真実とは考えたくないけど [世間]
頭の片隅にずっとあって離れなかったんだけど、可能性としてありうると考えたくなかった部分について、medtoolzさんが「信じたがる人」に伝わる意見と云うエントリをお書きになっている。実はぼくとしてはまだ真っ正面から扱う覚悟のない話題なのだけど。
マーケティング屋さんが「下流」と呼んでみたり、あるいは新興宗教を主催する人たちなんかが真っ先にターゲットとして想定するのは、このグループの人達。
信じたがる人というのは、「優越感ゲーム」が開始された時点ではほとんど何も持っていない。
納豆がある日バカ売れしてみたり、科学を信じる連中からするとありえない行動をするのも、このグループの人達。そんな行動の裏にはたぶん、「現状以外であれば何でもいい」という、感覚がある。
寄る辺のない、だから依って立つ矜持のようなものも持たないひとたち。
「優越感通貨」というのは交換しあうことで価値を増していくけれど、何も持っていないところからゲームに参加した人がとれる戦略は、誰かのアイデアを「信じること」だけ。
信じたアイデアが失敗したところで、「信じたがる人」が失うものはほとんど無い。この人たちがアイデアを選択するとき、最も重視されるのは短期的な成果で、その次が成功した時の対価。アイデアの実現可能性みたいな要素は後回しになる。
それが果たして優越感なのか、と云うと少し違うかもしれないけれど。でも、「もはやなにかうまい話がないと、何も期待できなくなったひとたち」と云うのは存在する気もする。
そうなると、ニセ科学も「下流喰い」なのか。おいらもいまのところ経済的には立派に下流層だけど。
でも、こう云う層の人に典型的に見られる表面的な態度は、排気量の大きな車に乗ることで満たされるような「根拠なき自己肯定」のような気も実感としてするけれどなぁ。
はじめまして。
>何も期待できなくなったひとたち
たぶん、こんな人達が世の中には想像以上に大勢いて、
選挙とか、世論とか、あるいは消費者の景気感みたいな
公平ルールが生きている統計を取ったときにその存在が
可視化されてきて、マーケッターの人たちがしばしば
面食らうんじゃないかと。
このあたりを話題にすると、どうしても露悪的な文章に
なってしまって、難しいですね。
by medtoolz (2007-02-24 10:23)
> medtoolzさま
いらっしゃいませ。よく拝読させていただいてます。
マーケターはどんな欲望をどうやって刺激して購買活動と云う結果に繋げるかがお仕事なので、欲しいもののタネがない層をどう扱っていいのかは本来商売のスコープを超えた部分になってしまうんでしょうね。
> このあたりを話題にすると、どうしても露悪的な文章に
> なってしまって、難しいですね。
露悪的と云うか、ぼくなんかはmedtoolzさんの視点の果敢さとぶれのなさ加減にいつも感服しているんですけどね。ぼくなんかちゃんと直視できない(と云うことはちゃんと解析できない)のでこんな中途半端なエントリになってしまいましたが。
by pooh (2007-02-24 10:41)
ついでに云うと、何も期待できなくなってしまうと、極大化した計算可能性を持つ「お金」か、あるいはそもそも計算できない抽象的な「愛と感謝」とかが価値観の向かう先になってしまうのかもしれない、とちょっと思ったり。
具体的に「何が自分を幸せにするのか」を模索する力を喪失してしまう、と云うか。
by pooh (2007-02-24 10:47)
こんにちは、poohさん。
悪徳商法批判者の時代に、マルチ商法に手を出しかけている人にいろいろとレスしていてと感じたものに、やはりよく似た感覚がありましたね。現状に対する閉塞感の現れとして「手を出したい」という若い人には、「損するだけだからやめなさい」も何も効果をもたない。
なんて言うか「今持っているもの」が見えていないという事なんかもあります。「満街の人、皆聖人たるを見たり」というのは陽明学の決まり文句なんですが、陽明学は人は皆、聖人に成り得るだけの性質を生まれながらに持っているという所から、考えることになっていますからね。
by 柘植 (2007-02-26 17:48)
> 柘植さん
なんと云うかですね。もはや人生一発逆転しかない、でもって何をして一発逆転と云うかと考えると金しかない、みたいな心性のひとって結構いるのかも、とか漠然と思っていて。でも認めたくない(^^;。
なにかしら依って立つ矜持みたいなものがあって、それが自分の行動を律して、みたいなのって当たり前のことのような気がしていて、で自分で当たり前のように思っているから他人にもそれが期待できる、みたいに思ったりして。でもこれって、ある意味単純な思い込みと云うか誤解なのかもしれない、と云う気が少しして来ています。
どうにもぼくは他人を下に見るのが若い頃から苦手で、結果他人に要求するものがやけに高い水準だったりするって云う悪癖があるんですが、そう云う話なのかも。だとすれば考え直さないと。
by pooh (2007-02-26 22:06)
こんにちは、 poohさん。
>どうにもぼくは他人を下に見るのが若い頃から苦手で、結果他人に要求するものがやけに高い水準だったりするって云う悪癖があるんですが、そう云う話なのかも。だとすれば考え直さないと。
私の場合、「見下す」というよりも「諦め」が根底に有るわけです。私は人から相談を受けたときに「丁寧なアドバイザー」となることが多いです。なぜ丁寧なのかというと「丁寧に説明しなければ分かって貰えない」という「諦め」が根底にあります。直ぐに「たとえ話」を考え始める癖があるのもそのせいです。相談の時に特に丁寧になるのは、人が困って相談したときだけ、その丁寧なくどい話を聞いてもらえるからだったりする訳です。
by 柘植 (2007-02-27 08:38)
> 柘植さん
柘植さんみたいに話が上手ならいいんですけどねぇ。
ぼくは話があまり上手くなくて、単にくどいだけになってしまうので。
諦めるのはおんなじなんですけど、ぼくの場合面倒で結果排除しちゃう。時にひどく尊大に見られちゃうのでよくないんですけどね。
by pooh (2007-02-27 22:08)
こんにちは、みなさん。
相談された結果、アドバイスを実行してうまく行かなかった時、人のせいにされることって多くありませんか。
結果、「決断するのはあなたですよ」と言うせりふを何度も混ぜてしまうようになってしまった・・・。
時々、意見を聞く振りして、判断を人に委ねているんじゃないかとと思え
る人もいますし。どこまで相談してくる人が見えているかの把握が難し
い。
よく私が使う言葉で『「見える」と「見ている」と「見えている」は違う』と
いうのが有ります。物理現象として存在・存在の認識・意味づけとでも
言い換えればよいのでしょうか。風景の中に存在していても、そこにいる人にとって見る=意味づけがなされなければ、その時点では存在し
ない事と同じだと思うんですよね。
(変形バージョンで『「やるべき事」と「やれる事」と「やる事」は違う』って
のもありますが)
by FREE (2007-03-04 20:49)
> FREEさん
いらっしゃいませ。こちらでは初めまして。
> 相談された結果、アドバイスを実行してうまく行かなかった時、人のせいにされることって多くありませんか。
これって前にどこかで書いた気がするんですが、「自分は知らない=イノセントである=免責である」と云う認識が一部でそれこそ「まん延」する風潮がある気がしています。充分な情報の中にいても、理解しない、読み取らない、ちゃんと意味付けしない方が得だ、みたいな。
これ、ひどく不愉快なんですけどね。
by pooh (2007-03-04 22:11)