音楽的本籍地 [音楽あれこれ]
他人のことはわからないので、これっておいらだけの話なのかもしれん。
ロックンロール兄ちゃんとして育った。多分、13とか14くらいから。
で、いろんなロックを聴いて、そこを振り出しに少しずつ聴く音楽の領域が広がって行く、と云う経緯を辿った。
だから、振り出しに近いところにある(縁続きの、なんと云うかリンクしているような)音楽であればあるほど、白紙に近い状態から聴いていることになる。だから、ブルースとかある種のソウルとかは、音楽を聴くときの背骨としてだいぶ深いところに食い込んでいる。浅井健一の言葉を借りれば、「俺の血はそいつで出来てる」ってえことになる。
較べると、ジャズとかクラシックとかをちゃんと聴く機会があったのは、18とかそれくらいの、云ってしまえばもうだいぶ絵の具がなすり付けられた状態になってからだ。「ちゃんと聴く」と云うのはこの場合、「面白がって聴く」と云ったような意味だけど。
だから評価基準も後付け臭いものしか持ってない。正直な話、ロックやブルースみたいに「分かる」訳ではないので、細かいニュアンスまで聞き取れない。はっきりと「これは違う」と云うくらいに凄いものでないと、よく分からないのだ。
特にジャズは入り口がよりにもよってセロニアス・モンクだったので、もうほんとに単に「上手い」とか「ハイセンスな」程度のものではほとんど何も聞こえてこない。もう身震いするくらい凄いものでないと、耳が鈍くて反応しない訳だ。
クラシックも変わらない。天才だの異才だのと呼ばれる人間の演奏しか、何かを感じ取ることが出来ない。それもロックンロール的な基準でだ。ポリーニには震えが来るが、同じ曲でもアシュケナージはイージーリスニングとどう違うのかよく分からない。
結局のところ音楽は酷く抽象度の高い分野のアートなので、若い頃にそれに触れるための素地をどんなふうに形成したか、というのが大事だ、という話なんだろう。
結局ロックではあるが、それでも聴いていてよかった。ここまで書いたような自分についての話を一般論化すると、例えばぼくの歳までちゃんと音楽を聴いてこなかった人間には、たぶんもはやチャンスはない、ということなので。
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