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微妙な二律背反 [よしなしごと]

文章はわかりやすく書こう、と思っている。誠実に書こう、とも思っている(と云うか、不誠実に書こうと思って書けるほどの筆力はない)。でも、シナトラ千代子さんの「わかりやすくまとめる」ブロガーがブログ界隈をテレビ番組化していくと云うエントリを読んで、少しひっかかってしまった。うむむ。

分かりやすく書く、と云うことは、抽出し、まとめ、筋道を立て、夾雑物をなくしながら文章を組み立てる、と云うことだ。だからそこでは情報の選定、と云うか剪定が行われる。ぼくが何かを伝えたい、と思った時には、その「伝えたいこと」のもとになった情報は当然ながらすべてそこにある訳ではない。もちろん、書き手としても。自分が何にドライヴされてその文章を書こうと思ったのか、についてすべて意識化しているわけではないのだけれど。

でもやっぱり、できるだけわかりやすく書こうとしないともちろん通じないんだよねぇ。と云う訳で、多分これからもぼくは「わかりやすさ指向への違和感」についての文章を、「できるだけわかりやすく」書くことに腐心して行くんだろうな。
それは矛盾かもしれない、と云うことは忘れないようにしよう。


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コメント 4

柘植

こんにちは、poohさん。すこし日本文化の曖昧さというか「先読み性」について考えてみます。
  
人の意見を「聞いて」、意見の内容を「理解して」、そして「合意」するというのは3つの段階的ステップですね。つまり「聞いた」からと言って「内容を理解した」とは限らないし、「内容を理解した」からといって「合意した」とは限らない訳です。
 
ただ「お役所言葉」などに慣れていると「ご意見を承りました」には、「理解した」という意味が或る程度含まれるイメージがありますし、「おっしゃている事は理解出来ます」には「自分も同意する」のイメージがあるわけです。これは、もともと日本の文化に「対立を避ける」面があり、「聞いても理解できない意見は聞かなかったことにする方が対立は深まらない」とか、「合意できない意見は理解出来ないことにしておいた方が対立は深まらない」とかいう配慮をする言語文化があるからだと思っています。それゆえ、相手が「聞いた」と言うなら「内容は理解された」と先読みしてかまわないし、「理解出来ます」と言えば「合意する気がある」と先読み理解してかまわないという面があるわけですね。

問題は、互いがそういう意図で「意見を述べる・聞く」「理解を求める・理解しない」をやっていると良いわけですが、その部分が崩れると、「理解と合意」に大きな齟齬が生じてしまうわけです。

ブログに限らず、「意見を理解して貰う」は「同意して貰う」と必ずしも同じではなく、「理解の上での反対」も当然あるという分岐があるべきなんですが、なんとなくその分岐の予想が無いまま「理解してもらいたい」みたいな感覚が生じている気がします。
by 柘植 (2007-02-08 10:33) 

pooh

> 柘植さん

うぅむむ。

> ブログに限らず、「意見を理解して貰う」は「同意して貰う」と必ずしも同じではなく、「理解の上での反対」も当然あるという分岐があるべきなんですが、なんとなくその分岐の予想が無いまま「理解してもらいたい」みたいな感覚が生じている気がします。

これはそうかも知れません。

理解してもらいたい、とは思います。もちろん理解の上での反対、も欲しいです。理解しないままでの賛成よりは好ましいです。
by pooh (2007-02-08 22:09) 

柘植

こんにちは、pooh さん。
 
こんな変なことを書いたのは、私が「たとえ話」をこさえるときに意識している事でもあるわけです。たとえ話はたとえ話にすぎず、目の前の現実の一面を「分かり易く」するものに過ぎないわけですね。ただ、たとえ話にすることで、さらに見えてくる現実もあるわけです。

例えば、「研究者はニセ科学を放っておいてはいけない」というたとえ話として「火事で二階に取り残された人が助けを求めている時、2階に届くハシゴを持って通りかかったのに知らんぷりしたら寝覚めが悪いでしょ」というたとえ話をこさえる訳です。或る意味で「重大性」の部分をわざと狂わせている極論の様なたとえ話ですね。

この話に続く話として、「でもね、通りかかった人がやるべき事って、ハシゴをかけて『降りてこい』という所までじゃないかな。ハシゴを昇って火の中に飛び込んで助けおろす所まで要求されたら、かえってハシコ゜を隠して知らんぷりしたくなりませんか?」なんて言うわけですね。

このたとえ話の発展を現実に戻すと、研究者が一言「あれはニセ科学ですよ」と言ったときに、「自分がニセ科学と納得するまでの詳細な科学的説明を求める」人がかなりの数おり、それを求めることになんら違和感が無いという現実のおかしさに気が付いて欲しい訳です。
 
自分たちが「ハシゴを掛けたら火の中に飛び込め」をあたかも当然の様に要求しながら、「ハシゴを持っているのに見て見ぬふりするのはけしからん」と言っている姿に気が付いて欲しい訳です。

「わかりやすさ」というのにも「結果を分かる分かり易さ」と「プロセスを分かる分かり易さ」みたいなものがある気がするわけですね。そしてプロセスをわかるわかりやすさを求める事で、分かった人ができるだけいろんな事を考えて欲しいと願いながら「たとえ話」をこさえていきたいと思うわけです。
by 柘植 (2007-02-09 08:42) 

pooh

> 柘植さん

あぁ、やっぱりそこまでお考えだったんだ。

ぼくも結構例え話を使うことが多くて(ぼくの場合むしろ手法としてはパロディ)、でもそれって日頃の主張とどこか矛盾するなぁ、とも思っていて。でも柘植さんの例え話にそう云う部分を感じたことがないのはなぜだろう、と思っていて。

そうですよね。結果を例えるんじゃなくて、プロセスと云うか思考の経路について例えているので、例え話に意味が生じてくる、ってことですよね。
by pooh (2007-02-10 04:39) 

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