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「をとめちっく」なるもの (「花宵道中」宮木あや子) [ひと/本]

例によって「本が好き!」でいただきました。女性向け官能小説、とのことで。

花宵道中

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livedoor BOOKS
書評/国内純文学

実際のところ、セックスの現場そのもの、行為そのものはとくに官能的でもない。何かしら、ぼくたちはその背景に物語を敷き、その場に臨む。楽しいのはその物語を実際の行為に落とし込むこと、その行為を自分(と相手)の物語のなかに焼き付けること、だったりする(いや、ぼくだけかもしれないけど)。
どんな物語を背負わせるか、は、相手との関係性のなかでたちあらわれてくるもの。とてもパーソナルで、だからその行為はぼくたちの奥底に深く食い込んでくる。
まぁ、何が云いたいのかと云うと、行為の描写はそれそのものでは何かを伝えてくるものではない、と云う話だけど。

この小説で描写される廓は、ほぼ完全的に女たちの領分だ。それがそもそも男たちのために準備されたものである、と云うような背景はほとんど隅に追いやられている。見世は春を売る場所と云うよりは、女たちが暮らす場所として描かれている。
そう、まるで女子校の寄宿舎のように。

大昔にはジュニア小説と呼ばれたかもしれない。いまはなんと呼ばれるのだろう。その昔、ぼくはそこそこの少女小説愛好家だった。
そこに描かれた女の子たちの狭く、濃い世界を、ぼくはここに描かれた山田屋に、吉原に連想する。暮らしを共にするなかでの先輩との関係、同窓生との関係、そのなかで生まれてくる恋愛と、それぞれの対処のし方ーーそれは、氷室冴子が「クララ白書」や「アグネス白書」で描いた徳心学園寄宿舎を連想するような世界だ。なんと云うか、「他校の憧れの先輩」的な遊女も登場するし。

下界と隔絶された世界での暮らし。いくつものルールと義務に縛られたなかで生まれてくる恋と友情、それに対する登場人物それぞれの向き合い方。そうして全体を霞のように覆う、なんと云うか、ガーリィさ。
ここでは、欲望を抱えて見世を訪れる不特定多数の男たちについての描写はほとんどない。金が介在する性行為をそれぞれの物語のなかに定置しようと云う試みも、ほぼいっさい描かれていない。それが悪い、と云うことではないけれど、吉原と云う舞台にそう云うどぶ板の官能を期待すると、少し外される。日常のなかに性行為が常在するだけで、ここで描かれる吉原はあくまで「乙女たちの世界」だ。

でもそれが欠陥である、と云うことではもちろんない。子供の頃に感じた、まだ実感を伴わないような性を含む淡い恋愛の感覚のようなものが、ここでは味わえる。そうして、ぼくのようなかつての少年からすれば、それは女の子たちの世界を垣間みるような、ちょっとまぶしいような感覚を追体験することを可能にするものだったりするのだ。


タグ:書評
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コメント 2

Gori

なるほど私も「をとめちっく」を愉しんでいたのだと納得させられました。
物語も現実(リアル)も、そして描写の妙も、その表面に表れたもののその奥底に深く食い込んでいるパーソナルなものこそがまた愉し。
リアル感の薄い江戸時代の吉原が舞台であるが故に、この物語は妄想をも愉しめる、素敵な本でした!
by Gori (2007-03-23 11:51) 

pooh

> Goriさん

この小説の置屋は、どうしても「女の園」に感じられるんですよ。本当はそこに必ず男が介在して、そこで軋轢が生じるはずなのに。で、どうしても「女子校小説」に見えてしまって。

でも、吉原の遊女の話なので、ふつう少女小説だと基調低音として隠されているセックスをちゃんと表に出して書けるわけです。そこに、なんとなく爽快感は感じました。
by pooh (2007-03-23 21:13) 

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