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比喩と寓意 [世間]

germanwadaさんの方便とインチキの境界と云うエントリを読んで、ここのところずっと考えていたことを文章化してみる気になった。とは云え、まだちゃんと自分の中でまとまっていないので、多少隙のある書き方になるかも。

せっかくいいことを言っているのに、その論拠がインチキだなんて、本当にもったいない。仏教にも「方便」という考え方があり、世間的も「ウソも方便」なんて慣用句がある。だが、その方便だけで終わってしまっては元も子もない。方便を通じて真理に到達する道を示さなければ、正しい教えとは言えない。

そうなのだ。寓話が指し示すのは、結論ではない。その寓話の内容を通じて指し示す過程こそが意味を持つのだ。

寓話には動物が登場して、まるで人間の如く振る舞う場合が多い。でも、そこに登場する動物は、その動物の持つ属性から喚起されるイメージを利用した、象徴としての人間の姿だ。そうして、その喚起されたイメージを利用して示されるのは、関係性のなかでの人間の行動だ。
もちろん、そこでは字面だけで内実のない「愛と感謝」などは語られない。それは関係性の中での具体的な事象としてしか存在し得ないものだし(関係性の対象が特定の人間であれ、国家であれ、あるいはガイアであれ)、抽象的で中身がなくてしかもその中身のなさこそが最大の仕掛けであるようなものを、寓話は語らないのだ。

イメージの喚起力がないがために、例えば実証結果とたばかってまでそれは具体的な写真を必要とするし、一見科学的に見えるような用語で錯誤を誘う必要も発生する。それは寓話としての(ほとんど成立そのものも困難なくらいの)脆弱さを意味する。

あなたは「水」に何を、あるいは誰をイメージしますか?

追記:そう云えば、「水からの伝言」に寓意があるとしてそれを受け止めると世界がどんなふうに見えるかについては、このあたりとかこのあたりに書いたな。


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コメント 14

germanwada

はじめまして。訪問ありがとうございました。

思うに寓話や比喩を理解するには、受け手側に「想像力」が必要ですよね。表面に見えるものだけを受け止めるのではなく、それが象徴する何かを思いやる力です。

一方、エセ科学やインチキを見破るにも「想像力」が必要です。表面的な偽りに隠された真実を思いやる力です。

こうした「想像力」が現代人には失われつつあるのような気がします。目に見え、耳に聞こえる情報が過度に溢れているため、その先にあるものを思いやろうとしないのかもしれません。

こうした真実を見極める「想像力」の欠如が、他人の心をいたわるという意味での「思いやり」の欠如にも通じているのではないでしょうか。
by germanwada (2007-02-22 12:08) 

柘植

こんにちは、皆さん。

>思うに寓話や比喩を理解するには、受け手側に「想像力」が必要ですよね。

 そうだと思います。そして、その想像力が「自分を見る」ことにきちんと向いていてこその寓話なんです。

 アリとキリギリスの寓話にしても、冬の前に働くアリにたいして「しんどいだろうな」と想像し、遊び暮らすキリギリスに対して「楽しいだろうな」と想像する。でも、「自分にも、しんどいことは嫌だし、楽しいことは求める部分がある」をきちんと認識する。キリギリスがアリをからかうシーンで「自分もそうしたくなる面がある」と認識してこそこの寓話は意味を持つわけです。

 変な話なんですが、ニセ科学批判の世界に飛び込んで、きくちさんとか田崎さんとかこなみさんとネットでやりとりするように成ったのですが、皆さん、非常に感性が高いわけです。ここでいう感性というのは、芸術とか文学とかの道に進んでも充分に名をなすであろうと感じる部分のことを言っています。
by 柘植 (2007-02-22 18:05) 

pooh

> germanwadaさん

いらっしゃいませ。
いや、ニセ科学がどうして寓話と違うのか、と云うのはずっとひっかかっていて、でもうまく言語化できないテーマだったんですよ。役割で見ても意味合いで見ても、直感的にはまったく価値が違うものなんですけど。
エントリを読ませて頂いて、ともかくもまず書いてみる勇気が湧いた、と云うか。

