては、看做されないでしょうし。ここら辺が、ややこしい所なのでしょうけれど。

私としては、基本的には、合理的に組み立てられた知識の体系を「科学」として、後は、着目する研究対象や方法によって、色々使い分けるのが、良いのではと考えています。
by TAKESAN (2007-05-02 23:56) 

pooh

> TAKESANさん

用語の問題は難しいです。ぼくみたいに、特定の分野のターム、みたいなのに依存しないようにエントリを書く、みたいなスタンスだと、そもそも通じるように文章を綴ること自体が大変。

> 歴史的な経緯を見ると、「科学」というのは、そもそもは、専門分化した「個別諸科学」、にあてられた訳語ですから、私は、それを念頭において、「学問」とほぼ同義に用いています。

もうぼくもおっしゃるとおりそのままです。
でもこれはぼくらみたいな在野の人間だけの感覚じゃなくて、多分菊池教授も同意してもらえるような定義だと思います。
by pooh (2007-05-03 00:09) 

ちがやまる

こんにちは。異議をとなえる、とかじゃなくて、話の流れにのっかった(つもり)の追加発言です。

1.きくちさんの「ニセ科学」は、彼が専門分野での活動も含む人生でつみ上げてきた常識からみて「外れ」のほう(捨て置けないと感じるもの)から取り上げておられるんだと思います。それらにあとから名前をつけると「ニセ科学」ということになったのではないかと。
2.poohさんは、「外れ」よりも日常生活に近いところをねらっておられるのでしょうから、ことばを用いるとり扱いはより大変だろうと思います。
3.今われわれの社会で「科学」ということばに一番あうのは、19世紀おわりから20世紀にかけて発展した物理学や化学ではないかと思います。同時期に心理学、社会学(経済学)、生物学なども大発展をしていて、物理学や化学の発展とふかいつながりがあると考えてもいいのですよね(あまり話が大きくなってすみません)。ここらまでをひとくくりにして(学問分野としての)「科学」という、というのはどうでしょう。
4.TAKESANさんの「個別諸科学」は、それぞれ独自の論理(ロゴス)を持つ学問分野(~logyってつくようなやつ)に対応すると思います。これは「諸学」と呼ぶことにするというのはどうでしょうか。
by ちがやまる (2007-05-04 18:54) 

pooh

> ちがやまるさん

あ、整理してくださった。ありがとうございます。

実際のところ、ぼくはちがやまるさんが3.においてお書きいただいた定義で「科学」と云う言葉を使っているんだ、と思います。で、より1.に近いニュアンスを示したい場合に、「自然科学」と云う用語を使用しています。

で、それはそれほど厳密な使い分けではなくて。なぜかと云うと、書き方のアプローチの性格から、厳密さはそれほど意味をなさないのです。それよりも、前後の文脈や議論の向きから見て、より正しく判断されうる使い方が、多分ぼくの書き方からは要求されていて。これは、したいアプローチのベクトルと、単純にぼくの文体の質の関係です。

でもって、正確に定義して用語を使うのと、ぼくみたいに用語にある程度の曖昧さを許容した上で表現の流れで読むひとに大掴みでちゃんと把握してもらおうとするのとどっちが難しいのか、と云うと––まぁ、ぼくとしては後者のほうが性にあってる、って云う程度のことですけど。
by pooh (2007-05-04 19:30) 

柘植

こんにちは、ちがやまるさん、皆さん。

>柘植さんとお話できるかと、また戻ってきました );;

連休中はいろいろと忙しくて、書き込む気にならなかったので、亀コメントになってしまいました。

 まず「科学」という言葉は2面性があってね。もともと人間の合理的思考による営みを全て「科学」として、そこから自然現象に関する合理的解明や応用を「自然科学」、人間の社会や文化に関する合理的考察を行う営みを「人文科学」なんて分類もあつたのですが、自然科学のみが「科学」という用語の中で突出してイメージされている面がありますからね。私はいちいち解説することをサボって、人間の合理的営み全般には「学問」という言葉を使うことが多いです。

今朝、kikulogにも書いた事だけど、「人を人たらしめるもの」というのは、「まだ目の前に起こっていない事」を「思う力」なんです。それが辛いことであれば「思い煩う」であり、それが心地良いことであれば「夢見る」となる訳ですね。

