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「信じること」で救われること [世間]

なんと云うか、ともかくニセ科学だろうが何だろうが「信じたい」と云う心理がある、ってことがだんだん分かって来た。で、その背景には「信じることが現世利益に結びつく」と云う期待があるのも見えて来た。例えばuguisuさんの衝撃の一冊!!と云うエントリ(エクスクラメーションマークがふたつも付いてるよ。やれやれ)。

リコメンドされている本のラインアップから判断するに、この方は成功して、いい人生を送りたいらしい。まぁ誰しもそうだと云えばそうなんだろうけど。

これまで、浅見帆帆子、斎藤一人、五日市剛、本田健、望月俊孝、船井幸雄、須藤元気、ナポレオン・ヒルなど、いわゆる言葉(言霊)について持論を述べている本を何冊も読んできた。どれもこれも、確か素晴らしい内容だったけれど、やはり科学的でないという点が気にはなっていた。

それをこの本は、キレイに紐解いてくれた。

斯くして、ニセ科学は「信じる」ための言い訳を準備してくれる。科学的であると偽装することで、信じることを肯定してくれるわけだ。

でも、現世利益を主張する思想が蔓延して、それにすがる人間が増える、と云う世相は、歴史上に何度も登場したような気がする。それってやばい状況なんじゃないか?


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TAKESAN

今晩は。

やっぱり、「科学らしさ」は求める、という事が、結構あるのかも知れませんね。何か、「科学的」とか「実証された」とかが、信頼性とか普遍性を象徴する記号として「しか」機能していない、と言うか。勿論そこでは、自然科学的具体的論理は、考慮されていない訳ですね。そこに、ニセ科学の「解り易さ」が、フィットするのかも。ある信念を強化する為の、恰好の材料なんでしょうね。
by TAKESAN (2007-03-13 23:48) 

corvo

僕がよくわからないのは、科学的ということと、論理的ということが、どうしてこれほどまでに乖離してしまっているのかということです。
「水伝」を論理的に見ていけば、明らかに矛盾があり、おかしな話であることに気づくと思うのですが、そこを飛び越えて「科学的」という部分にいってしまうことが不思議でならないです。
自分以外のものを「信じたい」という心理もよく分からないです。まず、信じるべきは「自分」であろうと思うのですね。
成功することというのは、人それぞれの価値観があって一概に言えないのだけど、僕が成功していると思える人というのは、一つ一つの事物に対して丁寧に手を抜く事なく対応している人たちではないかと思っています。
絵を描いていても思うのですが、論理的思考にしても、手順にしても、どれ一つ疎かにして抜いていい物はないです。良い結果にはつながりません。自分がベストだと思っても、他人の評価は違ったりするので、難しい部分も多々ありますが。
それでも最後に信じるのは「自分」しかないわけです。

リンク先、見に行ったら「突っ込みどころを持った文章が書けることは、非常に重要な能力である。」なんて書いていますが、本気なのかなんだか。勘違いも甚だしい。
by corvo (2007-03-14 01:32) 

pooh

> TAKESANさん

「科学的である」と云う認識が、「教祖の御心にかなう」と云うことと同じような意味合いで受け止められている、と云うことなんでしょう。

あるひとにある行動を起こさせるには、そのひとが自分を説得するための言い訳を準備してあげるのが有効だったりするわけで。そのひとつに「これは科学的である」と云う言い方を使っているわけです。
by pooh (2007-03-14 07:43) 

pooh

> corvoさん

なんかですね、裏のロジックとして、「信じることはいいことだ」「信じるものはイノセントだ」「騙された場合には信じた人間は免責で、騙したほうが100%悪い」みたいな認識があるような気がしています。

ただ、なによりもまず「自分を信じる」と云う強さがすべてのひとにあるわけではないわけで(ぼくだって怪しい)。corvoさんはそもそもご自分を信じることができないと就けないお仕事についていらっしゃるので日常的にその訓練をされているのだと思いますが、だれもがそうじゃないんですよね。騙す側はそこに付け込むわけで。