ぼくはこのブログでくどくどと「分かりやすさ」志向への違和感と異議申し立てを繰り返してますけれど、根にあるのは確かに想像力の衰弱であるような気もしますね。
by pooh (2007-02-22 22:02) 

pooh

> 柘植さん

じつはこのテーマについて考え続けていた原因のひとつには、柘植さんの例え話の使い方もあるんです。まさに「道を示す」ことが、寓話や例え話の重要な機能なんですよね。

ところでぼくは「感性」の敵なので、ここでその言葉は禁句です(^^;。
まぁぼくがよく知っているのはきくちさんだけですが、そもそも彼はディックの翻訳家でもあるし、そこそこ高名な書評家・コラムニストでもあるので(と云うかぼくが昔から知っているのは主にその部分だったりします)。
by pooh (2007-02-22 22:09) 

pooh

あ、でも一番良く知ってるのはギタリストとしてのきくちさんだった(^^;。
by pooh (2007-02-22 23:23) 

germanwada

いろいろ読ませていただき、ニセ科学の問題にすごく興味がわきました。宗教と関連し、ちょっと考えてみましたので、またご訪問いただければ幸いです。
by germanwada (2007-02-26 14:53) 

柘植

こんにちは、 germanwadaさん。新エントリーを読ませて頂きました。

宗教の場合、本質は「聖」なる部分にあり、その現れとして「俗」なる戒律ができるわけです。つまり「俗」なる戒律を守らせることが、「聖なる救済」とつながる訳です。「罰当たりな言動をするな」という俗なる戒律は「そういうことをしていると、死んだ後に救われないぞ」という話につながっている訳ですね。このあたり、新興宗教でも基本は一緒でして「この教えを妨げる者は殺して上げる方が、救済から遠ざからなくて済むのであるから、これは救済(ポア)である」と弁護士一家を殺すという流れです。

それに対して、水伝なんかは「俗なる目的」に対して「俗なる戒律」を守れと言っている過ぎないわけです。「悪い言葉を発すると、相手の身体を構成する水に悪い影響が出る、自分の身体を構成する水にも悪い影響が出る。だから使うな」です。

一見、似ている様に見えて基本のところが大きく違う訳です。弁護士一家の殺害を実行した者たちは、少なくとも「これで相手が聖なる部分で救われる」と信じた面があります。しかし、水伝を使って子供に良い言葉を強制しようとする教師には「聖なる部分」へのものが何もないのです。あくまで、「俗なる目的」のために「俗なる嘘」を使っているだけの「品性低俗な輩」にすぎないとも言える訳ですね。
by 柘植 (2007-02-26 17:21) 

pooh

> germanwadaさん

エントリ読みました。
なんと云うか、相変わらずぼくが及び腰になってしまうようなところに、はっきりと踏み込んでいらっしゃる。

実はぼくは「宗教」とくくるのにだんだん抵抗が出て来ていて、それは例えばアブラハム由来の宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)とヒンドゥー教や仏教を一緒に語るのは難しい気がする、とかそう云う部分なんですが。

でも、良質な宗教の本質は、お書きの部分にあると思います。その部分については完全に同感です。科学と同様、「より高みを目指すメカニズムが内部にビルトインされているかどうか」なのではないかと。ニセ科学にもカルトにも、その仕組みはありませんものね。
by pooh (2007-02-26 21:52) 

pooh

> 柘植さん

ぼくはちょっと「聖なる部分」と云う言葉を使うのに抵抗があるので、「ミッション」と言い換えさせてもらいます(多分、意味は通じますよね?)。

なんと云うか、個人を超えてより高きものに奉仕しよう、と云う発想が存在する訳です。そのより高きものは所属するコミュニティだったり、社会だったり、天の国だったり。これは動機として科学にも内在する気がします。で、その「より高きものへの奉仕」の意味合いを実際の社会と折り合いがつくように進化させて来たものが、科学にしろ宗教にしろ長い命脈を保っている、と云うか。
by pooh (2007-02-26 22:01) 

germanwada

poohさん、柘植さん、拙なる長文を読んでいただいてありがとうございました。恐れ知らずの独断者ですので、思ったままに書いてしまっていることをご容赦ください(^_^;)。

