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「事実」と「真実」 [よしなしごと]

なんだかどえらいエントリタイトルである。笑ってしまいそうだ。
と云う訳で、いろんな方の議論とサジェスチョンを踏まえた、中締め的なぼく個人のまとめ。

言葉の定義で議論を始めれば相当楽しめるようなお題ではあるけど、まぁそこは省いて。

とりあえず科学がカバーする範囲は、「事実」だけ。基本的には、これは「仕様」に類するもの。自然科学も、社会科学も追求するのは「仕様」。だいぶ角度は違うけど、人文科学も原理的にはそう。

「真実」に直接アプローチするのは宗教。一部の人文科学もアプローチ対象は重なるけれど、それはやっぱり科学としてのアプローチなので思惟の方向が違う。「真実」はあくまでひとにとってのもの。

科学も宗教も、人間の行いである、と云う点においては違いがない。違うのは視点と云うか、角度と云うか、姿勢。

で、「事実」と「真実」は別のものだ、と云えるほど隔絶したものじゃなくて、相当部分は重なるんだろうけど、でもやはり異なる。事実であることはひとにとって真実であることを意味しないだろうし、真実はつねに事実として顕れてくる訳ではない。

こうやって考えると、一点、分かりやすくなる。

「真実」のための科学はにせものだ。「事実」のための宗教もまた。


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コメント 6

yusaku

結論は理解できますが、過程が解りにくい・・・

新明解国語辞典第三版によれば・・・

事実;実際に有った事柄で、だれも否定することが出来ないもの。
真実:偽ったり、飾ったりした所の無い本当の事。

科学:一定の対象を独自の目的・方法で体系的に研究する学問。雑然たる知識の集成ではなく、同じ条件を満足する幾つかの例から帰納した普遍妥当的な知識の積み重ねから成る。
宗教:心の空洞をいやすものとして、必要な時、常に頼れる絶対者を求める根源的・精神的な営み。また、その意義を必要と説く教え。

 科学と宗教というものは方や自然の摂理、一方は心の拠り所と勝手に解釈していたのですが、事実と真実の違いが今までの理解のなかでは整理しきれません。ここを自分なりに整理できればいいのですが。
by yusaku (2007-01-27 22:34) 

pooh

> yusakuさん

> 結論は理解できますが、過程が解りにくい・・・

そうだと思います。すみません。
確かに言葉の定義から始めなきゃ行けないんです。でも、とても大きな議論になりそうなので、省いてしまいました。
ここ数日のkikulogの議論を援用すると、「事実」は「人間に変えようのないもの」として定義すると分かりやすいです。これに対して「真実」は人間の裡、または社会性の中で生じてくるものです。この2つの定義は対概念にならないので、異なるものだが重なる部分がある、としている訳です。

ちなみに引用されている宗教の定義は、若干狭いような気がします。アブラハム由来の宗教には当て嵌まりますが、事実上無神論と云ってもいい仏教なんかはここからはみだしますよね。
by pooh (2007-01-28 06:29) 

柘植

こんにちは、 poohさん。参考になるかどうか分からないけど、kikulogの方に「目的の定かでない共同体」と「目的の定かな機能体」という事を書いてみました。

真実と事実という考え方とは多少ピントがずれている事は承知している訳ですが、我々は「善悪」というものを「明確なこと」と捉えすぎる傾向があるわけです。本来、「善悪」というのは「定かな目的」がある時に明確化し、目的が曖昧であると曖昧化する性質を持ちます。そして我々の社会というものが「こういう目的で」と明確化しているかというと、「生きやすくなるために群れている」程度の曖昧さをもちますから、本来、基本となる善悪観というのも「なんとなく、こうするとみんなが生きやすいだろう」という曖昧さを持つ善悪感であるわけです。ところが、共同体の中に機能体ができると、機能体の目的は明確化されるわけです。巻き狩りチームの例を挙げましたが、「獲物を捕らえて共同体にもたらす」という目的が明確化することで、善悪感もまた「目的に照らして」明確化されるわけです。

ところがここに、もう一つ或る意味で困った人間の仕様が顔を出します。それは、「曖昧なことは人間を不安にし、明確な事は人間を安心させる」という仕様です。そこで人間は本来、曖昧である共同体の目的に「明確な目的」を作り上げようとする訳です。それが「人は神によって作られたのだから、神の意に添うように生きなくては成らない」といった宗教となると考えています。
by 柘植 (2007-01-29 10:09) 

pooh

> 柘植さん

ここで、「善悪の恣意性」のようなものが考えられるような気がします。
特定の機能と結びつくことによって意味を成す善悪観、と云うか。

重要な示唆をありがとうございます。
by pooh (2007-01-29 12:30) 

柘植

こんにちは、pooh さん。

>ここで、「善悪の恣意性」のようなものが考えられるような気がします。
>特定の機能と結びつくことによって意味を成す善悪観、と云うか。

実はこの「機能体組織の善悪」という話には後半部分があるんです。

kikulogでは後半部はカットしたわけですが、「歴史をみると、共同体組織内に生まれた機能体組織が、共同体を組み敷いて機能体組織の目的が共同体の目的と成った例がいくつもあります。」と続くわけです。その例としてスパルタの話なんかをする訳ですね。他国に対して軍事行動を起こし、その収奪による富と奴隷で栄えた国ですが、国民は楽しく過ごしたかというと、「優れた軍人」であることを義務づけられ、軍人として失格な国民は奴隷に落とされたりしたわけです。子供が奴隷になるのは可哀想ですから親は、小さいときから厳しく鍛えて「軍人」にしたわけですね(スパルタ教育)。

実は今の日本でも同様な「機能体組織の目的による共同体組織の組み敷き」が起こっている気もしているわけです。
by 柘植 (2007-01-29 17:20) 

pooh

> 柘植さん

ぼくの牛歩の思考にいつもおつきあいいただいて恐縮です。

いや、ひどく話の拡大する発想が生じてしまって。「機能体組織の目的による共同体組織の組み敷き」と云う現象について。
ひょっとして、メカニズムとしては産業革命や明治維新や戦後日本の資本主義化の過程で生じたものが、グローバリゼーションに直面して再度生じているのかもしれません。
要するに、新しいスキームの中で新しい社会的秩序に基づいた分業体制を発生させるためには、共同体が解体される訳です。で、共同体の解体過程にはいろんな社会現象が伴う訳です(あぁ、また粗雑なこと云ってる)。その状況に、もしかするといま直面していることが、背景にあるのかもしれません。

なんてことを思いついたのはいいのですけど、これは正直ぼくひとりで検証なんか出来ないスケールの議論です。正直学生時代の恩師に意見を求めたくなる(とは云え4年くらい前に学部長をやって、もう退官しちゃったんですよねぇ)。

どこか、アナール派を研究している社会学の先生の設置しているブログとか、ありませんかねぇ。
by pooh (2007-01-29 22:44) 

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