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街に矜持が成立するために [近所・仙台]

fuku33さんのエントリに言及したら、トラックバックを返して下さいました。街の自己模倣と矜持と云うエントリ。ちなみにぼくは西の方の神戸っこで、どちらかと云うと柄のよろしくない方です。

年末のエントリでも書いたけれど、仙台は歴史の浅い街だ。たかだか400年少ししか、都市としての歴史がない。それも政宗さんが都市の図面を引いて、それに基づいて造られた街なので、実は生活の重みが全体に薄い。そう云う訳で、fuku33さんがおっしゃる「都市の矜持」みたいなものが依って立つベースになるものが、基本的に浅いんだと思う。

これも書いたけれど、そう云う意味で例えば博多なんて云うのは街の、なんと云うか、厚みみたいなものがまるきり違う。福岡市のなかで「博多」である部分は実際のところ古い商店と新しいオフィス街で構成されている、基本的にはビジネスセンターなんだけれど、山笠の時期ともなればその高層ビル群の間を法被に褌姿の男どもがどっさりとうろうろしている。これってちょっと見にはなんとなく違和感のある光景なんだけれど、山笠が分厚く積み重なった博多の商都としての歴史の一部を担うものだ、と考えると、実はなにもおかしなことではない。そこには、いってしまえばビジネスマンとしての矜持がある。

どうしても仙台にはそれがない。最近はよさこいだの輸入して楽しがっているけれど、田舎臭くてヤンキー臭くてたまらない。粋さ、と云うのが文化の成熟のうえに生まれる概念だとすれば、結局は田舎なのかここは、と感じることも残念ながら結構ある。まぁそう云う意味では、東京のグロテスクなカリカチュアみたいな印象のある札幌ほどではないけれど。fuku33さんの云う「自己模倣」のテーマが、多分薄いんだろうな、と思う。

何か源泉があるとすれば古い(よくも悪くも独自のカルチュアを育んでいる)大学があるくらいのもので。でもどうも弱いなぁ。地域社会の中で「かっこ悪い」と云う定評を持っている大学からあんまり人気の出るカルチュアも生まれないだろうし。

と云う訳で、ずっとうちの近所の辺り(繁華街の南端)に期待している訳だけれど。吉祥寺のハモニカ横町ほどの規模はないけれど、新旧の店舗が入り交じった区画としては壱弐参横町もあるし。
ないものは造るしかないんだろうな、と思う。ぼくができることがあるのか、と問われると、単なる一生活者には難しいけれど。


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福耳

えー。poohさん神戸の西のほうですか。僕は何度か神戸のなかで引っ越したのですが、塩屋と名谷が長かったです。高校は長田です。
by 福耳 (2007-04-17 00:56) 

pooh

> fuku33さん

いらっしゃいませ。

西のほう、垂水の団地です。なので名谷をみょうだにと読めます。中学校の途中から仙台なんですけどね。
by pooh (2007-04-17 06:27) 

柘植

こんにちは、 poohさん。

私の頭の中にはかなり詳細な日本史がそれぞれの地域で入っているので、日本中どこに行っても、どういう史跡をみても、それなりに楽しめるという「お得な人」なんですけどね(歴史というのを受験の道具としないで人生の教養にすると楽しいのですよ)。

仙台の近くの白石という街をさまよった時の事を書いてみます。別に何か当てがあつたのではなくて、「空いた時間にちょうど良い距離の街に城が再建された」といだけで出かけた訳です。城を見るのも好きなのでね。きちんと木を使って再建されていて、なかなか良い城だったのですが、一番良かったのは、その城の中で、「賊にはあらず」とかいう名前の奥州戦争の話を「負けた側から」描いた映画だつたかビデオだったかをやっていた訳ね。その映画を見るまで、白石城が奥州連合の中心になっていた事までは知らなかったのね。

なんていうかな、明治維新というのは、勝った薩長の視点で語られる事が多くて、それに抵抗した者は皆「賊軍」となっている面があるのね。そういうのを「そうじゃないんだ。抵抗した者には抵抗した者の理屈があるんだ」と小さな地方の再建した城の中で放映している事に、私はなんだかとても感動した訳です。
by 柘植 (2007-04-17 11:34) 

pooh

> 柘植さん

白石って街は歴史的にはちょっと例外な部分があって。と云うのは、白石城は江戸時代を通して片倉氏の居城として機能していて、白石はその城下町だったんです。でも白石藩じゃなくて、あくまで伊達藩で。片倉氏は江戸幕府の元で「藩主ではなく、直臣でもないけど城主であり領主」と云う一国一城令の例外として扱われていたんですよね。まぁこれは政宗さんが家康に事実上の副将軍としての処遇を受けていたのと関連するんでしょうけど(って、とうにご存知のことを再講釈しているような気がする。ごめんなさい)。

そういうわけで白石は伊達藩ですが、白石の殿様は今に至るまで伊達家ではなく片倉家だったりします。とはいえそれほど濃厚な気質の違いがあるわけではないんですけどね。
by pooh (2007-04-17 12:17) 

柘植

こんにちは、

私は仙台に限らず、東北の街を歩くと「地政学的不幸」みたいなものを感じる事があります。まあ、地政学などを持ち出すと「決めつけ」みたいに成ってしまうかもしれないのだけどね。

日本の場合は、本州の南西部から九州にかけてが温暖で農耕にもゆとりがあります(鹿児島などでは、一度稲刈りをしてもその切り株から出た新たな茎に再度米が実ったと言います)し、外国から新たな文化の流入も起こりやすかった訳です。そのため、東北地方などは自分たちの文化ができる頃には、南西部で発達した新たな文化に押し流されるという歴史を繰り返してきたように思うわけですね。

伊達政宗も、戦国大名としてピカイチの人でありながら、東海に起こった新たな勢力に対して「一歩出遅れてしまった」訳です。彼が偉かったのは、「その出遅れを認める度量があった」という事だろうと思うわけです。
by 柘植 (2007-04-17 14:12) 

pooh

> 柘植さん

「暖かい地方の根源的な豊かさ」と云うものは感じます。ぼくはバリのガムランが好きでここでも頻繁に取り上げていますが、あれほどまでに複雑で高度な音楽が民衆のものとして受け継がれ、現役の音楽として演奏され続けている背景には、朝から午前中一杯田んぼ仕事をすれば年に3回米が取れてしまう、と云う豊かさが関係しているとも思います。

文化の伝播、と云う話では、確かに東北はあまり有利な地理にはなかったろうな、と思います。この辺、fuku33さんにいただいたトラックバックへの返信も含めエントリにまとめようかと思っています(昨夜はso-net blogがメンテナンスでして)。

ぼくは母方が長崎なんですがまとめて住んだことは2歳になって以来なくて、少し前に福岡に住むまで文化的土壌と云う面では親戚の行動パターン(^^;から推測することしかできなくて。
でも、住んでみて少し確信しました。九州は半ば(東京を中心とした文化圏と云う意味での)日本じゃなくて、アジアです。

司馬遼の「馬上少年過ぐ」なんかを読むと、政宗さんは異常な文化人として書かれています。そう云う面以外でも、徳川幕府の覇権に対し外様としてどう地域を維持していくか、の地域経営的センスについては、凄いものがあったのではないか、と思ったりしています。
by pooh (2007-04-18 12:24) 

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