>柘植さん

難しいのは、「俗」なるものを一見「聖」なるものと錯覚して信じてしまう人がいることですよね。オウムにだって、心の底から「聖」を志向して誤った道を歩んでしまった人もいるはず。それを「違いますよ、本当の道はこちらですよ」と導いてあげる人が必要なのだと思います。水伝についても同様で、皆さんのようにニセ科学批判を展開される方々がいることで、救われる人がたくさんいるでしょう。すばらしい社会貢献だと思いますよ。それを、学校の教師が誤った道を勧めているなんて言語道断です。

>poohさん

「より高みを目指すメカニズム」「より高きものへの奉仕」--大切なことですね。仏教においても、心の修練により自己を苦しみから解放することから始めて(小乗)、その教えを人々に広め、世の中全体に奉仕することで、本当の悟りとなると言います(大乗)。その意味で科学や経済活動もまた同じでしょうね。
by germanwada (2007-02-27 12:17) 

柘植

こんにちは、germanwadaさん。

>心の底から「聖」を志向して誤った道を歩んでしまった人もいるはず。それを「違いますよ、本当の道はこちらですよ」と導いてあげる人が必要なのだと思います。

きくちさんなんかを我々と呼んで良いものかどうか迷いますが、我々が行っているのは「ニセ科学暴き」ではないと思っています。実際の所、多くの人が「期待」するのは、「コレはこうだからニセもの」「アレはああだからニセもの」と手当たり次第に暴いていくことかも知れないのですけどね。なんでも鑑定団の中島誠之助だって、TVで出演料を貰うから、「これは明治に作られた伊万里を古い箱に入れたものですね」なんて説明はするけど、実際にはそんな能書きを言うよりも「良い物を沢山見てくださいよ、一目で分かるようになりますから」が本音だと思います。科学の面白さって、発見の悦びだけじゃあないんです。なぜだなぜだと考え続けていくプロセスもまた「面白い」のですよ(当然苦しくもあるけど)。何か一つのことを証明するために、間違いになりそうないろんな要素を排除した実験を考案するプロセスもまた、面白いのです。その面白さが分かるなら、浅薄なニセ科学は一目で分かるようになるものなんです。
by 柘植 (2007-02-27 13:46) 

pooh

> germanwadaさん

ちょっと難しいところで、「高みを目指して奉仕する」こと自体は手放しで賞賛できるものでもないと思ってます(この「高み」を何と捉えるかで、場合によっては危険だったりもします)。ただ、そういう意識がないと、個人を超えてなんらかのことを成し遂げることもできないのかな、とも考えるわけです。
by pooh (2007-02-28 08:21) 

germanwada

何度もスミマセン。

>拓殖さん

考えるプロセスが面白い--文系の私にもわかります。こうして書いているのも、まさに考えることの面白さが根底にあるわけで、これによって社会貢献しようとか、そこまで高尚な意志があるわけでもないのです。でも、その面白さが、正しい批判精神へとつながるんですよね。

>poohさん

「高み」を何と捉えるか--そうですね。私自身は、かなり幅広く考えています。電車に乗り遅れたときに「畜生」と叫ぶのではなく「まあ、いいか」と次を待つ…なんてことだって、心の修練という意味での「高み」と捉えられると思います。そういう些細なことから自分を切磋琢磨したいと思っています。

(スレッドが長くなってしまいましたので、適当にスルーしていただいて結構です。お付き合いありがとうございました)
by germanwada (2007-02-28 11:49) 

pooh

> germanwadaさん

またお越し下さい。
by pooh (2007-02-28 22:42) 

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