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アカデミズム利用法 [よしなしごと]

勉強、と云うものが嫌いだ。好きな奴もいないだろうけど。
学生だったのは随分昔になるけれど、とにかく当時は、勉強と云うものが何かの役に立つものだと考えたこともなかった。

学生ってのは勉強が本分で、と云う訳で学生をやっているうちは働かなくてもなんとなく生かしておいてもらえる。
でも嫌いなものは嫌いなので、結局のところ学生をやっていた16年間(ごめんなさい嘘つきました。大学に5年間通ったのでほんとは17年間です)、何かの意義を感じて勉強した記憶がない(そもそもあんまりちゃんと勉強した記憶がないのだけど)。でもまぁ、多分多少要領が良かったせいで、ぼんやりと学生を続けることができた。

社会人になって、働いてみて、実は勉強することと同じくらい働くのが嫌いだと云うことに気付いた。でもまぁこればかりは気付いたからと云ってなんとかなるものでもない。学生を止めたら、働かないと喰えないのだ。しかたなくどたばたと給料分の仕事をすべくあれこれなけなしの引き出しをひっくり返しながら、仕事の役に立ちそうなねたを探すことになる。
そのときに初めて、実は勉強と云うものが役に立ってる、と云うことに気付いた。もう30を超えてからの話だ(なんて間抜けなんだ)。ばらばらと粗放に蒔かれている自分の頭の中の学問の種が水をやると芽を出さないわけでもないと云うこと、それが意外と職業生活に応用できるということ。
よくある「学生の頃にもっと勉強しておくんだった」という感慨を、ぼくはえらく遅くなってから気付いた。だからといっておっさんになってしまってからどたばたしても知れている。結局のところ、必要に応じて薄めの新書でも買ってきて泥縄で補うくらいしかできることはない。それでももう大して頭に入らないけど、せめて。
そうすると今度は、勉強の好きな人がいろいろと考えてくれているので、そう云うひとの知恵を借りれば自分ではゼロから始めずに済む、と云うことに気付いた。ありがたや、アカデミズム。

そう、そう云う訳でアカデミズムと云うのはありがたいものなのだった。ぼくみたいな市井の勤め人がすっからかんの頭を絞ってなにかを考えようとするときに、多くの場合誰かしらそのことについて熟考している頭のいい人がいて、書籍経由でもなんでもこちらが積極的に求めようとすると、何かしらの示唆を得ることができる。もちろんそれは気楽にできることではなくて、字面を追うだけでもそれなりの努力を必要とする(努力したからと云って理解できるとももちろん限らない)が、当然何もない曠野を開墾するよりはよほど効率がいい。

だから本当は、アカデミズムにストレートな実利性を求めるのは間違っているんだろうと思う。ぼく自身の話をすると、職業上の要請から言語学だの認知科学だのの基本知識が必要だと感じる羽目になる、なんて考えたこともなかったし、そう云う意味ではもともとある学問のどんな部分が最終的に世の中で必要になるのか、なんてことは多分誰にも分からないのだ。何でもいいからまずは突き進んで、そのうち誰かが必要性を感じたときに充分に使えるだけの成果までまとめておいてくれれば、それでアカデミズムの本来の使命は達成できている、と云う気がする。

できれば、ぼくみたいなとんまにもできるだけ手の届きやすいところに、成果を転がしておいて欲しいものだけれど。


タグ:雑談
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