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【すげえ長文】考えずに信じる【でも読んで!】 [世間]

初めてSo-net blog内でトラックバックしてみる。なぜかこのブログ、So-netなのにはてなとかからのトラフィックの方が多いようなのだ。もっとも解析に当たって自分のIPをブロックするように設定しているのが原因かも知れないけど。
と云う訳で言及先はもとさんの【長文】『人間ってそんなに偉いのか?』【注意!】 と云うエントリ。これは毎日新聞・理系白書の理系白書’07:第1部 科学と非科学/2 教室にニセ科学に言及したもの。タイトルに掲げた部分を主眼として論じたい。

菊池誠・大阪大教授(統計物理学)は「水が言葉の意味に影響を受けることはあり得ない」と断言。「言葉の意味は使われる場面によって変わるし、結晶の美醜で物事の善悪を判断する点もおかしい。道徳的にいい話とも思わない」と写真集の内容を批判する。

はい、ダウト!

少なくとも「感謝の気持ちを表す事が、事象に良い影響を与える」と言う事は「道徳的には良い」と思うので、学者なのに「いい話とも思わない」といった感情論むき出しという冷静さを失っている時点で、発言内容自体が客観性を失い「恣意的」になってきています。

この方、ご自分の「感謝の気持ちを表す事が、事象に良い影響を与える」と言う事は「道徳的には良い」と思うと云う表明が、客観的で恣意的ではない、としているんでしょう、多分。
でも、他人を批判するには自分の論拠を示す必要があるのではないのかな。
ここでダウト!と云っているからには、素直に受け止めるとこの方は「言葉の意味は使われる場面や状況やニュアンスで変わらない」とか「物事の善悪は美醜で判断できる」と思っていらっしゃるんでしょうね。
あと、どこが感情論むき出しに見えて、どこから冷静さを失っていることが読み取れるのか、客観的で恣意的ではない説明が欲しいところです。

「理科ではなく道徳ならいい、という話ではない。非科学的なことでも信じなさいというのは、悪徳商法にひっかかる人間を量産するようなもの」と母親は憤る。

同級生の親たちが、疑問を持たないことも意外だった。「おとぎ話では動物が人間の言葉をしゃべるわよ」「水に言葉が分からないって証明できるの? 科学には解明されていないことも多い」と言う人もいた。「『おかしい』と思う私がおかしいのかと孤独でした」と母親は振り返る。
「非科学的なことでも信じなさいというのは、悪徳商法にひっかかる人間を量産するようなもの」と母親は憤る…って、自分自身の発言も非常に極端で猜疑心に満ち溢れている事に気が付かないのでしょうか?と言いたい。そりゃ、Generalな物の見方をしている平均的市民からは浮きますわな…で、それを「孤独」と言うのも凄い独善的と言うか、呆れるのを通り越して「可哀相」になってくる。

いや、根拠のないことを何でも信じろ、と教えるのは、壷の効用や教祖さまのご利益を教えるのと同じことだと思うんですが。
人間、詐欺にひっかからないよう暮らして行くためには最低限の猜疑心は必要で、このレベルの猜疑心は非常に極端と云うほどではないし、Generalな物の見方をしている平均的市民にも求められるものだと思うんですけどね。世の中自己責任らしいし。
あと個人の孤独感を凄い独善的とか責めるのはどうでしょう。本人が感じてるんだから。共有できればそれは「孤独感」じゃないし。

田崎教授は、雪の結晶形が主に気温と過飽和度(水蒸気量)で決まることを解明した故・中谷宇吉郎博士の業績を説明し、「長い年月をかけて人間が自然を理解しようと努力した結果、確からしいと残ったのが今の科学」と強調した。

田崎教授は昨年11月、「『水からの伝言』を信じないでください」というホームページを開いた。同年3月には、田崎教授や菊池教授ら物理学者の有志が日本物理学会の大会で「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」というシンポジウムを開いて「水からの伝言」について議論し、「科学者は傍観してはいけない」と呼びかけた。
この人(田崎教授)は、どうしてこんなに反証する事に熱心なんだろう?しかも「信じないで下さい」という個人の自由を侵害するような発言も厭わず「ニセ科学」というレッテル貼りまでして…よっぽどこの人の方が危険だと思うのだが。