この「思う力」というのは人類にとって非常に大きなものでしてね。「冬が来て食べ物が無くなったら飢えてしまう、どうしよう」という「思い煩い」が「蓄える」という文化を生むのだけど、「蓄えたら良し」じゃあないよね。「本当に足りるのかな、途中で腐って食えなくなったらどうしよう」なんても「思い煩い」に限りが無いわけです。そこを安心したいなら「こうやれば腐らない」も発明しなければならないし、数や量の概念も発明して「冬の長さは何日、蓄えはこれだけ、食う人間はこれだけ」から「冬の終わりまで生きていける」と計算までできるようにならないとならないのね。こうやって、「安心する」というために「理屈が成り立つ」ことを身につけた時に、人類はやっと「思い煩う」という事の限りなさに或る程度のピリオドが打てた面があるわけです。

「理屈が分からないけど効くみたいだから取り入れる」というのは、人類がやっとこさ「蓄える」を覚えたみたいなものでしてね。そこで「蓄えたから安心」と腐ることに思いを馳せなかったり、足りるかどうかに思いを馳せなかったら、たぶん皆さんは今生きていない訳です。人間の基本の能力である「思う力」というのは「理屈が立つから安心して使おう」までいって、やっと「思い煩う」から解放されるという事ではないのかなと思ったりします。
by 柘植 (2007-05-07 10:14) 

ちがやまる

○子供の頃やったと思いますが、虫取りをするのに、そ~っと近づいて相手を油断させておき、ぱっと捕まえる、あの感覚。「科学」を捕まえよう、というときにも、そ~っと近づいて相手の動勢を観察する、というのがたぶん必要なんだと思いました。具体的なやり方はそれぞれで工夫すればいいのでしょうし。

○そういえば「学問」ということばがありましたね。前に「諸学」とか言ったのは、「学問」とした方がよかったかもしれません。

○農耕文化の起源で、来年のための種を今食べてしまう欲望に打ち勝つっていうのが重要だ、みたいな話がありましたが。今思いうかべてみると、たぶん食べられない種を使って充分訓練を積んだあとで人類は穀物の農耕を始めるようになったのだろうという気がしてきました。
人類が訓練を積んだ食べられない種は、きっと瓢箪(gourd)です。
by ちがやまる (2007-05-07 18:50) 

ちがやまる

アフリカ原産の「フクベbottle gourd」がアメリカ大陸に渡ったのは、極東で栽培が行なわれるようになった(推測では12,000–13,000 B.P.ころ、実際に遺跡で発見されているのは 8,000–9,000 B.P.ころ)のを人類が持って行ったのではないか、 という説があるようですね。定住して土器を作るようになる前には、軽いし、容れものとして重宝しただろう、とか、犬の家畜化とも一緒の文化だったんじゃないか、とか、面白いことが考えられていますね。
An Asian origin for a 10,000-year-old domesticated plant in the Americas (PNAS)
http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?tool=pubmed&pubmedid=16352716

こういうのを見ると、人類がなしとげた事について現在に視点を置いてmerginallyにみる議論はかなり慎重にしたほうがいいんじゃないか、という気持ちになりますよね。
by ちがやまる (2007-05-08 04:27) 

柘植

こんにちは、ちがやまるさん。古代史は趣味なのでおつきあいしたいけど、とりあえず話を本筋の「現象の実証」と「合理的原理解明」の話にもどしましょう。

 なんていうかな、「まだ起こらないことを思う力」というのが人間を人間たらしめている能力なんですね。そして能力は常に「役に立つ面」と同時に「苦痛」ももたらすものなんです。人は「冬にはならないけど、冬になったら飢える」と思ってしまう苦痛から「蓄える」を発明して冬が厳しい地方でも生きてこれるようになった。でも、「蓄え」が本当に足りるかどうかと思うこともまた「苦痛」なんです。それに対する答えが数の概念であり計算という合理性なんですね。たぶん、その歴史の中では「蓄えがたっぷりで冬が越せた」も「蓄えたけど足りなかったので、仲間を喰って生き延びた」なんて事もあったかも知れませんね。これが「現象の実証」です。「現象の実証」は「蓄えれば冬が越せる」は分かっているけど、まだ「今度も蓄えが足りなくなるのではないか」なんてね、ずっと不安なわけですよ。それに対して数と計算という「合理的原理解明」が発明されることで、はじめて人は「冬が越せる」と安心出来たということなんです。
by 柘植 (2007-05-08 09:19) 

ちがやまる

例がよくわかりません。分析化学は(もちろん)私は素人ですが、そちらの話をしていただく方がむしろわかりやすいかもしれません。
「科学」には二つの面がある、というお話だったですね。その二つは全く交ざりあわないものなのですか?二つ以外にも面はあるんですか?

「苦痛」や「安心」といったものも説明(私からみれば理解)に不可欠なものなのですか?
by ちがやまる (2007-05-08 13:51) 

柘植

こんにちは、ちがやまるさん。

>「苦痛」や「安心」といったものも説明(私からみれば理解)に不可欠なものなのですか?

