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ひとから見た「善悪」 [世間]

善悪ってのは人間の(その時点での、その地域での、その文化圏での)道徳観にしか存在しないはずで。天使が善きものなのはアブラハムの宗教の中だけで、ヒンズー教のカーストにしてもその土地からすると敬虔さの顕れだったりもして。でも、なぜかそれが「宇宙を貫く法則」にされてしまう。
分かりやすいのですぐ「水からの伝言」を採り上げてしまうのだが、なぜかそれが受け入れられてしまうのは、地球が人間を中心に、自分の見聞きする範囲での善悪に支配されている、と云う思い込みがあるからなんだろうか。ranti-4さんの「自分が変わる 水の奇跡」 江本勝と云うエントリにも、そう云う雰囲気が見える。

しかし、微生物の世界では、悪玉菌10%、善玉菌10%、残り80%は日和見菌
これは人間にもあてはまるのではないかと江本先生は考えてます

これをすんなりと受け入れてしまうのはなぜなんだろう。悪玉菌と云っても人間から見て不都合なだけで、菌は菌で一生懸命生きているだけなのに。彼ら(って性別もなかろうけど)は「宇宙を貫く法則」に基づいて「悪玉」なんだろうか。気の毒に。

ちなみにやたらと感謝と云う言葉が持ち上げられる。これって、感謝する分にはタダだ(努力もいらないしお布施もいらない)と云う考え方が背景にあるのではないかと云う気がする。このことについてはもう少し考えてみる。


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コメント 8

corvo

こんばんは。
リンク先のエントリー読みました。とても気になったのが、コメント欄の次の文章です。
「私はきっと自分にとって都合の良いところだけを取り込んで
実践して自分のものにしていくタイプなので
そこにひっかからなかったものは私を通過していくだけで終わります」
これって極めて危険な考え方だと思うのですが、すんなり肯定できるのかなという疑問があります。自己中心的であると、宣言しているように思えます。
by corvo (2007-04-17 03:07) 

pooh

> corvoさん

個人の処世術としては、まぁありなのかも知れないんですけどね。
ただ、それは個人の枠をあくまでも出ない、と云う認識がないとまずいのかなぁ、みたいに思います。
by pooh (2007-04-17 06:30) 

FREE

歴史を考えるときには必須の考え方ですね。その時代においてどうであったかと、現在から見てどう位置づけるかの区別が無いとどうしようもないことになります。例えば中世のイタリア史を読んでいると都市間の戦争では降伏勧告後に受諾せず徹底抗戦を選択した場合、略奪が認められていたわけですが、それを現代の感覚で残酷だ、戦争に関係ない市民を攻撃しているなどと考えるのを短慮で行ってしまっては理解が足りないわけです。また、その時代では正しかったのだからしょうがないでは歴史から学ぶものは何も生まれません。善悪を固定化せず異なるレイヤーでみる事と、それでも何が善いのかを選択することを習慣にするのは難しいことですが、そうしないと単なる独善になってします。
個人的には「独善は百害あって一利しかない」です。
 
ちなみにこの人たちにとって善は「自分の役に立つ」だけでないかと思ってしまいます。
by FREE (2007-04-17 11:50) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

なんていうかな、善悪というのは人間中心の概念ではあるけど、変な言い方をすると「きちんと一回りして、人間中心に戻った善悪」と「どこも回らなかった人間中心の善悪」には違いがでる気がするわけです。

伝習録という陽明学の本に、王陽明と弟子のこんな対話が残っているのね。弟子が花壇の雑草を抜きながら「人の心もこうやって雑草がはびこるのでしょうか」と問うと、「万物は一体だから、君が花を愛でたいとおもうから雑草がいとわしいのだよ」と言われる訳ね。弟子が「では雑草も花も善悪に違いが無いとするなら抜くべきでは無いのでしょうか」と問うと「それだと仏教になる。抜くべきだよ」と答える訳です。

私はこの記述についてずいぶん考えましたね。最初は万物一体の教えと「抜くべきだよ」がつながらなくてね。なんて言いますか「花と雑草の善悪相対性」というのは「自分が花を愛でたい」という心から発生している訳です。そして、「自分が花を愛でたい」という部分をきちんと踏まえた上でなら「抜くべきだよ」はきちんと成り立つという事だろうと思うわけです。
by 柘植 (2007-04-17 11:53) 

pooh

> FREEさん

ぼくは大学のときアナール派を少し齧っていたので(とはいえ学部のゼミだからあんまりちゃんと勉強したわけではないですが)時代にくっついている「共通心性」と云う発想がちょっと親しかったりします。ある時代の道徳を後から見て非難されるべきことではないけれど、後の人間がそのことを踏まえないで発想するのも多分また怠慢で。

> ちなみにこの人たちにとって善は「自分の役に立つ」だけでないかと思ってしまいます。

おそらく構造的には、絶対的な「善」と、役に立つかどうかと云うことを意図的に混同させているんですよね。で、これは先週触れた辰巳渚さんの問題提起に繋がってくるんですが、そのふたつのレイヤーにある「自分が(自分のおかれた環境や文化的背景を踏まえて)どう評価するか」と云う部分が省略されている、と云うことではないでしょうか。
by pooh (2007-04-17 12:07) 

pooh

> 柘植さん

上のFREEさんへのレスと重なってしまいますが。
天と地のあいだには、必ず主体としての「自分」がいて、そこからは本来逃れ得ない、と云うことなのかな、などと思います。

文脈はそれますが、「それだと仏教になる」と云う言い回しは興味深い。
by pooh (2007-04-17 12:10) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

>文脈はそれますが、「それだと仏教になる」と云う言い回しは興味深い。

王陽明という人は儒学の人だけど、若いときにずいぶんいろんなことに傾倒した事のある人なんですね。神仙の道つまり道教に走ったり、禅宗に傾いたりもしている訳です。それ以外に任侠道や修辞学もやったり、騎射つまり流鏑馬に本気になったりもしている。コレを五溺の時代なんて言うのだけどね。だから、彼は「儒学以外はダメだ」みたいな言い方はしないのね、「道教も仏教も行き着く先は同じではないか」みたいな弟子の質問に「そうだよ、ただ儒学が一番近道なんだ」みたいなことを答えたりしているのね。
by 柘植 (2007-04-18 10:35) 

pooh

> 柘植さん

> 「道教も仏教も行き着く先は同じではないか」みたいな弟子の質問に「そうだよ、ただ儒学が一番近道なんだ」みたいなことを答えたりしているのね。

うむむ、科学的です(いや、揶揄してるわけじゃなくて)。
「仏教になる」と云うのは「それは仏教のメソッドからのアプローチだ」と云う意味な訳ですね。
by pooh (2007-04-18 12:26) 

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