まず、田崎教授は反論してるだけで反証してません。それにニセ科学に対して科学者が熱心に反論するののどこがおかしい、と思いますが。科学者は科学が仕事なんだから。おまわりさんだって犯罪者をつかまえるでしょ。
ついでに云うと「信じないで下さい」と云うのはぼくには「お願い」に見えるんだけれど、この方には個人の自由を侵害するような言葉に見えるようです。独自の言語定義と云えましょう。こう云う言葉の解釈に対して、果たして水はどんな評価を下すんでしょうか。

「どんな言葉がよく、どんな言葉が悪いかは人間が一生懸命考えるべき心の問題であり、科学を装って水に教えてもらう話ではない」と田崎教授はいう。
はい、ここが今回の日記の題名の本意です。文頭は謙虚に見えますが結論は

「水に教えてもらう話ではない」という独善と人類至上主義の塊

さがむき出しですw。

(ソース中XHTML 1.0において非推奨のfontタグによるマークアップがありましたので、該当箇所をstrongタグにて代替させていただきました)
言葉は、人間が使うものです。背景には、人間が使うものならではのメカニズムがあって、それを研究する言語学と云う学問分野が(物理学とは別に)あるくらいです。人間の使うものについて水に教えてもらおうと云うのは、そもそも水に無理を押し付けています。近所の犬の方が、まだ発声機能を持っている分教えてくれる可能性は高いと思います。
と云うか、これって人類至上主義とか云う問題なんでしょうか。よく分からないんですが、まさか「水の方が人類よりえらい」とか主張してるんじゃないですよね。ちなみにぼくはどちらが上か議論することに意味はないと思いますが。

なぜ科学を装う必要があるのか。ファンタジーではいけないのか。取材班は江本氏に取材を申し込んだが、「多忙」を理由に断られた。「近々出版する著書で疑問に応えたい」という。【元村有希子、西川拓】
文中もちょろちょろ、最後はモロに「毎日クオリティ」w。フィルターを解除すれば

「なぜ科学を装う必要があるのか。ファンタジーではいけないのか。取材班は江本氏に取材を申し込んだ。「多忙」のため取材は断られたが「近々出版する著書で疑問に応えたい」という。」

何か好意的になるでしょ?w ちょっとイジッただけなのにね。

別に同じだと思いますが。実際に多忙なのかどうか毎日新聞の記者には分かり得ないので、「多忙を理由に」と書いただけなんじゃないでしょうか。
それはフィルターを解除しているのではなくて、イジることで設定しているのでは?

「未だ分かっていない事がある可能性は大」としつつも「(現在の科学で)科学的に証明出来ないものは『ニセ科学』」というのは、素人目に見てもおかしな論理展開です。

科学的に証明できないものは、例え真実であっても、科学的には「ニセ科学」でしょう。素人目に見た論理、と云うのがどういうものか知りませんが。
世の中の価値基準は科学だけじゃないし、非科学的でも価値のあるものはもちろんあります。田崎教授も菊池教授も、このことには同意してくれるはずです。だから、いったいどこを(客観的で恣意的ではない観点から)解釈すると、

そもそも論理物理学と言う分野は、理論に重きが置かれ過ぎている為に「論理的解決が不可能≒そのような物は存在しない」となってしまうのは仕方が無いのでは?と同情もします。

なんて話になるのか分かりません。

で、後半は光や音の不思議の話になっているのですが、この方のお言葉を借りると突っ込みどころ満載なので、すこしだけ試みてみましょう。

「*外線」と言うのは「可視光(目に見える波長の光)」よりも波長が「長い」か「短い」ものを指します。つまり目には見えないのです。

でも確かに存在する。不思議ですね。

ただ単に、人間の目の機能的な能力の限界によって見えるものと見えないものがある、と云うだけではないでしょうか。人間の目に見える光と見えない光を区別して、後者だけを不思議、と云うのですか? 他の動物には見えたりするのに。それは