不可欠という事はないのですけどね。なんていうか「実利」をもたらしてくれる「技術」の裏には必ず理屈があって、実利だけを求めるなら理屈は知らなくても良いのだけど、「自分が知らない」という事と「誰も知らない」という事は本質的に違うという事ね。例えば、私もちがやまるさんも建物の構造計算なんてできないのね。私はできないだけで、どんな計算をするかくらいは知っているけど、たぶん、ちがやまるさんはやり方もご存じないと思います。でもね、家を建てるときに「建築士が構造計算をしていますよ」という家と「誰も構造計算なんてしていないけど、今までこの建て方で建てて大丈夫でした」なんて家は同じじゃないでしょ(日本では法律で建築許可がおりないけどね:笑)。なんていうかな、構造計算のされている家というのは、構造設計の元になっている「理屈」にかなっている家なのね。それに対して「今まで大丈夫でした」は「経験」だけの家ね。そういう2つのものを「同じくらい安心」と見なさない人の心という部分に「苦痛」とか「安心」という言葉を使ってみた訳です。
by 柘植 (2007-05-08 17:26) 

ちがやまる

ああ、柘植さんの近くには有限要素法なんかを使ってシミュレーションしてみせてくれるような人がいて、私のまわりにはいないだろう、とおっしゃるのですね(なんでわかるんだろう。昔は結構いたんですけど。)。
私も柘植さんが「経験」のことをおっしゃっているのかな、とちょっと思いました。検証で生き残った仮説のひとつをとりあえず「経験」と呼んでみます。複数の経験が束になってより大きな「経験」をつくることもあるでしょう。でもその「経験」は何段重なっていてもいいわけでしょうし、多い経験に裏付けられている方が実利も一般的には大きいでしょう。「経験」を2種類に分ける必要はないのではないでしょうか。
柘植さんはどういう基準で線をひいて「経験」を2種類に分けておられるのでしょうか。
by ちがやまる (2007-05-08 18:13) 

ちがやまる

質問の形式だと返答を強要しているようで申し訳ないので、現時点での私の印象をしるしておきます。特に反論がなければ、これでとりあえずおしまい、ということにしましょう。
ある目的のもとで現実を説明するモデルにも、とりあえず使われているが別なものに代えたほうがいい事と思われるもの、長く安定して使われるものなど、様々に評価されるものがあるでしょう。しかし、これを科学の性質とか科学の2面性とかと呼ぶことは適切ではない。それによって何かが明確に示されるなどの見通しがないからである。
by ちがやまる (2007-05-09 03:47) 

柘植

こんにちは、ちがやまるさん。

科学の二面性というよりも、学問と技術の関係を説明したかったのだけどね。途中で用語論も入ってきて、「科学」という用語に「学問」という意味の古典的な広い使い方と、近年の自然科学のみが広く人に知られる状態になって「自然科学」という狭い意味での使われ方の二面性の話をしてしまったので、混乱させてしまったようです。

なんていうか、技術というのは必ずしも「学問から出てくる」訳ではなくて、「経験から出てくる」事も多いのね。日本刀の鋼は刃物として最高の水準にある鋼だけど、それを作る技術は冶金学という学問以前に経験により完成している訳ね。もし、実利だけを言うなら、日本刀の鋼がなぜ刃物として最高水準になるかの証明を冶金学がしたって「無意味」となる面があるわけです。現にできている技術に理屈をつけるだけみたいになるからね。ただね、理屈をこねて、「刃物として最高水準の鋼とはこれこれこういう理由で、こういう成分や結合のバランスを持っているものである。日本刀の鋼を作る操作はこれこれこういう理由で、刃物として最高水準のバランスを作り出す操作である」と理由を明らかにすることで事ではじめて満たされるものがあるという事を説明したかっただけなんです。その満たされるものというのは、或る意味で「実利」では無いので、実利しか求めない人には説明出来ないわけです。
by 柘植 (2007-05-09 17:37) 

ちがやまる

poohさんの記事にもとづいて、「科学」ということばの使い方の違いを考えていました。「技術」については、はじめの頃から自覚的に踏み込まないようにしていました。
ただし、それはあくまでも話を複雑にしないための方便としてそうしていただけです。私自身は「科学」と「技術」の関係についてほとんど考えてみた経験を持ちませんので、「技術」について語ることはありませんが、
柘植さんの例について考えられることをひとつだけ書かせていただきます。人が何かによって満たされるその何かは美であったり種々の欲であったり様々でしょうけれども、成分が明らかにされることは、品質の高い製品を再現したり、さらによい製品を開発するために探索すべき条件を提供してくれたり、ということを介して、じゅうぶんに実利ともつながると思います。
by ちがやまる (2007-05-09 19:42) 

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