レスポンスのエントリも興味深いですね(トラックバックを送ってくればいいのに)。批判は前向きに受け止め、批判の内容については読まない、と云うのが成功の秘訣だ、って書いてある本があるのかも知れません。
by pooh (2007-03-14 07:51) 

pooh

しかし「何か変なサイト」って。

でもブログにおいて突っ込みどころのあるエントリを書ける能力は確かに重要かも。アクセス数増加が目的なら。ツッコマビリティ、ってやつですか。
by pooh (2007-03-14 08:49) 

内海

おはようございます。
poohさんの「信じるものはイノセントだ」という彼等のロジックに対する指摘は当たっていると思います。
私自身はそれプラス「頭で考えるのより心で感じる事の方が正しい」とか、「ストレートな思いが、論理や思考よりも一番大事だ」的な思想を持つ人達が増えてきたのではと、以前から考えています。そしてこのタイプの人達は「折れない」んですよね。
説得されたり、論破されたりする事で自分の考えを改めたりするのが、自分の考えの純粋さ等の否定に繋がるという想いが、その根底にあるのでは無いかと想像しているのですが。
by 内海 (2007-03-14 09:56) 

corvo

poohさん、こんにちは。
なるほど「純粋」であるということが、非常に強固な理由付けになる場合があるのでしょうね。
「自分を信じる」も、行き過ぎると独りよがりで、わがままなだけに陥ってしまう危険性もあります。僕自身も、毎日揺れ動いて、日々訓練することで保っているようなところが多々あります。告白すると、僕もけっこう騙されてきたことがあります。「奇跡の詩人」や「ライアル・ワトソンの著作」にはまったり、○○イテンを愛用していたり。たいていは、自分が弱っていたり、精神的に弱くなっているときにはまるのですね。それはよく分かります。
「自分を信じてごらん」というのは、初等教育における重要なひとつの要素だと思うのですが、いかがでしょうか。
by corvo (2007-03-14 19:02) 

pooh

> 内海さん

> 「頭で考えるのより心で感じる事の方が正しい」とか、「ストレートな思いが、論理や思考よりも一番大事だ」的な思想を持つ人達が増えてきたのではと、以前から考えています。

「考えるな、感じろ」ですね。「燃えよドラゴン」でしたっけ。
いや、ふざけてるんじゃなくて、アメリカ経由で再輸入された東洋思想の匂いがします。

なんと云うかともかく「自分を肯定したい」んですね。「そのままのきみが一番だよ」って、昔の少女漫画のような。
by pooh (2007-03-14 22:17) 

pooh

> corvoさん

なぜか「純粋であること」がひどく価値のあることとして捉えられている、と云う世相はあるような気がします。

ぼくが十代から二十代にかけて、なぜだか分からないけれど「子供の頃のことを忘れない」とか「少年の心を持ち続ける」なんてことがもてはやされた時代がありました。当時も胡散臭えなぁ、とか思ってましたが、なんかそう云う価値観があるんでしょうね。武田鉄矢系美意識と云うか。

例えばぼくは3歳の頃から今に至るまで恐竜が大好きです。でもそれは単に好きなのであって、けして少年の心を持ち続けている訳ではない、と思います(いやまぁ、子供っぽい部分は多々あるんですけど)。ライアル・ワトスンもけして嫌いじゃないですよ。信じるかどうかとは別の次元で。

ただ、初等教育の時点で「自分を信じること」を伝えるのは難しいとは思います。まだ「自分」がないから。
by pooh (2007-03-14 22:24) 

じゅんこ

>poohさん
>「少年の心を持ち続ける」

あったあった、ありましたね~!
私の昔の友人にも、いい年して「心はいつまでも少年でいたい」とか、臆面もなく言うヤローがいて、
一度でも大人になってから言え!
と、日々突っ込みを入れておりました。
そー言えば、その人はガイアにはまっていたな~。

少年の心を持ち続けることが、悪いとは思わないのですが、それは心の一部に置いておけばいいと思うのです。
by じゅんこ (2007-03-15 10:10) 