人類至上主義

ではないんですかね。

「ピアノをどんなに分解しても、その音色の美しさの根源は分からない」

人が現在知りうる尺度で「実存する現象」を測ってみても、分からない物は分からない…と言う良い証明のような気がします。

そんな難しい話じゃなくて、ピアノの音色の美しさは鳴らしたときに立ち顕れるその音色そのものと、それを美しいと感じるひとの裡にある、と云うだけの話なんじゃないんですかね。

科学だとか合理主義だとか、そんなことより大切な『何か』があると思うんです。

同意します。菊池教授も田崎教授も多分同意するでしょう(同じくらい大切、とお思いかもしれません)。
でもこのことは、云うまでもないですが「合理主義や科学が大切じゃない」と云うことは意味しません。

長々書きましたが『人間は自然の一部であって、一部である以上、人間の持つ力で自然と言う存在を客観視することは不可能である』と言うのが私なりの結論です。

もし客観視できるのであれば、それは人智ではなくそれ以外の「何か」でしょう。それが何かは未だ分かりません

ここまでに主張されていたことと全く繋がっていないように見えるんですが。

もとさんから学んだこと。
長文のエントリを書くときには、エントリのタイトルに「長文」と書いておくと読み手の方に親切かも。結構長いエントリ多いし。
と云う訳で、このエントリのタイトルでさっそくやってみました。


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内海

リンク先の文章を読んで見たんですが、「科学を完全で完成した知の体系と信じている科学者」という脳内敵に対する反発と、自らが心地良いと思うものに何かはわからないが客観的な理屈があるという思考法、科学批判に赤外線等の科学によって存在が証明されたものを使うあいまいな論理など、全体的に感情的で散漫な印象しか受けませんでした(^_^;)
このようなタイプの人には、きくちさんやたざきさんが「科学は不完全でまだ解明されていない事象もたくさんあるけれど、でも長い時間や労力をかけた研究の結果ほぼ解明されている事象もあって、水伝はそのほぼ解明されている事象からみても絶対ありえないと言えるんですよ」と説明しても、受け入れる素地はあまり無いだろうなと思います。
多分こうした人達の(悪い意味で)素朴な反発は、ニセ科学批判がメディアで今より多く露出してくると、ほんとに幾何級数的に増えてくるのかも知れませんね。
私としては当面は(多分poohさんも似たような事を考えてらっしゃるでしょうけど)こうした人達の批判を各個撃破していくのが今出来る事なのかな、と思ったりしてます。
by 内海 (2007-02-10 14:53) 

TAKESAN

今日は。

内海さんも仰っている通り、ニセ科学問題が広まると、あの様な的外れな批判も、目につく様になってくるのでしょうね。

私のブログに、亀@渋研Xさんが、
 >科学や権威(あるいは現代社会)への不信があるんだろうなあ
 >とも思うのですが、それもある種の懐疑主義と思うとなんとい
 >うか。。。
というコメントを下さったのですが(別のケースへのコメントですが)、その様な認識をお持ちなのかな、と思いました。きくちさんや田崎さんを、「批判すべき権威」と看做しているのでしょう。ある種のステータスを持った人に対するステレオタイプを形成している、と言うか。

しかし、後半の、光と音に対しての話は、さっぱり意味が解りませんでしたねえ…。所々に、言葉の曖昧な使い方も見られましたね。「反証」の部分には、私も言及しようかと思いました。

田崎さんに対して、「独善と人類至上主義の塊」とは、まあ、よく言えたものですね。
by TAKESAN (2007-02-10 16:40) 

pooh

> 内海さん

個別撃破ではあるんですけど、実際のところはこちらの作業としては「一般的な傾向を見いだして、そこに注力する」のでないと面白くないところもある訳で。で、そこで「原則」みたいなものを探すのがこちらの思考訓練にもなる部分だったり。

> 多分こうした人達の(悪い意味で)素朴な反発は、ニセ科学批判がメディアで今より多く露出してくると、ほんとに幾何級数的に増えてくるのかも知れませんね。

だから、ちゃんと反論を、少なくとも「ネット上の言説」として残しておかないと、とか考える訳です。
by pooh (2007-02-10 22:30) 

pooh

> TAKESANさん

そう云う訳で、この前のエントリで「権威ってなんだろう」と云うのを考察してみました。

脳内敵と勝手に戦うのは構わないんですが、それを田崎さんだの菊池さんみたいな実在の人物と結びつけて欲しくないですよね。
by pooh (2007-02-10 22:33) 

もと

TB有難う御座います。(続いてのコメント頂いた方々にも感謝します)
指摘頂いた点、痛み入ります…
誤解を招くような表現をした事や、言葉(及び、文章)が稚拙である事を認めます。

poohさんの言葉を借りますが、「世の中の価値基準は科学だけじゃないし、非科学的でも価値のあるものはもちろんあります。」と言う事を言いたかった…と言うのが本意です(あと「行き過ぎた合理主義」への疑問です)。

「美しい言葉」について書いているにもかかわらず、自らが「独善」や「人類至上主義」と言った表現をした事は反省しています。

ただ、科学的に証明されていない事を「偽科学」と言うのに違和感がある事は否めません。せめて「似非科学」(所詮、言葉遊びと言われてしまいそうですが…)くらいにしておいた方が良いのではないか?と考えたりします。

私自身、理系の大学出身なので、ごくごく基礎的ではありますが「科学」に対する敬意は払っているつもりです。
また、宗教的側面からの発言はしていません。

「媒体に記載されていた事」だけでBlogの一記事を立ち上げてしまった事がそもそもの間違いだったのではないか?と反省し、一度取り下げた上で、もう一度「曖昧な表現をしないように気をつけて」科学的な記事に取り組んで行きたいと思います。
by もと (2007-02-10 23:33) 

pooh

> もとさん

不快に思われても、感情的に反発されてもおかしくない取り上げ方をしたのはぼくです。そこで自省に繋げられる度量の大きさを、(失敬ながら)確認させて頂きました。
できれば、取り下げずに再度別のエントリをお書きになって、ぼくのブログにトラックバック頂ければ、と思います。ぼくも稚拙な部分は多々あるので、言説においてお互いに向上できれば、とか考えます。

と云うか、個人が戦えるステージがネット上くらいしかない以上、ネット上の言説には不公平なまでに徹底して批判する必要性を感じているのです。もとさんご本人にはもちろん含むものはないです。

> ただ、科学的に証明されていない事を「偽科学」と言うのに違和感がある事は否めません。せめて「似非科学」(所詮、言葉遊びと言われてしまいそうですが…)くらいにしておいた方が良いのではないか?と考えたりします。

ニセ科学と云う言葉には、明白に否定的な響きがあります。その部分を含めて菊池教授はこの言葉を選択したものであり、ぼくはその意思に同調するものです。

ちなみに、言葉の揚げ足取り的な書き方をしている部分が多く見えますが、ぼくの批判の本質にはそこにはないことを読み取って頂ければ嬉しいです。
by pooh (2007-02-10 23:46) 

もと

丁寧に有難う御座います。
建設的な討論が出来るように、「より多くの知識」と「感情をコントロールする能力」をつけて出直してきます^^;)
Blog自体の消去は「隠蔽」とも取られかねないので行いません。
ただ、問題発言が多かったのは事実なので、「棒線による否定」と言う形で自論の大部分は消去しました。

私がBlogに書く事の多くは「くだらないもの」ですが、こんな私でよければ今後とも宜しくお願い申し上げますm(_|_)m
by もと (2007-02-11 00:09) 

TAKESAN

今晩は。

もとさんへ。

もとさんのエントリーを読んで、
 >「世の中の価値基準は科学だけじゃないし、非科学的でも価値
 >のあるものはもちろんあります。」
これを主張したいが為に、「そもそもその事を充分に認識した科学者」を批難した、という部分に違和感を覚えたのですね。
それと、
 >ただ、科学的に証明されていない事を「偽科学」と言うのに違
 >和感がある事は否めません。
ここに、誤解がある様です。「ニセ科学」というのは、「科学的に証明されていない事」では無くて、「充分な検証が無いのに、あたかも実証されたかの如く主張される説」です。そういう意味で、「ニセ」という、価値判断を含ませた語になっている訳ですね。

----------

今更言っても詮無い事ですが、理系白書の、「科学と非科学」というタイトルは、誤解を呼ぶ可能性も結構あるのではないかと、感じています。敢えて「ニセ科学」なり「似非科学」なりの、余り一般には馴染みの無い語を用いて、紙面できちんと意味を説明する、というのが良かったのではないかと思います。「非科学」だと、いかにも、オカルト等をも否定する、という意味を含ませてしまいそうです。
by TAKESAN (2007-02-11 01:11) 