TAKESAN

今日は。

適当な推測ですが、「少年の心」というのは、元々、「色々なものに好奇心を持って取り組む」とか、「先入見を排して物事を観察」する、という、思考の硬直を戒める意味だったのが、いつの間にか、「無邪気」と表現される様な、単に「物事を疑わない」とか、「直感を大切にする」とか、そういう意味になっていたのではないかなあ、と思います。
そういう風に、解釈のズレが出てきた気がします。後者の方が、論理的・懐疑的認識を促さない分、受け容れ易いのかも知れませんね。
理屈を言う人に、「頭の固い人」というレッテルを貼って、否定的に見る事が出来ますしね。
勿論、解釈としては、後者でも全然構わない訳ですが(象徴表現ですし)、それは、論理否定とかと、馴染み易いのかも。

私の認識としては、子どもは、「理屈の塊」、ですけどね(笑) 何もかも疑って、周りの全部が、謎解きの対象になっていると思います。そういう意味では、確かに、子どもの心は忘れたくないですね。
by TAKESAN (2007-03-15 11:39) 

pooh

> じゅんこさん

TAKESANさんもコメントにお書きなのですが、じゃあ「純粋な心ってなんなの?」「少年の心ってなんだよ」と云うことに対して、多分彼らは具体的なイメージを持っていない。そんなことを云われても、です。
ぼくは「少年の無邪気さ」があんまり好きではありません。それは同調圧力を行使することに気づかない愚鈍さであり、いじめによる自殺を生む悪辣さだと思っているので(すいません。思いっきり話が飛んでます)。

話が飛びついでに云うと、ぼくにとってポジティブな意味での「少年の純粋さを持ち続けること」を象徴するのが、元Blankey Jet Cityの浅井健一です。純粋な心は、絶望にもまっすぐ立ち向かう力をもった心のことです(ぼく解釈)。
by pooh (2007-03-15 12:15) 

pooh

> TAKESANさん

おっしゃる定義に準拠した「少年の心」は、まさに「科学の心」ではないですかね。

これまであれこれ書いてきましたけど、何と云うか逆にニセ科学支持者のみなさんの理由なき頑なさのほうが、科学側の「頭の固さ」よりも目立つ気がします。
by pooh (2007-03-15 12:19) 

もと

こんにちは。コメントの流れからふと思った事を書いてみます。
「無邪気」、「無垢」、「純粋」…これらを悪い意味で捉えると『無知』って事になるんでしょうかね。
字面から前2者は「邪気」とか「垢」が無い、きれいな状態を意味する筈なんですけど、同時に「何も知らないと言う怖さ」も内包してます。
だから、子供って残酷な一面があるんですよね。

「純粋」と「無知」を取り違えている人は、『無知(本人は「純粋」と思っている)=白紙』だから、正しい知識を教えよう(白紙に書き込もう)とすれば『汚される』と拒絶するのでは無いでしょうか?

>> 「頭で考えるのより心で感じる事の方が正しい」とか、「ストレートな思いが、論理や思考よりも一番大事だ」的な思想を持つ人達が増えてきたのではと、以前から考えています。
>「考えるな、感じろ」ですね。「燃えよドラゴン」でしたっけ。
いや、ふざけてるんじゃなくて、アメリカ経由で再輸入された東洋思想の匂いがします。

所謂ニューエイジですね。私も未だにそういう傾向があります^^;)
解り易いんですよね、西洋からの逆輸入だと(苦笑)。色んなテイストが混ざってるからファッションとしても受け入れられやすいし…
by もと (2007-03-16 22:07) 

pooh

> もとさん

実は「純粋であること」と「無知であること」は直接つながるものではないと思っています。後者は前者の必要条件でもなければ十分条件でもない。そこを意図的にか関連づけて、なんとなく言い訳に使っているところに問題の根っ子があるような気がしています。

ニューエイジ的な発想の影響はぼくにもあります。でも、ほんとうはそれは「何かから免責される」と云うことには繋がらないものだ、とも思っています。つねに自分に厳しくあるべきだ、と云うことでもないのですけど。
by pooh (2007-03-16 22:26) 

もと

どうも私は言葉が足りない…
仰る通りで「方便」として使われている事が言いたかった訳でして…
by もと (2007-03-17 02:02) 

pooh

> もとさん

分かっていますよ。ぼくなりに言い換えしただけで(^^)

で、その方便を許容できるかどうかと云うと、ぼくにはちょっとできないな、と云うことです。
by pooh (2007-03-17 05:54) 

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