内海

>もとさん
私の批判のコメントにも冷静な対応をして頂きまして、ありがとうございました。
文章での意見交換はなかなか難しく、コメント一つとっても必要以上に否定的にとられかねないので、そのことは私も出来るだけ注意しながら書いているのですが、至らなかった部分もあっただろうと思います。
その点に関しては申し訳ございませんでした。
もとさんと同じように私もまだまだ知識や文章力など、勉強していかなくてはならない要素がまだたくさんあります(^▽^)
お互いにより深い議論をする為にも、努力していきましょう。
by 内海 (2007-02-11 01:49) 

柘植

こんにちは、皆さん。

以前、科学的製造管理技術として始まったテーラーイズムが、本来の範疇を超えて、マネジメントの部分にまで影響したのが1980年代の米国不況を引き起こしたという話を書いたのを覚えておられるかも知れません。
 
何か不合理なものが流行するとき、その背景には「合理的といわれることに対する不審」があり、そして、その不審は「必ずしもすべて的外れでもない」部分があります。すなわち、「合理的といわれながら実は不合理」なものが世の中にある程度あることにより「合理的といわれることに不審」が生じている面があるのです。

ただ、「合理性の中に紛れ込んだ不合理」を見つけ出し排除するのに必要なのも実は合理的思考なのです。合理的思考に対する不審は、合理的な話に紛れ込んだ不合理を見つけ出して排除することを困難にするわけです。
by 柘植 (2007-02-11 04:47) 

かも ひろやす

あちこちで何度も書いていることをここでも書かせていただきます。

科学でまだどれだけのことがわかっていないかを、もっとも熱心に語っているのが、科学者です。というのは、「あれもこれもまだ全然わかっていません。でも、私の研究が成功するとここだけはわかるようになります。だから、研究予算ください」と言って研究予算を獲得しているからです。

「科学は万能だ」などと口走ったら、「万能ならもう研究の必要はないね」といわれて、予算ストップです。そんな自殺行為を現役の科学者がするはずありません。逆に言えば、「科学は万能だ」などとほざく人がいれば、その人は科学で飯を食っているプロではあり得ないということです。
by かも ひろやす (2007-02-12 10:04) 

pooh

> みなさま

ここで、みなさまのコメントにレスをすることは控えさせて頂きます。

いや、もとさんはぼくの映し鏡的な部分があったんだと思います。ぼくもいくつか学ばせてもらっています。
by pooh (2007-02-12 21:49) 

newKamer

> TAKESANさま
 「懐疑主義」というのは、疑うことではなく、疑うことを手段としてより妥当なことを見定める主義なのではないでしょうか?
 疑うことだけに焦点をあわせてしまうと、迷路に入ってしまうのではないかと思います。
by newKamer (2007-02-13 10:20) 

TAKESAN

今日は。

newKamerさんへ。

先に引用した亀@渋研Xさんの(私のブログへの)コメントは、授業参観で水伝が用いられた事を紹介したエントリー⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_6c61.html
に対して、下さったものでした。そこでは、科学や科学者に対して不信を持っている事を、「”ある種の”懐疑主義」と表現しておられたのですね。つまり、newKamerさんが仰る、
 > 「懐疑主義」というのは、疑うことではなく、疑うことを手段と
 >してより妥当なことを見定める主義なのではないでしょうか?
この事を健全な懐疑主義とするならば、そうで無い、取り敢えず、権威だとか現代社会等を、論理によらず疑ってみよう、という態度を、亀@渋研Xさんは、「ある種の懐疑主義」と表現されたのだと読み取りました。

私自身は、基本的に、懐疑という語は、newKamerさんの仰る意味で捉えていますし、ブログ等でも、その様に用いています。
by TAKESAN (2007-02-13 12:36) 

pooh

以前も書きましたけど、「信じる心いつまでも」と表裏一体の「疑う心を忘れるな」が、ぼくにとっての懐疑主義です。
by pooh (2007-02-13 22:37) 

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